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 しょ〜と・ぴ〜す読書会第29回
『国家の役割とは何か』(櫻田淳)レポート      
レポーター 根本義明
平成16年7月4日
(以下、視点という形で私の感想や問題提起を織り込んであります。)

はじめに(レポーターより)
先日、竹田青嗣さんを囲んで、『近代哲学再考』の読書会をしたとき、竹田さんが、「国家権力」について次のようにおっしゃっていた。すなわち、

“国家権力そのものに良いも悪いもない。社会という枠組みを認める以上その存在は不可避である。あるのは、良い権力と悪い権力だけだ。だから、われわれは、良い国家権力を持つよう努力しなければならない。”と。

簡潔なコトバで国家権力なるものを考える上でのゆるぎない大前提をズバリ言い当てているように私は感じた。この透徹した認識を近代社会思想の哲学的基底に置くとき、次に問題になるのは、では、「国家」とはいかなるものであり、どういう役割を持っているのかということであろう。それこそ、本書が真正面から取り扱った内容である。本書は、そういう意味で、良い国家権力を構想するうえでの、まっとうなプラグマティズムの精神に貫かれているのである。

第1章 人間にとって「秩序」とは何か
「秩序」はなぜ必要か
・「秩序」とは:「 物事の条理、物事の正当な順序」「特に社会などの規則だった関係」
・「順序」こそが「秩序」

農耕社会の秩序と狩猟社会の秩序
・農耕社会の秩序:「年功序列」「亀の甲より年の功」
・狩猟社会の秩序:「 活力」や「一瞬の判断」の重視→若手の重視
*視点 現代は農耕社会的安定から狩猟社会的動乱期へ突入  秩序を形成する難しさ

家庭は社会秩序の基体である
・「恋愛」:結婚という手続きを通じて家族という「秩序」を作ることを目的とした行為という側面がある
・「恋人」「夫・妻」:「第一の優先順序」を付け合うこと
・一夫一妻制は、子供の教育に関して「誰が第一の責任を負うのか」を明確にした制度
・子供のしつけ:「秩序」を形成する営みの一つ 
        人間が「 社会的動物」であるゆえん;さまざまな「秩序」を受け入れることにある
・「秩序」は人々に「 存在証明」を与えるものでもある

「政治」とは何か?
・「政治」とは:「他の人々に対して自分が欲することを行うように働きかける営み」
→ 一定の「秩序」を築いていく
ex 恋愛 →本来政治とは誰にとっても身近な営み 優れて人間的な営み 
 (「政治」は「性事」!)

普通の人々の「政治」と政治家の「政治」
・ 扱う中身の複雑さや予想される結果の重大さにこそ、普通の人々の手がける「政治」と政治家や官僚が手がける「政治」の決定的な違いがある。
→「 分かりやすい政治」というのは形容矛盾

「政治」の残酷さ
政治は残酷なもの それを真正面から見据えるべき

「権力」とは何か?
・「権力」とは、他の人々に対して、「自分が欲することを否応なく行わせる」要件
・「男女の恋愛」は「政治」の典型。「子供の教育」は、「 権力」を背景とした「政治」。

「権力」と「秩序」は不可分
・「権力」が必要とされる理由:それが「秩序」に裏づけを与えるということ
・ 「どのような「秩序」が成り立っているのか」=「誰が「権力」を握っているのか」 
ex『ラスト・エンペラー』

「権力」が漂わせる妖気
・「権力」には妖気が漂っている それに近づく者の運命を狂わせるもの 人間の欲望の的
ex 「プロ野球の監督とオーケストラの指揮者は、3日やったらやめられない」
  『リチャード三世』 『マクベス』

*視点 「権力」は、生の営みのなかで実存的に抱え込まざるを得ない「ル・サンチマン」を解消するための格好の受け皿になるという幻想・妄想の存在が、「権力」に漂う妖気をもたらしている、とも考えられないか。

「政治」や「権力」の毒々しさを直視せよ
・「政治」や「権力」の毒々しさを直視することが、日本の政治意識の成熟を促す上で必要
・人間は高貴な存在であると同時に下劣な存在である現実を直視すべき

*視点 戦後民主主義における性善説的なヒューマニズムの克服ということか


第二章 恫喝よりも誘導、誘導よりも説得―――「政治」の三つの手段
〈恫喝〉は最も確実に人を動かす
・物理的暴力による恫喝:最も確実に人々を直接動かす方法
ex 『サザエさん』の波平の振る舞い ギリシャ神話やホメロスの叙事詩『イリアス』における女の略奪
  『愛と青春の旅立ち』 『七人の侍』

〈恫喝〉を用いるには賢慮が必要
・恫喝:危険であるがゆえに、よほどのことがなければ使えない手段→賢慮が必要

〈恫喝〉を用いるための条件とは?
・〈恫喝〉は、人々が個人の資格で用いるのは表立っては容認されないが、国家の統治という必要に基づくならば、それを適宜用いることが要請されることがある。
exマキャベリ『君主論』  毛沢東「権力は銃口から生まれる」 ブッシュの「アタッシュケース」

〈誘導〉という政治手段
・具体的利益による〈誘導〉;金銭が「具体的な利益」の典型

教育と情愛における〈誘導〉
・子供の教育における〈誘導〉;「言うことを聞かないと夕ご飯は抜きだぞ」「よい子にしてくれたらおもちゃ
を買ってあげるよ」
・「男女の恋愛」の場面での〈誘導〉;花束、宝石などのさまざまな品物を贈ること
・「自分の愛した女を金持ちの男に取られてしまった・・・」
 ex 『トロイカ』 『金色夜叉』 『嵐が丘』 『天国の階段』

〈誘導〉という手段の限界
・『百万本のバラ』の教訓
→〇〈誘導〉は、きちんとした「意図」を伝えなければ、政治手段としての意味を持たない。
 〇 多くの場合〈誘導〉は、ほかの人々を一時的に動かすためでなく、ほかの人々との持続的な関係を保 
 つためのものである。
・「金の切れ目が縁の切れ目」

象徴の操作による説得
・象徴:人間の心理に作用し、「共感」や「納得」の感情を呼び起こす一切の事柄
・象徴の具体例:身体的特徴 表情、姿勢、言葉遣い、立ち居振る舞い 家柄、学歴、職業上の威信

教育と恋愛における〈説得〉
・「子供の教育」における〈説得〉:父親・母親が子供たちに伝えるメッセージ
・「男女の恋愛」における〈説得〉:恋愛物語の本質は、男性と女性が互いに「共感」の獲得を目指して〈説得〉を応酬すること。

誠実さが〈説得〉のうまさを支える
・「色男、金と力は、なかりけり」:〈恫喝〉(力)や〈誘導〉(金)に頼ることなく〈説得〉(色)だけで女をくどくことの困難さを物語っている
・〈恫喝〉や〈誘導〉に安易に頼るのは「下策」。〈説得〉という手段を意識的にうまく使えるようにすべき。
・〈説得〉のうまさを支えるのは、結局のところ「真面目」や「誠実」といった徳目。

恫喝よりも誘導、誘導よりも説得
・1991年の湾岸戦争の際、アメリカは、説得→誘導→恫喝 という手順を踏んで戦争に突入した。
・政治は、〈説得〉〈誘導〉〈恫喝〉を駆使した技芸。そのなかでもっとも駆使されるべきなのは、〈説得〉

第三章 「力の体系」としての国家

・「力の体系」としての国家:「物理的暴力による恫喝」という政治手段によって、人々の「秩序」を保つ枠組
・國=□+或(戈)

近代国家の根本条件
・15世紀から17世紀にいたる近代国家生成の過程は、国家による「暴力」独占の過程
・民主主義の発展の過程は、君主が持っていた「主権」すなわち「ほかのなにものにも制限されない権力」を民衆が獲得する過程  ex 新生アフガニスタン政権 明治維新における徴兵令と廃藩置県の断行
・「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」という国家の3つの側面のうち「力の体系」としての側面に、国家の国家たるゆえんが現れている。「正当性」に裏付けられた「力の体系」を独占的に保持する点が、ほかの社会集団と国家が決定的に異なるところ。

国内秩序を維持する2つの枠組
・警察制度と司法制度

「力の体系」が抑圧装置になるとき
・「力の体系」の枠組が為政者の恣意によって使われる場合、国民の自由を抑圧する枠組になってしまう。
 ex スターリン支配下のソヴィエト連邦 ナチス支配下のドイツ 金正日体制下の北朝鮮
・しかし、「力の体系」が充分に機能しなければ、人々は無秩序の中でさまざまな脅威にさらされることになる
 →人々は、「万人の万人に対する闘争状態」が耐えられないものであればこそ、国家という名の「リヴァイアサン」と契約することによって、自らの身の安全を図ることにした。〔ホッブズの国家認識 自然権の放棄〕

日本の警察組織
・明治から戦前までの日本の警察組織は、内務省警保局の一元的な管理下にあった
・戦後、GHQによって内務省は解体のターゲットになる
・現在の警視庁は、国家公安委員会の管理下全国の都道府県警察の活動を調整することを目的とした官庁
・テロリズムの跳梁という現状→現在の警視庁を「国家警察」に衣替えさせる必要がある:著者の提案
*視点 これは実質的に「内務省復活」を唱えたものと考えてよいだろう。ここは、突き詰めた議論が必要なところ。

司法警察権を持つさまざまな機関
・海上保安庁:国土交通省管轄の組織 治安維持、海上交通の安全確保、海難救助、海上防災・海洋環境保全という業務の担当 近年、治安維持の業務が注目を集めている
・出入国管理官:法務省所轄 不法滞在者、不法入国者に対する捜査を担当する官職 武器の携行が認められている
・ 税関:財務省管轄 輸入物品に対する関税の徴収、輸入禁止対象物品の取り締まりを担当する機関
・ 国税庁査察官:財務省管轄 通常の税務署調査では手に負えない悪質な脱税行為の摘発をする機関
・ その他:防衛庁の警務隊、厚生労働省の麻薬取締官や労働基準監督官、総務省の郵政監察官、国土交通省の船員労務官、農林水産省の漁業監督官

司法制度の意味とは何か
・司法制度:「秩序」を乱した人物をしかるべき法律上の手続きに基づいて処断することを目的としたもの
・司法制度の第一の段階:裁判 「秩序を乱した人々に対して、どの程度まで国家の「強制力」を用いるかを
きめる評定 検察官と弁護士と裁判官

日本における刑罰の位置づけ
・司法制度の第二段階:罪を犯した人々に対する刑罰の執行 死刑、無期または有期の懲役刑 無期または有期の禁固刑
・死刑:国家の「暴力・強制力」が最も明確に表れた究極の刑罰 後藤田発言 死刑の存廃の議論
・日本の刑罰は、教育刑の色彩を濃厚に帯びている 外国人犯罪の増加→教育刑の役割の限界

軍隊の役割とは何か
・軍隊:国家の対外的な独立の確保を目的とした組織 共同体に属する人々の「自由」の確保という要請に基
づいて組織されるものであった 
・「資源」や「利権」を確保維持し、そこで生じる紛争を解決するために使われてきた

人間はなぜ戦争を繰り返してきたのか?
・それは、人々が「豊かさへの欲望」から離れられなかったから ポエニ戦争
・戦争を防ぐためのひとつの方策は、摩擦や対立の原因となる「資源」や「利権」を関係国が共同で管理すること ex ハリマン提案

戦争は「割に合わない選択」になった
・20世紀の戦争は、大がかりで、甚大な規模の殺傷と破壊を伴うものとなった
・戦争が「割に合わない選択」に
・戦争は国際法の上でも表立っては容認されない選択肢に
・国連憲章第二条四項 加盟国に対する武力による威嚇と武力行使の原則禁止

自衛と擬似「警察」としての軍隊に
・現代における軍隊の役割
・第一:他国からの攻撃を抑止し、抑止が失敗した際に自衛する手段としての役割 核抑止論
・第二:国際社会の「秩序」を維持するための擬似「 警察」 としての役割 9・11によって浮上
・国際社会は、完全な王道の場でもなければ、完全な覇道の場でもない。その絡み合いを考え合わせるのみ

日本の自衛隊は軍隊か否か?
・自衛隊は建前としては軍隊ではないが、実態としては軍隊

自衛隊はなぜ創設されたのか
・朝鮮戦争がきっかけ→米国の意向
・「日本を再び脅威となる存在にしない」→「日本を復興させた上で、日本に米国の世界戦略を補完させる」
・湾岸戦争 多国籍軍に130億ドルの資金提供 低い評価
・「資金提供だけでなく自衛隊を含む人員派遣による寄与」が要請されていることの実感
・9・11事件以降、テロリズム撲滅が国際社会の目標に→2001年11月 テロ対策特別措置法
・2003年5月 有事関連3法案成立 →日本の安全保障体制におけるソフトウェアの拡充

自衛隊を「普通の軍隊」に
・集団的自衛権の行使の許容に踏み切るべき
*視点 これは結局改憲に行き着く。個人的には賛成だが、いろいろと意見が出るところだろう。

「リヴァイアサン」を飼い慣らす覚悟を!
・ マックス・ウェーバー『職業としての政治』 「責任倫理」と「心情倫理」
・憲法9条は、ウェーバーが想定した「政治」が成り立つ前提を決定的に切り崩すもの
・戦後日本の保守政治家;曲がりなりにも「責任倫理」への意識をもつ しかし、田中角栄の登場後、〈誘導〉 
 が主な政治の手段であると錯覚し、〈恫喝〉の枠組みとしての国家の本質を見落とすことが顕著になる。
・革新政治家:何の衒いもなく「心情倫理」にのっとる振る舞いを続けてきた。
 →いずれも「リヴァイアサン」を飼い慣らす緊張感が乏しかった 


第四章 「利益の体系」としての国家

「利益の体系」としての国家の役割
・「利益の体系」としての国家:「具体的な利益による誘導」の枠組みの総称
・「利益の体系」としての国家の役割:「国富」を増大させるとともに「衣・食・住」の言葉に表される人々の最低限の生活水準を確保し、あるいは人々の間の生活水準の極端な格差を是正すること。
→国民としての一体感を保持し社会全体の安定を図るため
・このような認識は第2次世界大戦後のこと

近代戦争が「福祉政策」を生んだ
・「戦争」と「福祉」の間には切り離しえない関係がある。 
 ex ビスマルクの福祉政策 1942年イギリス「べヴァリッジ報告」→福祉国家
*視点 本来、非常時の政策だったものが平時の政策として継続したところに無理があったということか

「福祉国家」路線への批判
・「福祉国家」路線は社会活力の減退を招いた ex ビョン・ボルグ 
・1980年前後、サッチャーの「サッチャリズム」とレーガンの「レーガノミクス」の登場 一定の成果

新「自由主義」路線の限界
・貧富の格差の拡大、低所得者層のさらなる困窮

産業振興が「仕事の種」を増やす
・産業振興、民生安定、国土開発を通じて、「利益の体系」としての国家の役割は果たされる
・産業振興:農林水産省、経済産業省所管のもろもろの施策 「仕事の機会」を増やすことが目的
・エネルギー確保は、産業振興の条件 ex アラビア石油
民生安定と国土開発
・民生安定の施策:厚生労働省所管の生活保護制度、年金制度、医療保険制度、雇用保険制度 
         国民に直接に「富」を還流させる政策 近代国家の維持が目的
・国土開発の施策:国土交通省所管の鉄道敷設、道路建設、橋梁・港湾整備(いわゆるインフラの整備)

戦後日本と田中角栄
・国家の3つの側面のうち戦後日本において、もっぱら強調されたのは「利益の体系」の側面
・田中角栄は、「利益の体系」という国家の一側面を動かすことによって権力の階段を登っていった
 →日本の「戦後」を象徴する人物
・「利益の体系」という国家の一側面に寄り添い、「中央」の富を「地方」に還流するという手法を確立した
政治家。

田中角栄の「負の遺産」
・田中の政治手法を安直に真似する政治家が続出する  ex竹下登の「ふるさと創生事業」
・その結果、政治が創造性に乏しいものとなった 「万事が〈誘導〉を軸として型どおり進められている」
・小泉首相の誕生、長野県田中知事の誕生は、そういうことに対する国民の反発の表われ

「パン」と「サーカス」
・古来、民衆が要求するのは、「パン」(具体的な利益)と「 サーカス」(変化、興奮)
・「万事が〈誘導〉を軸として型どおり進められている」はパンのみの施策、「サーカス」がない。
 →だからやがては飽きられる(ということか)
*視点 「パン」と「サーカス」をそういう風に読み替えるのは非常に面白い。

「地方の振興」を促すために
・「地方」の諸都市が「人々を惹きつける条件」を備えることが「地域の振興」のポイント
・いくら道路を整備してもダメ 想像力の欠如

諸外国への〈誘導〉の意味
・諸外国への〈誘導〉:国際社会での「影響力」を確保し、自らが是とする「秩序」を築き上げることが目的
 1)超国家組織や各種NGOへの援助
 2)2国間の援助
 3)関税、貿易に関する施策、市場参入の保証

〈誘導〉が鮮烈な効果を生んだ事例
・国際政治の場裏で用いられた〈誘導〉の手段は、戦争の導火線に火をつけることがある ex真珠湾攻撃
・1973年、第1次石油危機を招き寄せたアラブ諸国による「石油戦略」

「カオナシ」は何を物語っているのか
・「利益の体系」としての国家の役割としての国家の意義と限界を物語っている 「現金引出機」

*視点 日本人のどこかしら物寂しい空虚感を抱え込んだ「自画像」とはいえないか
・ 国連憲章の「敵国条項」削除 常任理事国入り 課題


第五章 「価値の体系」としての国家

「私と彼とは同じである」
・「価値の体系」としての国家:本来ならば互いに面識のない人々に対して、「われわれは同じ国民である」と
いう一体感を与え、その下で、もろもろの社会秩序を維持することを目的とする
・「象徴」:「私と彼とは同じである」と確認する根拠

国民統合の象徴
・人的な「象徴」:国家や国民統合の中心に特定の人物を「象徴」 としておくもの。人々に対して、「自分は
同じリーダーを戴いている」という感覚を与えるもの。
・共和国における「大統領」 ex ユーゴスラヴィアのチトー大統領 「独裁」を生むことがある 
ex ヒトラー フセイン 金正日 
・君主国家における「君主」 ex 日本の皇室 英国や北欧諸国の王室 「独裁」が生じにくい
*視点 立憲君主制より共和国のほうが近代政治制度として進んでいるという固定したものの見方はそろそ
ろ見直されたほうがよいのではないか。ここも議論のあるところとなるだろう。

国家の「価値観」を表す国歌・国旗
・国歌・国旗:「その国は、どのような国か」 をもっとも簡潔に表す装置
   ex 星条旗 ユニオン・ジャック 5星紅旗 
    「君が代」 「ラ・マルセイエーズ」 「星条旗」  「義勇軍行進曲」
・自国の国歌・国旗に敬意を払いつつ他国の国旗や国歌を尊重するのは、当然の礼儀

民族意識が強固な一体感を醸成する
・民族意識:理屈というより実感に根ざしたもの (だから根強い) ex チェチェン独立運動 クルド民族
・それぞれの民族が自前の国家を持ちたいというのは自然な感情。しかし、世界で数千を数える民族がそれぞれの国家を持つと国際社会は収拾のつかない状態になる。
・他方で、安定した秩序を提供できる「帝国」という枠組みが持つ意義を積極的に評価する議論も出ている。

同朋意識を作り出す宗教と言語
・宗教:「正と邪」「善と悪」「美と醜」に絡む価値の基準を示す。それを共有できるかどうかによって「われ
われ」と「彼ら」の区別をする。「宗教の重さ」に注意すべき。
・言語:「私は彼と同じである」という感覚を最も直接に刺激するもの。

民族・宗教・言語は諸刃の剣である
・民族・宗教・言語が「国家」の枠組を弱体化するか強化するかは、各国の置かれた環境や歴史による
観念で国家を構築することの危うさ
・これは何度でも指摘されるべき
 ex 共産主義イデオロギー 米国流の自由と民主主義 中国の大躍進政策、文化大革命 
   カンボジアのクメール・ルージュによろ自国民虐殺 自国民国民あるいは他国民多大な犠牲を強いる

象徴としての歴史認識
・歴史認識をめぐる日本と中韓両国との摩擦:互いの「建前」を認め合うことが肝要
*視点 戦後の日本に象徴となるような歴史認識があるのか。あるいは、ないほうが良いのか。

芸術・文化は「価値の基準」を体現する
・芸術、文化も「その国をその国たらしめている価値」を具体的に表した「 象徴」 としての役割を果たして
いる。
・文学 これに触れることは、その国に住む人々の価値観や美意識に触れること
・音楽 人々の意識を感性の次元で揺り動かす力を持っている。 Ex シベリウス「フィンランディア」など
・絵画、陶芸、彫刻 

さまざまな象徴からなる「ソフト・パワー」
・芸術・文化活動を通じて広められた象徴は、「国内」での「一体感」を刺激するとともに、対外的な影響力
を確保する手段としても機能する。
・軍事力、経済力;「ハード・パワー」 文化・芸術の対外的な影響力;「ソフト・パワー」→「グロス・ナシ
ョナル・クール」の概念
・アメリカの影響力の大きさは、「ハード・パワー」のみに基づくものではなく、映画、東京ディズニーラン
ド、ハンバーガー、コカ・コーラなどの「ソフト・パワー」にも基づくものである
*視点 プラグマティックなアメリカ人が考えそうなことだと思う。日本では、戦後、プロレタリア文学の
根本的再検討という形で、そういう「ソフト・パワー」的な発想は根本的にダメということになっていると
いう認識が私にはある。ただし、国家の頂点に位置するパワー・エリートが、そういう発想をもつのは理解
できる。

教育制度は「価値の基準」を伝達する

外国楽曲の導入に見る「明治人」の気概
・『埴生の宿』は『Home sweet home』の翻案
・『故郷の空』は『Comin'thro'the Rye』の翻案
・それらの歌詞に日本人が大事にしてきた「価値意識」を反映
・明治後期以降、自前の歌曲が作られるようになる。『春の小川』『朧月夜』『われは海の子』などの文部省唱
歌 歌詞の変遷

栄典制度の意味とは?
・栄典制度:「立派な行い」をした人々に対して国家から、さまざまな名誉や利得が提供される制度
・立派さの基準:国家が体現する「正と邪」「善と悪」「美と醜」の価値の中身が反映されている
・ 栄典制度:「正と邪」「善と悪」「美と醜」の「価値の基準」 を確認する機能がある

国家がメディアに介入するとき
・原則としてあってはならないこと
・しかし、執政担当者は、メディアを通じてもろもろの「象徴」を操作し「国内の統一」 を図ろうとする
 ex フランクリン・ローズヴェルトの「炉辺対談」 チャーチルのラジオを通じた国民への呼びかけ
・1989年の東欧民主化の底流には、東欧諸国全体で数万世帯の人々がパラボラ・アンテナで西側諸国の衛星
 放送を視聴していたという事実がある→メディアの大きな力

「価値の体系」と「偏頗心」
・福沢諭吉のいわゆる「偏頗心」:その本質は、「私は彼と同じである」という感覚
・近代国家は、その「偏頗心」によってなった政治上の枠組み
・「力の体系」「利益の体系」;半ば人間の動物的な欲求に応えるもの
・「価値の体系」:「自分は何者であるかという問いに答えを見出したい」 という人間ならではの欲求に応える
もの 独特の重みがある

第六章 揺らぎだした国家の姿 ―――グローバリゼーションと国家

揺らぎだした近代国家の枠組み
・ヒト、モノ、カネ、情報が当然のように国家の枠組を越えて行き交うようになった→近代国家の揺らぎ

グローバリゼーションの「光」の側面
・「外国が身近になった」
・海外渡航者数の増加
・海外在留者の増加
・企業活動の国際化
・「才能」の国境を越えた活躍

グローバリゼーションの「影」の側面
・事件・事故に巻き込まれる人々の増加
・テロリズムの被害の発生
・外国人による犯罪の激増
・伝染病・感染病の伝播

国境を越えて広がる「暴力」
・国と国を隔てる「壁」の隙間から続々と入り込んでくる「毒蜂」としての個人や集団
・その代表は、テロリスト・グループ  ex IG
・テロリスト・グループは、イデオロギー、民族、宗教に絡む政治的主張を通すために、無差別にして突発的
な暴力を利用する。そのことを通じて。「大義」を実現しようとする。
・各国のマフィア、中国・蛇頭、香港・三合会、日本の暴力団などの国際犯罪集団も「毒蜂」

さまざまな「毒蜂」に対処するために
・さらなる国際提携の必要 
・テロリズムを封じ込めるためのさまざまな国際提携の枠組み
・国際犯罪組織に対処するための国際提携の試み(P211〜P214)

「毒蜂」の攻撃に対処する特殊部隊
・テロリズムの跳梁は、軍隊と警察の活動の境界をあいまいなものにしている→特殊部隊
・英国のSAS、アメリカのデルタ・フォース、SEALs、フランスのRAID など
・日本;陸上自衛隊第一空挺団や海上自衛隊特殊警備隊 特殊作戦群 
・警察関係では、SAT SST NBCテロ対策部隊
・海上保安庁 SST
・海外の特殊部隊との国際協力

「利益の体系」としての国家への影響
・グローバリゼーションによって、「市場」 のなかで、自分を高く買ってくれるところならば人々はどこにで
も移転するし、上質な人材や原料を安く調達できるところならば企業はどこにでも移転する、という事態が
起こっている。

「世界市場」で何が起きているのか
・プロ・スポーツの世界は人材の流動化が顕著
・多くの企業が生産拠点を続々と海外に移転させている
・タックス・へイヴン テロリストや国際犯罪組織の悪用の可能性
・通貨危機

グローバリゼーションにおける三つの施策
・観光産業の振興
・国際空港や港湾の整備は早急に断行すべき
・年金制度の問題 「そもそも国家はすべての国民の生活を一律に保証する役割を担う必要があるのか」とい
う根本的な視点を踏まえるべき
・「利益の体系」としての国家の役割は、人々の「自助努力」を奨励し、それを支えることしかない。
*視点 ここはぜひ話し合ってみたい。

「価値の体系」としての国家への影響
・文明の衝突?
・異なる価値を持っているから、反発が生じるのではなく、「 仕事の種」を奪われるから、そのことへの反発
が異なる価値の対立として表面化するのではないか
*視点 竹田さんが、前回の読書会で、「近代市民社会は、経済格差の問題を抱えることで不可避的にル・サ
ンチマンをもたらす。それが信念対立をもたらす。経済格差の問題を解決することが、信念対立の解消の核
心だ」といっていたのを思い出す。その観点と通じるものを感じる。

「価値の体系」としての国家の行方
・逆に、「価値の体系」としての国家が本来持っていた役割がこれまで以上に大事になってくる。
*視点 神経症的なショービニズムが惹起する危険性がある
・各国の「価値」や「独自性」 はますます大切なものとなるけれど、それは(共通の了解)への指向をもっ
たものとならなければ、説得力をもたない。
・国境を越える義務の引き受けの必要 核兵器や大量破壊兵器の管理 環境危機

「普通の国」と「グローバリゼーション」の間
・ここ10数年の政策論争の本質は「普通の国」路線の是非をめぐるもの
・「普通の国」路線は不可避
・ただし、それが実現されたとしても、国境を越えた政策課題は丸々残ることを肝に銘じるべき
・時代の要請に応じた「国家」の役割を考えることは、「善く生きる」ための条件を考えることでもある
     
* 読書会を終えて 
自衛隊のイラク派遣に関して、櫻田さんは、      
「自分がアメリカ人だったら、イラク侵攻に反対したかもしれない。ただし、私は日本人だ。日本の立場からすれば、ここは人道支援という形でアメリカの路線を援助して、外交上のポイントを稼いでおくのが得策と判断する。大統領選挙で政権が交代してもその実績は消えない。その稼いだポイントあるいは積み上げた実績を前提に今後の外交交渉を有利に展開する。それが、自衛隊のイラク派遣を支持する根拠だ。」と述べていた。プラグマティスト櫻田の面目躍如の観がある。ずいぶん説得力のある切り口である。

以上


                                       
ショ〜ト・ピ〜スの会
  第29回読書会                   2004年5月9日(日)

『現象学は〈思考の原理〉である』(竹田青嗣著)の要約

リポーター 村田 一 
本書は小浜逸郎さん・佐藤幹夫さんが主宰する「人間学アカデミー」第一期「心の意味を問い直す」の講義の講義録から生まれた本です。2002年4〜6月に竹田青嗣さんが『方法としての現象学』というテーマで講義されたものがベースとなっています。

本書の大きな枠組みは、@現象学の方法の本質(「現象学的還元」)を明瞭に示し、A現象学の現代的意味(「信念対立」の克服の原理)を捉えなおし、BC現象学の方法を「言語論」と「身体論」に持ち込んで「言語の本質」、「人間的身体の本質」を取り出す試みを行うというものです。
(・・・序より)(p.21〜22) 
                  
以下、下記の目次にしたがって要約を試みます。
序 現象学は哲学の可能性を拓く      上記の枠組みの番号
T 「思考の原理」としての現象学       ・・・@
U 時代閉塞を乗り越える原理――現象学の射程 ・・・A
V 言語の現象学              ・・・B
W 「欲望論」原論              ・・・C
結 現象学は「本質」についての学である 

序 現象学は哲学の可能性を拓く
 現代の哲学者の間では、フッサール現象学は近代の「主観-客観」二元論の観念論的克服を試みたが、十分でなかったというふうに誤解されています。しかし、われわれ〈竹田・西(研)〉は、‘フッサールの現象学は、近代哲学の中心課題であった「認識問題」、つまり「認識の謎」を解決する原理論としてもっとも深い原理に達している’と捉えています。‘フッサールは近代哲学の「観念論」の方法と意義と限界をとことん追いつめて、哲学のより深い方法原理として鍛え直した’と考えています。哲学の方法をさらに展開するには、現象学の方法の本質を正しく捉え直し、ここを新しい出発点とする以外にありません。(p.18)

T 「思考の原理」としての現象学
1 現象学的「還元」とは何か
・現象学の創始者フッサール(1859-1938、ドイツ哲学者)は、ベルクソン(1859-1941)、フロイト(1856-1939)、マックス・ウェーバー(1864-1920)とほぼ同世代であり、ハイデガー(1889-1976)は直弟子です。(p.24) フッサールの提唱した「現象学的還元」の方法は、近代哲学の流れでは、カント、ヘーゲル、ニーチェにつづく、つぎの原理的展開です。(p.29)

・「現象学的還元」とは、人間が基本的にもっている二重の視線〔「実存的(=主観的な)世界視線」と「客観的な世界視線」〕をいったんすべて片方の「実存的な世界視線」に置き戻すことです。(p.33)

・「現象学的還元」の例として、‘薄暗がりの中、目の前に白い紙が一枚あり、それを「私」は近づいてよく見る’という知覚体験を自分の「意識体験」として内省によって記述してみます。すると、つぎの(1)〜(3)の「本質構造」を取り出すことができます。(1)われわれが“現に”知覚しているのは一部だが、それをとおしてつねに全体を志向的に知覚(=感得)している。(2)「物」の知覚には、中心的対象の知覚とその周りの背景(=意識の庭)という構図がつねにある。(3)知覚体験には、主体の側から「注意を向けること」(=配慮)という側面がある。(p.47〜48)

・これらの「本質構造」(誰にとっても「共通項」と考えられるもの)を取り出すことを還元といいます。(p.52) なぜこのような「共通構造」=「本質構造」を取り出す必要があるか(何のために「還元」行うのか)というと、著者の考えでは「確信成立の条件と構造」を解明するためであり、このアイデアが現象学という方法の最大のメルクマールなのです。(p.53)

2 認識、真理、普遍性
・「認識問題」を解明するには人間の認識の構造を「信憑構造」として捉え、この構造の共通本質を取り出せばよい。(p.55) すると、次の(1)から(5)の帰結が得られます。(p.67〜68)

(1) 「絶対的な真理」というものは存在しない。
(2) しかし逆に、共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学的、学問知、精密な学といったものが成り立つ可能性が原理的に存在する。
(3) 共通了解が成立しない領域は、宗教的世界像、価値観に基礎づけられた世界観である。
(4) (1)〜(3)が自覚されると、宗教、思想(イデオロギー)対立を克服する可能性の原理〔世界観、価値意識の「相互承認」という原理〕が現れる。
(5) 異なった世界観、価値観の間の衝突や相剋を克服する原理はただ一つ:それらの「多様性」を相互に許容しあうことである。

3 「確信成立」の条件を解明する ・・・ 現象学的還元による方法:リンゴの存在確信
・目の前にあるリンゴの存在について確信をもつにいたった条件と確信成立の構造を明らかにするために、ふつうの自然な考え方の順序を“ひっくり返す”。(p.74)

・「いま目の前にリンゴが存在しているので、赤くて、丸くて、つやつやした様子が私に見える」、という考えをいったん中止して(これがエポケーです)、それを、「いま私に赤くて、丸くて、つやつやした様子が見えている、だから私は目の前にリンゴが実在しているという確信をもつのだ」、という考え方へと変更する。(p.74)

・「世界観」の信念の対立を克服する原理としては・・・世界観についての信念を絶対的なものとして「前提」するのを止め、なぜそのような信念が成立したのか、という信念成立の条件を遡って問う・・・という方法しかありません。このときはじめて、どれが正しい(客観的な)世界観かという問いは終焉し、世界観の多数性の本質的理由が明らかになるからです。(p.75)

U 時代閉塞を乗り越える原理――現象学の射程
4 「信念対立」を克服するために
・ヨーロッパ近代社会の矛盾と危機を克服すべく登場したマルクス主義も、マルクス主義に代わるものとして登場したポストモダニズム思想も、「信念対立」を克服する根本的な原理を作り出せませんでした。(p.96〜97)
・現在のさまざまな“現代の乗り超え”の思想は例外なく「近代」「資本主義」「国民国家」を相対化する思考ですが、その先の本質的な構築へと進み出ないかぎり、知識人の精神のうちでの永遠の現実否定という悪循環が続くだけです。(p.102)

5 哲学は社会原理を立て直す
・社会原理を立て直す思考の例としてハーバマス(1929〜)の提唱する「対話的理性」が挙げられます。われわれは、さまざまな考えや意見が絶対的な「一致」をみることなどはないという直観をもつ一方で、一定のことがらについて何らかの「妥当性」や「正当性」があるはずだという感覚をもっています。(p.103,108)

・「近代社会」の本質は、各人が「自由」を自覚しそのことで社会がゲーム的本質をもつことを成員が自覚している社会であると考えると、社会の一定の公共的問題(基本的ルールの設定の原則)について、必ず基本的な共通了解が成立し、共通了解の領域が現れます。この領域においてハーバマスの「対話的理性」や「妥当要求」の考えは有効性を持ちます。(p.111)

6 イデオロギー的思考の終わらせ方
・近代思想は必然的な理由で「イデオロギー対立」の構造を作り出しましたが、まだこれを克服する原理を見出していません。現代の政治的主張(思想的主張も含めて)も「イデオロギー性」を帯びる傾向をもっています。(p.112,119)

・こうした事態を越えるには、「イデオロギー的思考」が立てている暗黙の“前提”それ自体を問題にし、何がより深い前提とされるべきかについて原理的な再構築が必要で、そのような原理論の場面で現象学が重要な役割をはたすのではないか。(p.121)

V 言語の現象学
7 現代言語哲学の挫折
・近代哲学から現代哲学・現代思想への移行の重要な特質は、その主題の中心が「観念」から「言語」(言語哲学)へと移動しました。ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)、デリダ(1930〜)が代表的です。(p.125)
・しかしながら、彼らは言語の「使用」や「用法」を事実主義で規定しようとするのみで、「言語」ゲームの本質を理解できていません。(p.130〜131)

8 「言語の謎」を解く  ・・・  ※「すべてのクレタ島人は嘘つきであると、一人のクレタ島人が言った」
・言語哲学は@言語の多義性A言語規則の規定不可能性を「言語の謎」として問題にしてきました。形式論的分析をこととする言語哲学ではこの「謎」は解けませんが、現象学ではこれを「本質学」として解くことができます。(p.136〜137)

・そのキーワードは「言語の信憑構造」と「一般言語表象」という概念です。(p.143)
・“聞き手が、発語された「言語」を介して、つねに発語者の「言わんとすること」をめがけ(志向し)、その確信が成立することで言語行為はそのつど成立する。”これが、言語の「信憑構造」の本質的な図式です。(p.145)

・日常的な言語の現象では、たいていの場合、「発語者」と「受語者」の暗黙の関係が想定されている〔これを現実言語と呼ぶ〕が、言語からこの発語者-受語者の暗黙の関係をそっくり抜き取る〔これを一般言語表象と呼ぶ〕と、「一般的な意味」しか表示しない言語となり、「クレタ島人のパラドックス」(上記※)となり、言語の謎が生じます。(p.155)

・言語の多義性や規則の規定不可能性の問題自体、じつはなんら新しい問題ではなく、近代哲学がずっと問題にしていた「認識問題」の“言語論的変奏形態”なのです。(p.160)

9 「意味」とは何か ・・・ ハイデガーを補助線として
・「意味」のもっとも根本的な本質は、生き物の「実存」から発する「情状性-了解」(すなわち、情動の動きと、これに応じた何らかの存在可能へのめがけ)から立ち上がる、世界の有意義性の連関の絶えざる編み換えということにあります。(p.171)

・実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語することの基本的「動機」であり、またそれが「現実言語」の「企投的意味」の本質です。さらに、このような関係行為としての言語による「企投的意味」の集合的な痕跡(積み重なり)として、言語の「一般意味」(辞書的意味)が成り立っているのです。(p.172)

W 「欲望論」原論 ・・・ 言語本質論から「欲望論」(身体論・社会論)への展開
10 「意味」と「価値」の原理論へ
・「意味」の本質(言語の意味ではなく)は、主体がそのつど存在可能として世界に向き合うときに生じる、主体-世界の意義関連性です。(p.188)
・「価値」とは、世界の意味の連関を開示するそのつどの主体の「生への意志」なのです。そして著者はそれを「欲望」の概念で呼びます。(p.189)

11 <世界>そして<身体> 
・客観主義的には、世界とは物質としての実在世界(=自然世界)であり、客観的世界です。しかし現象学的には、「世界」は、ある「主体」(=意識ある生き物)に生きられている固有の意味と価値の領域性であり、必ず「欲望=身体」としての「主体」の相関者として現れる「世界」です。(p.195)

・「身体」とは主体にとって、まず「快-不快」「エロス的可能性-不安」というエロス的な情動を告げ知らせるようなものです。著者はこの内的な“告げ知らせ”を「到来性」と呼びました。これが身体が「身体」である第一の本質契機です(p.203)

・「身体」のつぎの本質契機は「能(アタ)う」です。それを通して世界の秩序を受け取り、それを動かしたり操作したりして、私がさまざまな目標や目的に達するための「能う」(できる)の可能性の条件となるもの、それがわれわれにとっての「身体」の核心的な意味です。(p.204)

12 幻想的身体性
・ここまで見てきたことを少し違った角度から整理すると、人間的<身体>とは、言葉(意味)によって絶えず編み上げられ編み換えられている「エロス的感受」と「能う」の体制である、ということになります。(p.215) 〔『アヴェロンの野生児』の例:野生児がやがて文化的な習慣をみにつけていく事例〕
・「身体」は必ず中心的なエロス的体制をもちそれを変容させていく、体制の「中心性」が少しずつ編み変わっていくということです。(p.218)
・人間を可能性としての<身体>として駆り立てるのは、いわば「意識」を超えた非知なるものとして到来してくる「情動」(欲望、感情)なのです。(p.223)

13 エロティシズムの「起源」  ・・・ 人間的な性の幻想
・現象学では「欲望」の起源は何か、欲望一般を“可能にしているものは何か”と問いません。「欲望」は経験としての現事実だからです。(p.242)
・現象学的な本質観取からは、男性のエロティシズムの欲望の一般的意味は、美的なものを侵犯するという幻想によって、日常的に制限されている「自己中心性」を一瞬開放することですが、その本質は自己中心性の欲望の擬似的開放ではなく、このことを通して、生の実存的な孤独を乗り超える意識の中で“生のロマン幻想を味わう”ことです。(p.244)

結 現象学は「本質」についての学である
・人間の世界を事実としての世界ではなく、「関係の世界」、すなわちたえず「意味」と「価値」の連関として編み換えられている「関係の世界」として捉えること。これが「世界」を「本質」として捉える視点の核心です。(p.251) 
・事実学をやめよ。それは結局信念の対立と、したがって権威づけられた思想どうしの対立に帰着するほかない。本質学を開始せよ。(p.263 あとがき より)         ●以上です●

【感想】
・現象学における、ものの考え方の原理論(本質学)を言語論、身体論にあてはめているのが本書の特徴だとます。言語論において「言語の謎」を解いて言語の本質にせまるところは大変納得がいき、すばらしいと思いました。ポストモダニズム思想批判として大変な迫力を感じました。

・いままで、現象学のことをあまり知らない人(例えば会社の後輩など)に現象学を説明する場面では私自身がうまく説明することができなかったのですが、今回の本での言語論への適用を使うとうまく説明できる気がしています。



第28回読書会            2004年3月14日(日)
『やっぱりバカが増えている』(小浜逸郎 著)
司会 由紀草一

レポーター 
内海新祐

本書を貫いているもの

本書は、著者がこの数年(初出掲載年は、一番古いもので1999年1月、一番新しいもので2003年7月)の間にいろいろなところに寄稿してきたものと一編の書き下ろしをある趣旨の下に編んだもの。いろいろな領域に亘る、いろいろなテイストの文章があり、個々を独立に味わうのもよいのだろうが、せっかく一著として編まれているので、著者の現在の思想に近づくために、本書全体を貫くものを確認しておくのがよいだろう。

本書「あとがき」によれば、本書の目的は、「性や犯罪や家族や教育といった、それぞれの生活者に直接かかわりをもつ問題に関して、上からの『社会的な』語り口や介入の仕方の一部が、いかに『常識』を逸脱した文化破壊的なものであるかをえぐりだすこと」(本書p216)

 とある。「文化破壊」は本書の一つのキーワードと思う。著者は「文化破壊的なもの」に危惧を覚え、あるいは怒り、そして批判している。何が「文化破壊的なもの」になりうるのか? 本書では、「『個の絶対自由主義』ともいうべき安易な思潮」がその背後にあると見定めて、狙い撃ちしている。

――「自由」は確かに良きものだろう。しかし、「自由の享受」のためには引き受けなくてはならないものがあるはずだ。これを忘れたまま「自由」だの「人権」だのの“概念”をそれぞれの勝手な解釈のもとで振り回すのは「バカ」だ、と。

・ 忘れて振り回す人=バカ。それはこんなふうにおかしい。影響力の分、重罪。(第1章)
・ 忘れて振り回している・されている社会=バカ社会。なんとかしよう。(第2・3章)
これをまず押さえた上で、本編に入っていこう。
(以下、あまり人間味のあるレポートではありませんが、節ごとに要約を試みます。)

第一章 この利口バカな小権力者たちを見よ!
1.上野千鶴子
 上野千鶴子氏は、フェミニストの元祖のように思われているが、実はそうではない。がちがちのフェミニストみたいなことをいっていたかと思うと、「自分の考えているフェミニズムはこんなものじゃないといった式の超越的な『自己神格化』をやってみせる」(p21)。思想的に何を目指しているのかは韜晦するのでよく分からないが、なんだかんだといいながら結局は、「奥深いところで『性差を否定して個の絶対自由を求める』という教条主義に骨がらみになっているところがある」(p26)。著者はそういう教条主義を否定する。ただ「大人同士の個の自由、性の自由」を言い立てる人は、個人の性愛関係のややこしさや子どもの養育責任、財産権、感情を視野に入れていない。わがままである。家庭・結婚制度・一定の性別役割の成立根拠もそれらを視野に入れると見えてくるのだ。

2.斎藤学
 斎藤氏は、家制度は女性を家に閉じ込めるものだと断じ、閉じ込められた女性に出産・育児の責任がかかりすぎることが少子化・児童虐待等の問題の原因になっているので、女性が子育てに専念するのはやめて乳幼児の母もフルタイムで働くべきであり、その際の預け先に良き社会的父が見出されるだろうから家庭に必ずしも男は要らないと述べている。シングルマザーが増えた方が子どもにとっても良いとさえいう。

 とんでもない話だ。性別役割に対する認識も、児童虐待や少子化現象の評価や成立要因の理解も誤っている。少なくとも偏っている。裏づけをきちんと調べもしていない。以上の見解は、「家族」と「個人」を対立的にとらえて前者を否定し後者を選ぶ一部のフェミニズムの意見に迎合したものである。「これらはずべて、『家族を解体して個の原理を前面に押し出す』という大人の手前勝手な動機にもとづいたイデオロギー的な屁理屈であって、結果的に子どもにとっての私的で親密な養育環境の大切さを無視した社会ファシズムに修練するものだ」(p37)。斎藤氏にはその自覚がまったくない。

3.寺脇研
 子どもの学力は低下している。「ゆとり教育」は間違いだ。それを推し進める際の現実認識がそもそも間違っている。すなわち、つめ込み教育・競争などで子どもは苦しんでいない。子どもの自殺は増えていない。学力をつけることと「個性」「想像力」は対立しない。教える内容を少なくしても易しくしても、分かる子は増えない。だいたい、教育はその時々の子どものためにあるとする考え、すなわち「お子様中心主義」がまちがっている。「教育は、どんな文化・社会にあっても、それをいま受けている子どものためにあるのではなく、私たちの共同社会の秩序と繁栄を未来においても維持するためにあるのだ。」(p43)

 「ゆとり教育」の害悪は、「できる子」「出来ない子」が二極分化し、知的・社会的・経済的「中間層」がごっそり下方にひっぱられるところにある。「フリーター志望者」(若年失業者)が大量発生し、居場所のはっきりない「精神的ホームレス」もふえるだろう。これは、国家全体の治安問題にも関わってくる。(p48)

4.立花隆
 立花隆氏の脳死論の概要は、「@脳死は人の死である。A真の脳死は「機能死」ではなく、脳細胞の壊死を意味する「器質死」として捉えられるべきである。Bゆえに脳死判定には、現在の最高の医学知識と医療技術を用いて、器質死を確認できるにたる最大限の努力が払われるべきである。という三点にまとめられ」(p55)る。彼は「人の死を『生物学的な固体生命の死』に限定して考えている」(p58)。しかしそれは、人間が文化共同体的な存在として生きているという事実、そしてそのことにまつわる心情をみくびっている。「『人間の死』とは、単なる固体生命の死ではなく」、「その人をめぐる共同関係の解体と変容が生者に及ぼす波紋の全体である」(p62)。立花氏には素朴な「西欧的自然観」信仰があり、哲学的、実存論的視線が欠落しているのである。人間を論ずるとき、この視線を欠いてはならない。素朴な科学主義・客観主義であってはならない。なぜなら、「人間という存在は、現世における限られた、個々の関係から生ずる一見小さな心身のやりとりに終始しながら生を送る存在であり、それをとおして味わう哀歓の相(煩悩と呼んでもよい)から、たやすく逃れることがけっしてできない存在だからである。」(p65)。

 (立花氏が信仰するような)キリスト教的な自然観・世界像が西欧近代の繁栄に及ぼした影響力は否定すべくもないが、私たちは、「この巨視的、客観的な世界像が、じつは、それぞれの人間が一回かぎりのこの現世そのものを主体的に引き受け、いかなる飛躍した超越的な観念にも託さずに、それ自身において肯定して生きるという実存的な態度を否定する危険をはらんでいることも見ておかなくてはならない」(p68)。

第二章 社会をめぐるおかしなおかしな非常識

1.「対話」はどこへ行ったのか
 「最近の日本人」には他者とのコミュニケーションに対する小心な怯えと倦怠感があるように思う。「対話」は確かにしんどいときもあるけれど、「人生どちらに転んでも大したことはない、という腹をくくった覚悟をお互いにもう少し日々の実践に生かそうではないか」(p74)。例えば池田小の事件にしても、もっと直截な感情が表明されてもいいはずだ。これを軸として、「応報刑」の考え方を真剣に再検討すべきではないか。

2.「きずな」は薄れるだけなのか
 現代の人間関係が希薄になったという印象の由来は、豊かな近代都市社会の完成に求めることができる。ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという二項概念的把握にもとづく人間関係への危機意識は、実はどの時代にもフィットする便利な思考法だ。しかし、ゲマインシャフトという枠づけは、マクロ的、現象的過ぎ、例えば「地縁社会」と「家族」(どちらもゲマインシャフトと目される)の原理的違いを区別できない問題点がある。近代はむしろ「家族」や「私」的きずな(を求める気持ち)を強める方向にはたらいてきた。地縁関係と規範のしがらみを離れた分、「私」的きずなは不安にさらされ孤独感を深めているが、反面それは、人間関係に対するまともな渇きを抱えていることの表れでもあって、「その『まともな渇き』のあり方に人間関係再構築の希望を見出すことも不可能ではない」(p81)。
※どのような形の再構築がイメージされているのだろう。

3.オウム信者に人権はないのか
オウム信者にも人権はある。麻原のいないオウムには、破防法を適用するに値する組織としての力量はもはやない。徒に締め出したりおいつめたりすれば、一部の信者が反社会的鬱憤を未組織的に爆発させかねず、その方が組織的なテロ行為への恐れよりも危険大である。ここで、理念的方向を示す(p95)。「近代社会においては、公式的な相互承認に基づく政治決着という外面的な<儀式>を一つの足がかりとする以外に、物事を進展させる道はないのである」(p95)。
※原理・原則論によりかからない、著者の思考・態度がよくわかる。特に、P87。

4.カルト宗教の向こうに何があるのか
 カルト宗教の向こうには、大きな神話を喪失したことによる不安と孤独がある。これは近代社会が「個」を解放し、生の自由選択の度合いが拡大したことと表裏をなす。「今日だれもが小さな神話を合成しながら生きることから避けられない」(p99)。「ケータイにかじりつくことと宗教に引かれることを等価と見なす視点を持つことも大切だと思う」(p99)。

5.退屈が新しい「殺人衝動」をつくりだした?
 少年の凶悪事件は、世間が騒ぐようには増えていない。また、病的で異常な事件は確かに昔もあった。しかし、これを踏まえた上でなお、昨今の「一連の少年事件には、やはり時代の特徴が微妙に現れていると考えるべきである」(p105)。昔のような、「『熱く鬱積したものをぶちまけた』という感じが希薄で」、「むしろ『熱く鬱積したもの』をどうしてももちえないために、そういうナマの実感を何とかして得たいとする焦りから凶行に及んだという印象が強い」(p106)。現代は、そういうものを持ちにくい時代状況の中にある。事件はこうした「退屈と焦燥の時代のゆがんだ鏡として総括できるだろう」し、犯人たちは、「みなバランスある社会的自我を構成することに失敗している」。「身近な生活の中で心身をよい意味で他者と激しく交流させる機会に恵まれてこなかったのではないか」(p112)。「私たち大人は、子ども自身が、ある年齢からはもうただの子どもではなく、半分は社会に向かって開かれた責任ある大人なのだということを自覚できるような状態をつくりださなくてはならない」(p113)。

6.十二歳は子どもなのか
 2003年7月の長崎での殺人事件を機に、世間は、12歳という年齢を、法的責任を問うべき「大人」と見なすべきか、まだ「罪」の何たるかを知らぬ「子ども」とみるべきか、に関心を集中させている。しかしまず、「そもそも『犯罪』という概念は、何を条件として成り立つのかについて本質的なレヴェルから考え直すこと」(p115)が必要である。ある行為が「犯罪」かどうかは、少しも自明ではないからである。その条件は4つある。(→p116)

 今回の事件で問題となるのは、そのうちのBである。理非曲折のわきまえを一般的に測る有力な尺度が「年齢」だから刑事責任を問う際に年齢が問題になるのだが、これは国によって違う。それは、「法による規定とは、自国の秩序を守るための、ある特定の人為的・社会的な『まなざし』の投げ方」(p121)だからである。ゆえに、法的な責任主体としての年齢については「日本には日本の切り分け方があってよい」(p123)。そして、それは日本において、子どもがどのように責任主体として自立していくかという問題と不可分であり、日本の家族の特性やこれからのあるべき親子関係と連関させて考えなくてはならない。それにつていの著者の考えがp124-125にある。日本の乳幼児期の「母子密着」はとてもよい習慣で、「母子親和」というべきである。これを思春期以降も引きずるのが悪いのであって、母子でない第三者を媒介に適切なタイミングで突き放していくべきである。また、大人になるために、「思春期とは、大なり小なり『悪』をなすことが必然であるような時期である」と大人は了解すべきであり、「自立」を実感する方法として「労働」が考えられる。

第三章 性と家族の迷走を糺せ

1.男女はどこまで「平等」なのか
 『模範六法』を読んでいての著者の感想。成文化された「法」というルール体系はとりあえずのマニュアルに過ぎず、その時々の裁定者の主体的判断こそが決定的である。また、美しく整序されたものでも全然ない。「人間が言葉によってこの現実世界を切り分けていくことの限界と制約をもっとも象徴している」(p130)。強姦罪に「性差」が明確に反映されているのは健全なこと。

2.ジェンダーフリー教育はなぜ「愚か」なのか
 答え:「非常識」だから。「性に関する常識の根拠そのものは『秘匿性』あるいは『羞恥心』を原則としており、この原則を無視して踏み破る方向に人々を導くような『公開性』や『平等性』の思想は、人類が持つ普遍的な文化秩序を破壊する『非常識』に必ず帰着するということである」(p134)。「観念的な性別否定は、私的生活の自由と多様を抑圧するヒステリックな全体主義に必ず結びつく」(p135)から。

3.夫婦別姓はなぜ間違いなのか
 別姓論議は、漠然とイメージされているような進歩的個人主義vs保守的共同体主義などではない。「現行制度は古い『家』制度の伝統を守るものなのではなく、むしろそれに代えて、夫婦一体性の理念を強調したすぐれて近代的な制度なのである」(p142)。したがって、なので、別姓を支持することは実は、古い「家」制度の欲求をも満たすこと、同姓を支持することは、近代主義的な結婚観、家族観に立つことを意味するという事実をきちんと自覚すべきだ(p143)。

 著者は、はっきりと別姓反対、同姓賛成の立場に立つ。そしてどちらの姓にするかは、双方の家族の状況に十分留意しつつ、両性の合意によって決めるのをよしとする。ひとつは、同姓にするのは――結婚というものがそもそもそういう意味をもっているが――夫婦の一体性を社会的に表明する「儀式的行為」の一つだからである。もう一つは、子どものことを考えると、別姓は両家や子どもにトラブルの種をまくからである。

 別姓論者が背景に持っているフェミニストの思想は、そもそも家族とは何であるか、の認識に欠けている。家族とは「男女の排他的な性愛関係というヨコのつながりと、その時間的展開から生まれる親子の情愛関係というタテのつながりとを核とする、共同的なまとまり」である(p146)。単に家族は個人を縛る悪とするフェミニストの思想は、この結婚・近代的な家族の制度が持つ、人類史の中で培われた知恵(二点挙げられる)の意義を踏まえていない。その思想の行き着く先とそれがもたらす結果は、歴史上既に示されている。

4.「母」であること、「父」であることとはなんだろうか
 「訣別というのは、早くから始まり、そして、なかなか終わらない」(p149)。著者の体験――(これはちょっと要約できないので、本文にあたるほかはないです)――。「父親」として大事なのは「後から加わるもの」として、「何らかのモデルに性急に身を寄せることではなく、私的生活をきちんと演じる難しさを自覚することだ」(p157)。
※ 個人的に、ううむそうか、と励まされた気分に勝手になっています。

5.いま父親はどんな役割を求められているだろうか
 乳幼児期の「母子密着」は良いこと。「母子親和」と呼ぶべき。ただ、それが「母子癒着」として思春期以降まで続くのは悪いこと。そうなる要因は5つある(p162-166)。これを断ち切ること、「『遊び心』をとおして子どもの視点を相対化させ、子どもにこの世界のおもしろさ、豊かさを経験させる」(p169)のが父親の役割。子どもに早くから労働の機会を与えること金の心配をさせることも重要。

6.どうしたらバカ社会を終わらせるられるか
 現在の子ども問題の焦点は、ふつうの子どもの「退屈と倦怠」にある。@「日本の近代化の物語が終わった」こと(p179)、A社会が第三次産業中心の社会になったこと(p181)、B近代が、「学校」という制度を作って、その中に子どもを囲い込んだこと(p182)がその要因。これをどうするかは教育問題の枠の中だけで考えていたのではダメで、教育、法、労働の三領域から攻める必要がある。

・ 教育・・・義務教育は基礎学力と社会的ルールを学ぶ場として徹底させる。高校は、私立を中心とし、専門カラーをうちだす。責任能力のない子どもには授業評価などさせない。

・ 法・・・「法制度的な新しい通過儀礼」を設ける(p196)。13〜14歳、18〜19歳のニ段階に分けて、権利と義務を付与していく。「倫理」は高校で正課とする。

・ 労働・・・学校に通う時間の余白に、徐々に就労機会をも与えていく(p198)。対価を与えること。

これだけだと「性」の問題が抜け落ちてしまう。どうしたらいいかという「対策」などほとんど考えられないが、親が子どもをよく観察しながら、子どもの自覚を促すような搦め手をそれとなくとるほかはないだろう(p204)。

(後は、子育てにおける自信のなさや親役割の問題、教育についての建前と本音、健全な諦念の問題、知的中間層空洞化の問題、落穂拾い的に著者による現状認識と提案が示されている。それは小見出しがよくまとめて表現している。「とにかく大事なことは、『何でも学校まかせ』はもうやめて、また、ただ無責任な教育批判だけをしているのではなく、親が責任を持って子どもの養育にかかわることです」(p213)。)

<感想>
「自由の享受」のために引き受けなくてはならないもの。レポーターはそれを、近代がもたらした不安と孤独、性役割・家族など共同体のあり方などの「文化」と読んだが、もっと適切な言葉がある気はする。本書全体から「丁寧な思考」という言葉が浮かぶ。表題は(特に関西人に対して?)挑発的だが、中味は徹頭徹尾真面目で丁寧。素朴な生活実感に足場を据えて、時代の思想の風潮に安易にくみさない、「粘り腰の思考態度」のテキスト。


第27回読書会
作成者:
添田馨
由紀草一著「団塊の世代とは何だったのか」(レポート)

■ 総体的な感想
 歴史それも自らが生きた同時代を描くことの長短ということがあるように思われる。多分それは、その時代と自分があまりにも密着しすぎていることによるものである。こうした試みには、歴史を描くための何らかの媒介物が必要になってくる。この本の場合、それは文学作品であり、映画であり、漫画であり、フォークソングであった。

 著者は団塊世代の少し後の世代に属し(1954年生まれ)、団塊世代的なものに引かれる部分がある反面、後続世代の団塊嫌いの感性に対しても共有する部分があるちょうど谷間の世代であり、特に“世代”としての発言を非常にしづらい位置にある。実はそういう私も1955年生まれの“遅れてきた団塊世代”であり、そのような場所からなされた戦後論という意味で、大変に関心をそそられた。本書の最後で、“世代”として発言しようにも能わなかった著者が、最終的に選び取った「一人」の場所のリアリティを自分なりに検証したいと、強く思った次第である。

序章「団塊世代の真後ろで―私の立場」
 団塊世代は昭和二十年代生まれの二千万人を含むらしい。ということは一九五五年生まれまでがかろうじて入ることになるが、それは広く数字を拾った場合であり、狭く数字化すれば昭和二十二年から二十四年までに生まれた八百万人ということになるようだ。

 著者は、団塊の世代に特徴的な性格として、恥の感覚の欠如をあげる。そうなのだ。「ストレートに「正義」だの「国家」だのを語るのはアブナイ」とみずから書いているように、この世代の人たちは「正義」だの「国家」だのと平気で入れあげるからである。

 何故こうした世代が誕生したのだろうか、と著者は考える。そして、「世界を変える夢想」が消滅した後に誕生した「戦後的「私」」にその淵源をみている。つまり、自分で自分をもてあますタイプの自意識が一般化したことに、この世代特有の本質を見出すのだ。この視点はなかなか鋭い。しかし、せっかくこうした自意識を共有しながら、全共闘世代は「自分たちの問題を自我のそれとして考える習慣を残さなかった。」と批判する。そして著者の筆先は、団塊世代を前にした自らのアイデンティティの素描へと向かうのである。

第一章「幼くして民主主義教育を受ける」
 ここで、ひとつの仮説が設けられる。戦後的な「私」というものを、「私」(=自分)を離れたところには価値はない、とする態度に代表させるなら、それは団塊世代が最初だったのではないかという仮説である。一九六○年代は、政治の季節であると同時に経済の時代でもあったが、それは一方で映画「エデンの東」や「理由なき反抗」、それに小説「太陽の季節」等に象徴されるように「どうやって大人になったらいいのか分からない子供達」が大量に排出された時代と重なる。まだその頃は「民主主義」(=正義)と「資本主義」が対立物と捉えられていた時代でもあった。その民主主義教育の現場である小学校において、「戦後の教育は、教師の権威は後に隠し、代わりに集団の圧力を使った」事例が報告される。そういえば私にも「学活」や「ホームルーム」の思い出があるが、いずれろくなものではなかった。武田鉄矢の例が面白おかしく紹介されているが、実際やり玉にあげられた子供にしてみれば、針のムシロの数十分でした。

 子供向けの娯楽が登場するのもこの頃だ。漫画や怪獣映画など、これらは純粋に「戦後世代が育てた芸術ジャンル」だと著者は言う。私も同感である。

 だが、社会全体はまだまだ誰にとっても豊かといえる水準には到達していなかった。連続ピストル射殺事件の犯人・永山則夫のエピソードは、ここでは全共闘のネガとして言及されているが、依然貧しさが潜む六〇年代社会のひずみ部分の象徴だったようにも描いているところは、さすがに目配りがきいている。

第二章「学生として乱を起こす」
 時代は一九七○年代の前半。いわずと知れた全共闘の登場だ。これには多すぎる大学生と泥沼化したベトナム戦争が、おおきく影を落としている。その本質を著者は「反逆」あるいは「一揆的爆発」と呼ぶが、これには当の全共闘世代の人たちはどう反応するだろうか。

 とにかく「何もしないことは戦争を許すことだ」と言って過激に行動するのだから、文字通りそれは「命がけの、後先を考えない行動」となって現れた。「何もしない」ことが倫理的に攻撃されるという、普通の人間にとっては何とも座り心地の悪い自分勝手な主張が展開されていったのである。さて、こうした「道徳的」脅迫(=押し付けの倫理)を振りかざした者たちの思想の精算は、その後どのような結末に至ったのか。

 日大全共闘の場合、機動隊員の「憎むべき死」(秋田明大)の論理にみえる「小児病的気質」が指摘され、また東大全共闘の場合には、東大という存在自体が悪であるという「自己否定」の論理(山本義隆)が「大学解体」といった破壊的な帰結にいたるものであると指摘される。要するに「バリケードの内側だけの変革」であり彼等の“何でも反対”的な無責任さがここで改めて浮き彫りにされるのである。

 そして連合赤軍事件も、著者の中では全共闘のこうした体質の延長線上に位置づけられる。自らの運動を対国家権力の戦いと自己規定した彼等が、山岳アジトで依拠したのは「共産主義化」の論理であった。本書でも立松和平『光の雨』や佐々淳行『あさま山荘1972』などを通して、この事件が歴史としてではなく思想として語られるが、「総括」の思想的根拠とされたこの「共産主義化」の論理は、私などにはあの内輪だけにしか通用しない「道徳的」脅迫に一脈通じるものを感じさせてしまうのだが、どうだろうか。もっとも兵頭正俊『全共闘記』の厳しさとグループ猪『全共闘白書』の能天気さのあいだの落差には、私も眩暈を感じるほどだったのだが。

 多分この章でもっとも問題化されているのは、全共闘世代の次のような意識のありようだろう。

「彼ら(全共闘の若者たち:引用者注)は、自分たちが特権的な立場にいることがなんとしても我慢ならなかったのである。権力の側にいるのと同じことだと思えたから。だから意識改革とは、何よりも自分が自分についてやらねばならない課題だった。」

第三章「若者として歌う」
 時代は一九七○年代の後半へと移行する。団塊世代を、今度は若者フォークソングという切り口から文化的・風俗的な視点で捉えたのがこの章で、著者の思い入れもとりわけ豊富な章だ。読んでいてこちらまで楽しくなってくる。共感というより、これってじつは懐旧の心情なのでしょうか。

 いみじくも著者は「七○年代前半は、総体として戦後の一大区分であり、「現代」のはじまりだった…」と述べている。つまりここには、七○年代の後半からが「現代」つまり「戦後」後であるという時代認識が働いているのだが、私もそれには賛同するところが多い。

 岡本おさみ作詞の「祭りのあと」を例に出し、彼はそこで「日々吹き荒れる慰安に耐えられず、見かけだけでも抵抗しようという種類のお気軽さを糾弾」したのだと著者は言う。こういう心情が、全共闘的なものの後に来る何かに対して、唯一立ち向かえる自らの根拠なのだという自負さえそこには感じられる。いいじゃないですか。たしか吉田拓郎の「元気です」というアルバムに入っていたこの「祭りのあと」を、私も等身大の共感をもって当時は聴いていた。それは、そこに自分の生への共感を見出していたのと同じことだ。

 さて、名実ともに政治の季節が終焉していく過程を、著者はフォークソングの変遷の歴史に重ねあわせて語る。かなり渾身の力がこもっている。中でも七一年八月の第三回中津川フォークジャンボリー」で、フォークの中心が岡林信康から吉田拓郎にシフトした意味を明らかにした功績は大きい。ひとことで言うなら、それは七○年代的暗さのなかにあって、明るい個人主義的体質への活路を見出す転機のムーブメントとして位置づけられる。拓郎の「人間なんてララララララララー」の歌声に著者はその確かな響きを聴いている。そしてフォークのコンサート会場に、「帰れコール」に象徴されるようなアンチ商業主義が根強かった理由も、何ものにも代えがたい個人と個人の直接的なつながりをこそ、聴衆がそこに求めた結果だったのではないだろうか、私見ですが。

 そして、やや遅れて登場する井上陽水になると、個人主義的体質はさらに無色で透明なものになっていく。その歌声を「粘りつくような歌声は催眠術のように人を内省に誘う」と著者は形容するが、その一方でそうした個々人の外面においてもある重大な変化が生まれつつあった。

 つまり「表層は挑発する」の言葉どおり「若者にとっては表層・見かけこそ大事」な時代が到来したのである。これは大衆消費社会の誕生を告げる狼煙であった。

 象徴的だったのはコンビ二の登場だろう。明らかにコンビには消費文化の大きな転機を作ったと言っていい。そして「リーダー」すなわち田中角栄のような強烈な個性は消え、また「ヒーロー」すなわち長嶋茂雄、王貞治も現役を去っていく。それは漫画の世界でも例外ではない。寺山修司は「あしたのジョー」のライバル・力石徹の葬儀の際に、「力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは七○年の時代感情のにくにくしいまでの的確な反映」なのだと述べた。つまりそれは名指しできる敵が見えなくなった七○年代後半の時代認識の表明だった。力石徹=体制、矢吹丈=反体制というこの図式は、しかし全共闘的な誤解なのではないかと著者は言う。「では六○年代には敵が明確に見えていたのだろうか?」とも…。(私は、見えていなかったと思う。戦後において、明確に敵が見えていたことなんて、一度でもあったのか?)

第四章「サラリーマンとして惑う」
 一九八○年代、団塊の世代の多くはサラリーマンになっていた。「課長島耕作」は、そうした人物の典型だ。八三年の連載開始時は「三四歳で大手家電メーカーの係長」―ということは、彼は一九四九年生まれということになり、まさしく団塊世代に他ならない。

「考えてみれば俺は会社にも国家にも特に忠誠心はない。気付かなかったことだが、大方の日本人がそうかもしれない。」―これは島耕作の言葉だが、この「傲慢な自己完結」の生き方はまさしく全共闘経験者としての生き方が「装いを変えて、彼の中に残っている」姿だと著者は言う。だが、これは所謂「反体制」のあり方なのだろうか?あるいは単に世間をすねているだけ?

 清水義範は『「柏木誠治」の生活』のなかで、老後の親との同居問題を扱った。著者はそれに触れた箇所で「団塊の世代は親の面倒をみる最後の世代で、子どもに面倒をみてもらえない最初の世代」ではないかとも言っている。大都市周辺で「会社人間」として生きる団塊の世代。しかし「伝統的な共同体から離れた彼らは、(中略)否応なく個人として生きざるをえない。」つまりアトム化して定年まで、いや、あるいは定年以後もバラバラに生きていくしかないのが彼等の宿命なのだ。それは自業自得というものだろう。そんな風にしか生きてこなかったのだから。

 このように団塊の世代は何も始めなかった。「消費者として第一に存在したというしかない」のが、本当の彼等の姿だった。だとしたら、「あなたも私も大人になることを拒否した世代なのだ」という著者の断言も、かなり自嘲を秘めたものに聞こえるのだが、それは私だけだろうか。

終章「日暮れて道はなく、課題はある」
「世代なんて括りも離れて本当の意味で一人になるようにしよう。」最後のこの著者の言葉は、私には実にすがすがしく聞こえた。思えば簡単なことではないか。みんな一人になって「戦後」と本当に向き合おうと著者は言う。その上で、憲法九条の欺瞞や湾岸戦争時の「ガキの正義感」といったものから脱却する方途を真剣に考えて行こうと主張する。「こういうことだけでも、今後できるだけ脱却するようにするべきではないのか」―私も同感だ。本当に自立した個人として、こういうことを考えて生きたいと思う。こういう気持ちになっただけでも、この本を読んだ甲斐があってよかったなあ、と思える。

 時は二十一世紀。団塊の世代には、はやくも日が暮れかかる。そして進むべき道は見えない。だが、道はこれらの課題の中にきっと埋もれているのだろうと、団塊の末席を汚す私もやっとそのことに気づきはじめたのでした。
以上



第25回 佐藤幹夫『ハンディキャップ論』読書会報告
平成15年11月16日(日)2:00〜6:00

四谷ルノアール2階

司会  小浜逸郎 報告者 根本義明
出席者(敬称略) 小浜(逸)・由紀・斉藤・村田・伊藤・本田・吉富・添田・滝川・小浜(稔)・二宮・山内・佐藤・内海・古川

【報告 根本義明】

まず、私が発表したレポートをそのまま掲げます。

はじめに
 私は、これまで障害者問題についてそれほど深く考えた経験がありません。その必要がなかったからでしょう。そのかわり、精神病についてなら自分なりに考えてきました。父がアルコール依存症と躁うつ病を患ったことで、幼少時からさんざん悩まされてきた経験があるからです。

 そんなわけで佐藤さんの『精神科医を精神分析する』についてなら生齧りながらもいろいろと言えたのですが、今回の『 ハンディキャップ論』に対しては、その言わんとするところにじっと耳を傾けるというスタンスを取り続けざるをえませんでした。しかし、そういう読み方をすることで、本書の「こころ」に自分なりに触れえたような気がするので、かえってそれでよかったのではないかと思っています。

 本書には、障害者問題に関する聞いたふうな物言いを拒絶する「凄み」 があるように感じられます。その「 凄み」 は、本書を編み上げている言葉がすべて佐藤さんの「 実存」 のフィルターによってろ過されていることによってもたらされているのではないかと思われます。(別に佐藤さんが「凄んでいる」 と言いたいわけではありません。佐藤さんはそういうことからもっとも遠いところにいる人だと思っています。)そのろ過のプロセスで、膨大な量の「お勉強」 の言葉が惜しげもなく捨て去られているものと推察します。私は本書に佐藤さんの血流の脈打ちを感じます。

 佐藤さんの「実存」 とは、本書を読めば誰でも気づくことですが、養護学校の教員としての20数年間であり、また、2人の娘さんの父親としての養育経験です。そして、特に前者の、養護学校の教員としての20数年間という歳月に潜在し、あるときはそれの導きの糸になっているのは、他界した弟さんの存在です。弟さんの存在は、本書そのものの導きの糸でもあると私は考えています。そのことについては一度ならずふれることになりましょう。

 これは著者ご本人に申し上げたことなのですが、本書は、つくづく「 レポーター泣かせ」 の本だと思いました。要領よくまとめられることを拒否しているのです、書物全体で。それは、本書が、文学と思想の境界領域に位置していることによってもたらされているように感じます。面白い本ですね。

 そんなわけで、私は本書を要領よくまとめることをはなからあきらめています。これは、レポートというよりも、本書の一読者の感想文として読んで(聞いて)いただければと思います。では、序章からふれていきましょう。

序章 「 あたりまえ」 ということ

 新米教師として子供たちの前に立った筆者が一言もしゃべることができず立ち尽くすばかりだったという印象的な冒頭のシーンに続けて、本書の目論見が語られる。それは、次の4つにまとめられる。

1) 言葉をしゃべること、歩くこと、物を見ること、注視すること、追視すること、音のするほうに目を向けることなど健常者が「 あたりまえ」とすることが、彼ら障害者にとってはそうではない。そうではないという世界に入ることで、「あたりまえ」のことが違ったふうに見え始める。そのことを伝えたい。

2) ただし、「 障害もひとつの個性である」 とか「ハンディを持つことこそすばらしい」とか、そういう見方をすべきだといいたいわけではない。そこはふみとどまりたい。

3) 「 あたりまえのこと」 ができるための障害者の努力はどうしても「 チャレンジ」というかたちにならざるをえない。そのことを伝えたい。それは、彼らに対することさらの賛美を求めているのではなく、とにかく一般社会にあまりにも情報が届いていないというプラクティカルな要請である。

4) 教育の言葉でも、福祉の言葉でも、差別や偏見の不当さを訴えるヒューマニズムの言葉でもない、普通の言葉で、ハンディキャップの問題を語り切りたい。それは、「普遍的」な場へ向けてハンディキャップ問題を語ることである。

 ここで少しこだわってみたいのが、4)の「普遍的」である。竹田青嗣さんの『哲学ってなんだ』(岩波ジュニア新書)に、

「「普遍的な」考えとは「絶対的真理」 ではなく世界について共有できる理解のありかたを取り出すということだ」

とある。佐藤さんが、こういう考え方を踏まえているとするならば(というか当然そうだと思われるが)、先に私は「これまで障害者問題についてそれほど深く考えた経験がありません」 と言ったのだが、本書を実存に手繰り寄せて理解しようとするとき、そのことは「ハンディ」 にならないということになるだろう。

 つまり、こういうことだ。「世界について共有できる理解のありかたを取り出す」 には、提示された言葉なり論なりをわが身に手繰り寄せて、「 それは言えてるな」 とか「 いやそれはどうかな」と検証するプロセスを経ることが必要である。その場合一番大切なのは、その検証のプロセスに向けて精神が開かれていることであると思われる。そのとき、ハンディキャップについて詳しいかどうかということにあまりにもこだわるのは意味がないだろう。読み手がそういう悪しきこだわりにとらわれることは筆者の本意ではないと思われる。もっともっと広やかな場所を筆者は求めているに違いない。「ハンディキャップをひらく」 という言葉には、そんな思いがこめられているのだろうか。

第一章 「ハンディキャップ」をひらくために

1 つくられた「障害」−「色覚異常」

 佐藤さん自身の「色覚異常」をめぐる体験を通じて、「障害者」とは、単に機能的、能力的にハンディを持つだけの存在なのではなく、その存在が社会的な「障壁」のもと、絶対的な不利益を被ってしまう存在であること、そして、社会的障壁とは、ある場合には、なんら明確な根拠に基づくものではなく、時代の進展とともに軽減されえるものであることが繰り返し述べられる。なぜ「繰り返し」なのか。それは、機能的能力的ハンディ=障害という社会的通念の壁のぶ厚さを佐藤さんが痛感してき続けたからだろう。その壁がハンディキャップを持つ人たちに対する過剰な思い込みや勘違いやらいわゆる「健常者」との関係の強張りやらを生んでいるということだろう。

2櫻田淳の場合

 櫻田さんには、ショ〜ト・ピ〜スの会でお会いし、人間学アカデミーでお話もうかがい、2次会でその人となりの一端に触れる機会もあったので、佐藤さんがここで展開している内容については、いちいちごもっともとうなずきながら読み進めることができた。櫻田さんとは知人という間柄ではないのだが、佐藤さんや小浜さんと接しているとき話題に直接上ることがなくても、なんとなくその存在を感じ続けているのでとてもアカの他人という気がしないのだ。それほど櫻田さんは強烈な存在感の持ち主であるということなのだろう。佐藤さんは、その強烈な存在感の核心を、「「障害者/健常者」という枠を超えてしまった」という言葉でうまく言い当てている。そしてそれは「前例のない」ことであり、彼に続こうとするものに計り知れない勇気を与え続けているものと思われる。

 櫻田さんは、自身の目指すところを「障害者を納税者に!」というパンチの効いた一語に凝縮させる。小浜さんは、『人はなぜ働かなければならないのか』において、櫻田さんの意を十分に汲み、その一語を次のように解読する。

 すなわち、人間は承認を必要とする存在であり、エロス的承認と社会的承認による自己承認が自尊感情の内実を成す。そして、社会的承認の鍵は労働である。働いたことに対して正当な報酬を得る。そこから、社会の一構成員としての義務を果たすために税金を国に納める。それが働くことにおける社会的承認のプロセスである。それゆえ、障害者に対する支援は、障害者が社会的承認を得て、自尊感情を獲得するためのものでなければならない。障害者問題においてそのことが無視され続けてきたというのが、これまでの事態だったのではないか。そういう主張と問いかけを、櫻田氏はしているのである、と。

 それはまた、佐藤さんの思いでもあることは、本書からおのずと伝わってくる。

3「支援」から見えるもの

 佐藤さんご自身のエピソードが印象深い。兄弟のいわく言い難い心理のあやが、読み手にじわりじわりと伝わってくる。そういうみごとな書きっぷりである。そして、それを踏まえたうえで、次のような忘れられない言葉が続く。

「支援がことさら支援ではなくなる「かかわり」、つまり家族や、face to faceの親密なかかわりとは、人としての尊厳とか矜持というだれもが持って然るべきものが、ことさら意識されぬままに、もっとも尊重されている場面である。かけがえのなさを意識する必要がないほど、彼は彼として、そこにいるのである。「関係の承認」が、もっともかけ値なしに現れる場が家族である。そして親密な友人との関係である。(中略)支援とは、現象的には、彼の日常の不便さを手助けする行為である。しかし、じつはそれ以上に、彼の人としての誇りや矜持と、私たちが日常的に共存する、そのようなことだとわたしには思われる。」(P65〜66)

 櫻田さんをめぐって、障害者の主に社会的承認が問題にされたのに対して、ここでは家族的エロス的承認が問題にされている、といえよう。それらに共通しているのは、「支援」は障害者が自尊感情を抱くことができる、すなわち自己承認が可能となるものであらねばならない、ということだろう。

第2章「家族」という場所から

 この章では、家族と養育の本質が語られている。また、そのような理論を導くうえで繰り出されるエピソードの数々が印象深い。理論とエピソードの両方に触れたい。

1「わからなさ」という実存に向けて および 2 「親」であることと養育について

 ヘーゲルを引きながら家族の本質についてこう語られる。

「人間は個別的存在であるとともに、社会的共同的存在である。その二重性が、「親−子」という関係のなかに、すでにはらまれていること。個人である人間は、「親−子」の関係をとおして、社会的・共同的存在になってゆくものであること。同じことだが、家族もまた、夫婦を中心とした個別的営みであるとともに、個別的営みそれ自体が共同的な行為をはらむものであるということ。」(P92)

 では、養育とは何なのか。

「養育とは、衣食に関する具体的なケアであるばかりではない。そのことをとおしてつくられてゆく、親と子の両者による記憶や歴史の共有、観念の共有である。そこには人間が観念(想像力)を持つことの深さと不思議さがこめられている。」(P95)

 つまり、家族の日々の営みの本質が、それ自体において個別的なものであると同時に社会的共同的なものであるのだから、その核をなす養育の本質も個別性と共同性・社会性の二重性において捉えられねばならないことになる、ということだろう。

 ところで、養育には、「自分のもの」である子が、自分のものでなくなることを最大のねがいとして行われるという大きな逆説がある、と筆者は言う。その逆説の意味するものはいったい何なのだろう。

「私の考えでは、養育という営みがその奥底で伝えようとしている究極のねがいは、自分たち親がやがて死を迎える存在であること、有限の存在であること、そして子ども自身も、同じようにいつかは死を迎える存在であること、そのようなことを伝える営みなのではないかと考える。むろん直接、口にされるわけではない。」(P97)

 ここで、読み手であるわれわれは、本書における理論上の最深部にいる。ここで、小浜さんの次の箇所を引用をすることに筆者は深くうなずいてくれるのではないか。

「家族のメンバー一人ひとりは、いつか必ず死ぬわけですが、死んだときに死体を自然の勝手な意思に任せず、きちんと埋葬することによって、その人が一人の人間であった状態に戻してやる。そのことが家族に与えられた使命である。(中略)しかし、ヘーゲルはまっすぐに「死」を持ち出しています。つまり、家族内部における情緒の日常的な交感は、家族のだれかが病んだときや死んだときだれが看取るのか、それを徐々に形成していく志向性をはじめからもっている。それこそが家族関係の本質であるというのです。」(『なぜ私はここに「いる」のか』)

 アカデミーで小浜さんからこの話をうかがったとき私は深い感銘を受けた。それで、家に帰って『精神現象学』の該当箇所を拾い読みしてやはり感銘を受けた。その後、折に触れてここに立ち戻るたびさらに納得の度合いを増している自分に気づく。持続し深まる感動という珍しい体験を私はしている。どうやらヘーゲルは家族の本質に関する永遠不滅の言葉を吐いている。そのことを感知したからこそ筆者は、本書の理論上の奥底にヘーゲル家族論を据えたのではなかろうか。

 さて、子の自立に関して筆者は興味深い視点を提示している。思春期において、子は、「死」を主題として受け止め始める。人間はやがて死ぬ存在であることや、有限性の「気づき」そのものはもっと早い時期に訪れるが、それを主題として受け止めはじめるのは思春期である。それは、養育という営みがおわりに近づいたことを意味し、社会的な自立に先んじて、一個の実存としての自立という課題が果たされつつあるということを意味する。おおよそ、そう述べられている。

 そのうえで、身体のハンディキャップを背負った子が、「死」を主題化できるのに対して、知的障害を背負った子はその可能性をはじめから絶たれていることを指摘する。それゆえ、「私をなぜ産んだんだ」という異議申し立てもできない。では、そういう子らの養育に終わりはないのか。「そんなことはない」と、筆者は言う。

「わが子の「障害」という事実を引き受け、「よし、一丁育ててやろうじゃないの」と感じられるようになったとき、じつは親にとっての子の「社会的自立」という課題は終わっている。解決ではないが、それは見すえられ、すでに引き受けられている。(中略)つまりは「終わり」が出発点であり、出発点を定めることができたとき、養育という長い営みが始まるのである。それが、「重度」の子を持つ親にとっての養育ではないかと考える。」(P109)

「なぜ私は生まれてきたの」という異議申し立てをしたり「死」を主題化したりすることや、社会的自立を果たす可能性をはじめから絶たれている子供に代わって、親が養育のさなかにおいて「この子はなぜ生まれてきたのか」と問いかけ続け、養育の出発点において「社会的自立」の不可能性を引き受けることによって子の「社会的自立」という課題を終わらせている。通常の養育過程と逆の順序で養育の本質的な契機が織り込まれているということになるだろうか。そして、そこに「重度」の子を持つお母さんたちの「独特の強さ」の秘密があるのではないかと述べる。深く考えさせられる。卓見として誇ってよさそうなところで筆者はむしろ「奇を衒った言い方と感じられるだろうか。あるいは詭弁だと思われるだろうか。」とやや心配げである。「お母さん」たちと場所を隔てながらの対話を重ねているような趣がある。

 ここで、もしもわたしに付け加えることがあるとすれば、それは、先のヘーゲルの「家族の使命」 に関わることである。「重度」 の子供たちの命は短いケースが少なくない、というくだりが確か本書のどこかにあったように記憶している。もしそうだとするならば、そのことは情報として当然親の耳に入っているはずである。とするならば、養育の覚悟を決めるとき、意識的か無意識的かわからないがそこに先に逝く可能性が低くはないわが子に対して「 家族の使命」を果たすことも織り込まれているということはないのか。親の一番の悲しみは親より先に子が逝くことであるという。それは「家族の使命」の最も悲劇的な果たし方である。とするならば、先の言い方を少し変えると、養育の覚悟を決めるということには、最も悲劇的な「家族の使命」の果たし方をする覚悟が痛覚として織り込まれているということになるのではなかろうか。そして、そこに「お母さんたち」 の強さのもうひとつの秘密があるとは考えられないだろうか。もしも私の言い方のどこかに無神経なところがあるとすれば素直に謝りたい。

3 彼らの兄弟であるということ 

 1と2が親−子を軸に家族と「重度」の子たちとのかかわりについて論じられているのに対して、3では、兄弟と彼らの関わりに焦点が当てられる。また、1と2ではおもに理論面に比重がかかっていたのに対して、3では、昔話「笠地蔵」 をめぐる筆者の「 読み解き」 とドラマ「 抱きしめたい」 の登場人物たちの心のひだにデリケートに分け入るような筆者ならではのコメントが展開されている。つまり、1と2が思想的であるのに対して、3は文学的であるといえるだろう。

 幼少のころから「笠地蔵」 のことが不思議でならなかった「ひねガキ」 の筆者は、「何で立ったままのお地蔵さんが急に歩き出すのか」 と問う。そして、「 この地蔵さんは「 体の不自由な存在」 なのだ。そうした人々に功徳を施すことは、恩恵にあずかり金銀栄える身となるのだ。」という結論にたどりつく。次に思春期の後半に「何らかのハンディを持っている存在は、神に近く、「健常」 と言われる人間に何ごとかを与える力がある」 という理解をする。

 では、なぜ筆者は、このように「笠地蔵」にずっとこだわり続けてきたのだろう。ある昔話なり童謡なりが心にひっかかってしょうがないという事態には、おのずとその人の資質が反映されていると考えて大過がないと思われる。筆者は言う。

「おそらくわたしは、十年とわずかばかりにすぎなかった弟の「寝たきりの生」 を、なんとかしてわたしなりに意味づけ、肯定したかったのではないかと思う。(中略)それまで歩けなかったお地蔵さんが、なぜ突然歩き出したのか。お地蔵さんが歩くのなら、弟も、だれかが傘をかぶせてくれたら、歩くようになったのではないか-----。」 (P111〜112)

「ひねガキ」を自称する筆者の弟をめぐる思いが切ない。兄としての真情がボソボソとした語り口に沁みだしている。しかし、そこに自己美化の臭いを鋭敏に嗅ぎ取るかのようにそのすぐ後に、筆者は、

「親たちに、弟にはガールフレンドがたくさんいるが、兄貴のお前にはいないのか、などとからかわれようものなら、またひと騒動となる。お前は女だから、今日から女の名前で呼ぶ、などと言って弟を怒らせ、どこまでも小意地の悪い兄貴であったのである。(中略)いずれにしても、よほど気が向いたときは別として、わたしと弟のかかわりは、多かれ少なかれ、このようなものであった。わたしはランドセルを放り投げるや、さっさと遊びに出かけ、暗くなるまで家には寄りつかないのである。」(P114)

と書きつける。こういう「どこにでもある兄弟の光景」 がしっかりと書き込まれているからこそ、先の「兄としての真情」 のリアリティがさらに読み手の心にしみこむことにもなる。

 ハンディを持つ存在に対して兄弟姉妹が不思議な力を発揮することがある、という。それは、ハンディを持つ兄弟への思いの強さと無縁ではない、と筆者は言う。また、そのことは、一方で独特の葛藤をつくりだす、とも。その言葉に筆者自身の体験が映し出されていることに気づくのはそれほど難しいことではない。

 ドラマ「抱きしめたい」 の見事な解説ぶりには、正直、一驚した。そのすべてをここに再現する余裕も必要もないと思われるので、とくに感心したくだりを引用しておく。

「この「どこかいなくなれ」というのは、兄弟姉妹にとって最大の禁句であり、タブーである。言ってはならない最後の一言である。そのような禁止を自分に課しているはずである。ほんとうは、そのことをもっとも願っているのかもしれない、と自分は感じており、だからこその禁句であり、タブーなのである。(中略)なぜ表わしてはならないのか。そこに現れているのは、もっとも自分が許してはならない自分だからである。もっとも許してはならない自分を、そこに晒すことによって、もっとも深手の傷を受けるのは、自分自身なのだ。そのことを知っていくのである。」(P128)

 ドラマのターニングポイントで吐かれたヒロインの「 どっかいなくなれ」 の一言をめぐって展開されているくだりである。これは、「障害」 を持つ弟をめぐる自分の心理の陰翳を深く見つめ続けた人ならではのことばであると思う。

第三章 「教育」 という現場から

 この章では、「言葉のない子供たち」 をめぐる筆者のかつての教育実践が体温の温もりを感じさせるようなユーモアをたたえて回想されている。私自身、学習塾の先生という立場で、日々生徒たちをどうやって教えるかをめぐって悪戦苦闘しているので、わが身に引きつけてあれこれと思いをめぐらした。

「子供の背景、環境、大人側の持つさまざまな要因など、一人ひとりの具体的な諸条件抜きの対応策などあり得ないからだ。子どもたちとのかかわりに、だれもが共有できるマニュアルなど存在しないのである。」 というくだりを読んだとき、即座に「ああ、この人は本物の教師だったんだな。」という直感が働いた。生徒一人ひとりと虚心に誠実にかかわろうとした教師はこれ以外の感慨を持ちようがないという「独断」が私にはあるのだ。

「彼らを苦しめるものは何か。言葉を話せば通じている、教師の言ったことは子供に理解されている、という思い込みなのではないか、とわたしは痛感せざるを得なかった。言葉は通じなくてあたりまえ。通じるためには、相応の工夫がいる。その工夫は、一人ひとりにおいて異なったものだ。」というくだりは、身につまされた。別に私は、「言葉のない子供たち」を教えているわけではないのだが、筆者の言わんとするところが手に取るように分かる。本当にそうなのだ。そういう心がけで接しないと生徒たちはわかるはずのこともわからなくなってしまうのだ。そういう意味で、生徒たちは、子供として、大人である先生から、われわれが意識していない何かを感じ取っている。そうとしか思えない。

 これは別に「子供は純真だ」とかいった寝言がいいたいのではなくて、現場での悪戦苦闘から身体で掴み取った認識の率直な表明である。

「「何かをするー止められるー怒って八つ当たりするーさらに強く叱られるーエスカレートする・・・・・」。なんとも悪循環だった。この連鎖を断ち切るにはどうするか。こちらの「常識」をいったん棚上げするしかない。」ここも、身につまされる。教師なる存在はつい「正論」に固執しがちである。「わたしはこんなにも正しいことを言っている。なのに、あいつはそれを受け入れようとしない。なんて悪い生徒なんだ」と。相手は未熟な子供である。こちらの「正論」を押し付けるなんてやろうとおもえば簡単なことだ。そしてそれを受け入れようとしない生徒を「だめな奴」として断罪することも。

 若かりし日の私はそういうことを繰り返していた「ダメ先生」 だった。いまは、そういうことに関して少しは自覚的になったのではないかと思っているのだが。

 以上、点描風に感想を述べた。それらを通じて思うのは、教える対象が違ってはいても、教育現場という「泥沼」に両足を突っ込んだ者が抱く感慨は意外と共通しているな、ということである。その意味で、教育論における「健常/障害」の二分法的思考を超える道筋をつけるのはそれほど難しくないのかもしれないと思うのだが。甘いかな。

第四章 社会の中のハンディキャップ

1 社会にとっての「彼ら」の存在

まず、P194の例の表を掲げておく。(略)

 私たちが「障害者」に関して見せる反応は上記の三つの類型である、と筆者は述べる。ここで重要なのは、この3つの反応は、それぞれ別の人間によってなされるのではなく、同じ人間が「障害者」とのかかわりの局面(濃度)を変えたときに、それに応じて見せるものであるという指摘である。これは、ずいぶんとリアリティのある指摘だ。読み手として、わが身を振り返ればいろいろと思い当たるのではなかろうか。そして、重要な指摘でもある。なぜなら、この指摘が、左右両陣営いずれの「障害者議論」も、人性のリアリティを踏まえない空論にすぎない点では共通していることを白日の下にさらしてしまうからだ。

 すなわち、(A)の【感動エリア】の延長上の極北には、すべての障害者差別を撤廃せよという理念のもと、「差別的表現」を徹底的に洗い出し、出版物の撤去や放送の禁止という弾圧を試みる運動団体が存在する。いわゆる左派路線である。これは、ブレーキを失うとすぐさま全体主義に転落する。

 それに対して、もう一方の(C)の極には、社会防衛のために保安処分や断種施策さえ辞さない理念が存在している。いわゆる右派路線である。精神科医では小田晋や福島章がその代表格である。

 いずれも、「障害者」に対する社会の反応の一傾向を絶対化することによって成り立っているフィクティシャスなイデオロギーであるという点では共通している。筆者はいずれの路線に固執しても不毛な対立に終わるとする。とても説得力のある議論である。
では、筆者はいかなる路線を良しとするのか。

「もはや現実的に、プラグマティックに考える態度こそ、いまもっとも必要とされているものである、と私は考える。」(P198)

 そこには政府が現に実行しつつある「障害者支援費制度」に、旧来のイデオロギー対立ではとてもじゃないが対処できないという筆者の危機感がある。その辺のところは、読書会で筆者自身にじっくりとうかがいたいと思っている。

「浅草女子短大生殺人事件」をめぐっての「障害者」の犯罪と司法という論点に関しては、本書では箇条書きにされているだけなので、おそらく次作で突っ込んだ展開がなされることになるのではなかろうか。今回はその予告編ということか。

2 わたしが提案したいこと

 アメリカの大リーグに登場した片腕のアボット投手と乙武くんや大江光を例に筆者は、自身が説く「プラグマティズム」とはどのようなものなのかを説明しようとする。すなわち、彼らの「超人的努力」のノウハウや技術を公開し共有することによって、彼らに続こうとする者たちが増える。それは「感動エリア」にとどまっていた社会的反応が、「日常エリア」に少しでも移ることを意味する。それが「次の一歩」への踏み出しであり、「プラグマティズム」であり、「障害/健常」という垣根を低くすることでもある。そう筆者は提案する。そうすんなりとはいかないのだろうが、きわめてまっとうな提案であるように思われる。

言葉にはし難いことなど―― あとがきにかえて

 本書のあとがきは内容的には一章分に相当する重みがある。本文で言おうか言うまいか迷い続けた「告白」がここでためらいを残しながらもきっぱりとなされているからだ。「告白」というのは、もちろん弟さんのことだ。「弟の頬は痩せこけ、目は落ち窪んで別人のようになっていた。(中略)わたしは久しぶりに会った弟の顔を、ついに正視できなかった。」これは、いわゆる「回想」とは異なる。なぜなら、描写している対象と筆者との距離がそう呼ぶにはあまりにも近すぎるように感じられるからだ。言い換えれば、記憶をめぐる時の風化作用がほとんど感じられないということだ。そのときの筆者の心の内は部外者には知るべくもないが、なにか人生の基本感情にかかわるものがそこにあったことだけはわかる。つまり、ここで筆者は、自らのこれまでの人生の基質にふれるものを吐露している。その意味で、本書は亡くなった弟さんへの挽歌ではないかと、私はひそかに思っている。

 皆さんは、本書をどう読まれたのか、とても興味があります。

レポートは以上です。
次に、出席者の間でのやりとりのうち記憶に残ったものを記しておきます。

司会者:「障害者支援費制度」の問題点をなるべく具体的に語ってもらいたい。

佐藤:障害者福祉の分野に競争原理を持ち込むのがねらい。背景は、表立っては言わないが、予算不足。それは、点数に応じて補助金をだすという形をとることになっている。となると、経営効率を高めるには、行動障害のある子供などのように、ほんとうに手のかかるが点数の低い人は、入所を断られるケースが出てくることが予想される。つまり、最も支援を必要とする人たちが最も支援を受けられなくなる事態の生じる可能性が高くなる、というのが最大の問題点。そして、「自分の責任において、選べ」と言っているが、オプションが少ない。自己責任の美名の下に、統計学上数字上の改善はなされるかもしれないが、表面化しないところで事態の悪化が懸念される。

司会者:今は競争原理の導入なら無条件でOKという風潮だが、「障害者支援」とか「教育」などそれになじまない分野があることは肝に銘じるべきだ。

B:自分はボランティアで障害児教育に関わっているが、どうしようもない「ダメ先生」が少なからずいる。どうしたらいいのか。
C:どこの職場にもそういう人はいる。そうではない人たちと協力関係を作ってそれを広げていくしかないのでは。

D:自分が一番気になったのは、労働と言語に価値的な重きを置く近代的人間観では、それらに関してハンディを持つ障害者の人間的な価値を掬い取ることはできないのではないかということ。新たな人間観を構築する必要があるのではないか。

佐藤:私自身は、いま現在、近代の枠組みから抜け出ている、と考える立場には立たない。近代的人間観の枠内で、彼らの人間的価値を掬い取ることができるのではないかと思っている。労働と言語のカテゴリーを拡大することによって、それが可能ではないかということ(次作の、西研さんとの対話集で述べているので、ぜひ読んでいただきたい)。

司会者:たとえ、まったく働けなくても、また、言葉をしゃべることができなくても、ごく身近な人々にとっては、彼が「いる」ことそれ自体が価値であるという次元がある。その次元では、健常者と障害者の区別はない。

佐藤:留意していただきたいのは、「障害児教育」という場所で行っていることは、「おくれ」のある子を「健常」にしようという発想で行なっているのではないということ。たとえば彼らが読み書き計算ができるようにするとか、「標準」に近づけようとすることではない。彼らが、その生を充分に生きてゆけたり、少しでも「生きやすく」なるようにすることをめざしている。

E:ディスオーダーを否定してオーダーにするという発想ではだめ。彼らが少しでも生きやすくなるよう支援をする。そのことを通じて自然とオーダーになっていく。そこが難しいところであり、肝要なところ。

F:重度の障害者に対する教育のみならず、健常者に対する教育においても、そういうなだらかな視点は重要。そういう意味では、教育の分野で、「健常者/障害者」の枠を超えるのは原理的には不可能ではないのでは。しかし、日々の実践レベルでそうするのは難しい。

佐藤:人間は障害者として生まれ障害者として死んでいく。つまり人生のはじめとおわりで、人はほかの人の介護を必要とする。そのことが、自分が考え進めるうえでの出発点。

G:表面的に考えれば、「障害者支援費制度」における自己決定と「障害者を納税者に」という発想、および、佐藤さんの「プラグマティズム」とマニュアル化は通じるものがあるように読めてしまう。そこの違いをきっちりと論じれば、佐藤さんの主張がもっと鮮明になったのではないか。

佐藤:この本を書き進めながらターゲットとしていたものは、ひとつは、社会全体が競争原理にのっとって進もうとしているが、そうした動向に対する違和感。たとえば教育現場でも、個別指導計画を作れということになると、それがアッという間にマニュアル化され、教師の能力をはかる目安となってしまう。教育や、精神医療に、こうしたあり方がなじむかどうか。もうひとつは、ハンディをもつ人たちの情報が行き渡らないことによって、不必要なバリアが生じてしまうという事態。ここでは、プラグマティックに考えましょうと提言している。いわば、相反しているが、二面作戦をとっている。

司会者:障害者問題に限らず社会問題をトップダウン方式で解決しようとすればマニュアル化は避けられないのでは。そのほかにこれまであったのは、草の根の市民運動的なもの。そのどちらでもない「静かなる中央突破」という切り口からの発信の場は確保しておきたい。

H:自己責任・自己決定といえば、発達障害(とくに自閉症)の子供たちは究極の自己責任・自己決定を実践している。だから佐藤さんは、そうではなく、社会性、共同性の方へ向けて解決を図ろうとしている。その意味でも、「障害者支援費制度」の考え方は原理的に誤り。

根本:ヘーゲルの「家族の本質は個別的であると同時に社会的共同的」というのを、「個別性」から「 社会性共同性」へというベクトルに重心を置いて受け取ると、「近代的人間観の限界」 という議論になりがちだが、それを「社会性共同性」から「個別性」 へというベクトルを内包したものとして読み取ると、それは、先に出た「彼が「いる」ことそれ自体が価値であるという次元」 をも射程に入れているというふうに読めて、全体がよく見渡せることになるのではないか、というのが、皆さんのお話を伺っていて、すこしだけ考えが進んだ部分かなと思う。

*予約していたはずの場所がなぜかふさがっていて、出鼻をくじかれましたが、突っ込んだやり取りをしながらも、なごやかさに満ちた、とてもよい雰囲気の読書会でした。

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