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自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の罪と罰


あとがき


 新年のにぎわいが抜けた頃、都内のある寺に足を運んだ。

 O・Mさんのご自宅に電話を入れて寺院の場所を伺ったのは、判決が出て二週間ほどたってからだったろうか。大きな通りから寺の門を潜るとすでにそこは墓地で、すぐ左手にO・Mさんのお墓はあった。ゲラの校正作業がひと息ついたのを見計らって、四年近くにわたった仕事がひと区切りついた報告とお礼に詣でたのだった。「お詫び」という言葉がふさわしいかどうか分からないが、どっしりとのしかかった複雑な思いもまた、伝えなくてはならないことのひとつだった。

 喩え話をしてみる。

 ある国に出向き、事件に巻き込まれる。言葉がうまく通じないまま取調べが始まり、やがて法廷に連れ出され、身に覚えのないままに審理が進んでいく。このとき、通訳をつけてほしいという要求が当然出されるだろうが、それが冤罪ならば、だれもが当然の訴えであると納得するだろうと思う。しかしもし事件の当事者であり、しかもそれが殺人という重大事件だったならば、この要求はどのように受け取られるだろうか。まして理由も動機もよく分からない、およそ「通り魔的な凶行」としか受け取られかねない犯行であったらどうだろうか。通訳をつけてほしいという要求を、社会感情はすぐさま受け入れるだろうか。しかし、仮にどのような凶悪犯であったとしても、法廷とは我が身を守る最後の場であり、そこでは法理を尽くした裁きがなされるべきではないか。

 自閉症の人びとにあっても同様で、彼らの言動を正しく理解するためには「翻訳」作業が必要なのだが、それがどこまではたされているのか。本書で私が問うているのは主としてそのようなものである。まして「自閉症青年の重大犯罪、その取り調べと裁判」について、これまでまったく正面から問われたことはなかったし、それはどうしても述べなくてはならなかったものだ。

 私たちが望む安全で安心できる社会とは何か。そのとき私たちが分け持たなくてはならない責任をどう考えたらよいのか。本書は、その背後にこうした問いを持っている。法や制度の整備を進めることはいうまでもなく重要であるが、それとともに、彼らを少しでも理解することもまた同様に大事なことなのではないか。政治経済その他、多くの問題が山積し、ゆとりをなくしてしまった社会だからこそ、その重要性が痛感されるのである。

 しかし、この私の主意は、同時に、これ以上のない大きな誠意と厚意をもって取材に応じてくれた被害者のご遺族に対し、たいへんに不本意なものであることも疑い得ない。不本意どころか、多大な「二次被害」を与えてしまうことになるかもしれない。それは裏切りに等しい行ないではないか。一方、弁護人をはじめとして加害者関係の方々からも、私はこれ以上のない誠意と厚意を受けており、「ぜひ本当のことを書いてほしい」という声もまた背中にのしかかっていた。「両方の『味方』になるなどということはありえない。両者にいい顔をしたかっただけではないのか」。あるいはそのように難じられるかもしれない。

 傲慢で僭越なことだと言われるのを覚悟で書くことになるが、本書をだれに一番読んでほしいかと問われたら、できれば被害者のご両親でありご遺族である、そう答えるだろうと思う。そう答えたいと思う。うまく書けているかどうかは読者の方々に委ねるしかないが、最も遠い場所にいる人びとに最もよく届いてほしい、少なくともそのような願いのもとで本書は書かれている。――O・Mさんのお墓に手を合わせながら、そうしたこともまた私はお礼とともに申し伝えかった。

 ところで、執筆にあたって、当初より五百枚以内が厳守事項だった。三分の一ほど書き進めたところで、このままでは八百枚を優に越えることが明らかとなり、自閉症についての私自身の見解や事例の紹介などは大幅に圧縮せざるを得なかった(それでも五百枚をはるかに越えている)。この点がやや心残りではあるが、しかし、「自閉症」という障害を理解するための必要最低限のことは記述されているはずである。振り返ってつくづく思うことは、私は書き手というよりむしろ、多くの人びとが意を尽くして語ってくれたことを虚心に受け止め、構成し、配列する編集者的な役割だったということである。この本にもし何らかの「パワー」が宿っているならば、それはひとえにこうした人びとによる後押しの賜物である。

 その大きな力をくださった被害者のご両親、そしてご遺族の方々に、まずは心よりお礼を申し述べたい。本書がご遺族にとって何ほどかの力とならんことを。

 また弁護人の副島洋明氏と大石剛一郎氏、そして山元寿子氏にもこれ以上のない配慮をいただくことができた。氏らのご協力がなければ本書は成り立たなかったろう。さらには福祉関係者の方々、なかでも触法の施設利用者を抱えながら日々奮闘しておられる岩渕進氏はじめ萬谷茂美氏、光増昌久氏、本書には登場しないが石川恒氏、阿部美樹雄氏、熊岡耕一氏にも大きな示唆をいただくことができた。そして福祉の現場に新たな力を注ごうとしている山本譲司氏と福岡三治氏にも感謝。さらには精神科医として臨床と言論の両輪をフルに回転しておられる滝川一廣氏、富田三樹生氏、高岡健氏、小林隆児氏、林幸司氏、供述分析と発達心理学において絶えず刺激してやまない浜田寿美男氏など、本書を書き進める上で大きな力をいただくことができた。

 この事件は司法、精神医療、司法精神医学、福祉、教育と、きわめて多岐にわたる問題点をふくんでいるが、かつてないほどそれらの領域を包括した「事件のルポ」とすることができたのも、ひとえにこれらの方々のおかげである。また私同様この事件を取材し、裁判の進行に伴走し、貴重な情報を与えてくれた北海道文化放送の記者後藤一也氏、共同通信の佐々木央氏にも深く感謝。さらには「障害」に対する私の初心をつくってくれた村瀬学氏と宇佐川浩氏、元の同僚諸氏、また取材を通して知己を得ることのできたすべての人びとにも、この場を借りてお礼を申し上げたい。

 そして本書の原型となる場を与えてくれた月刊「創」編集長の篠田博之氏、同誌の編集者荒井香織氏、いつものように難儀なテーマを抱え、なかなか商品とはなりにくい著作を送り出してくださる洋泉社社長の石井慎二氏、編集部長の小川哲生氏にも心より感謝申し上げる。また私のはじめてのハードカバーの著作に装丁を施してくれた間村俊一氏にも乾杯。もとい、感謝。

 本書の主題は、前著『ハンディキャップ論』や呉智英氏との共編著『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』(ともに洋泉社・新書y)と深く関連しており、併せてお読みいただくならばこれに勝る喜びはない。福祉や教育、心理、精神医療、法曹関係者のみならず、多くの方の手に届かんことを。

 最後に、微力ながら二度とあのような傷ましい事件が起こらないことを最大の願いとして書かれた本書を、若くして人生を終えた二人の女性の御霊に捧げたいと思う。


 二〇〇五年一月一一日                            佐藤幹夫

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