品切れ号復刻シリーズ

小浜逸郎氏との対話
 (vs.佐藤幹夫)


 「オウム」という問い その10(樹が陣営14号・1996・3掲載)

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■吉本隆明批判をめぐって− 麻原評価について


佐藤 このへんでぼくのほうの拙い感想もまじえてみたいと思います。まずお二人のやり取りを単純化していってしまえば、宗教家としての麻原彰晃をどう評価するかという点が、何か一つの岐路になっている印象があるのです。

小浜 そうですね。それからもう一点はマスコミの言説をファシズムと見るのかどうかということでしょうね。

佐藤 はい。そうですね。それで麻原の評価に関していえば、一連のオウム事件以前に、麻原=オウム真理教とどんな出会いをしているのかという点が大きく関与していませんか。91年に「朝まで生テレビ」で「宗教と若者」と題して取り上げたのですが、ぼくはひじょうに鮮烈な印象を受けたのです。何か宗教の新しい可能性といったらいいのか、これまでには見られなかった宗教シーンがひらかれていくのではないかと、やや買い被りすぎですが、そんな印象をもたされたのです。一方にいたのが幸福の科学の幹部や広告塔の連中だったのですが、そちらが道路を清掃することが信仰心の始まりだみたいな、いわゆる処世訓もどきの言論に終始していたので、よけいオウム側の宗教としての本格さが引き立ったという感じでした。だから、サリン事件以前に、オウムとどんな出会いをしているかということが大きなファクターとしてあるのではないか。

小浜 なるほどね。ぼくは91年の時点で見ていないくて、後で佐藤さんにテープを送ってもらって見たのですが、もうその時には先入観が入っているからだめでしたね。佐藤さんがそこで、これはなかなかだと感じた確信は何だったんですか。

佐藤 それは仏典に拠って修行していけば、間違いなく修行のステージがあがっていく。身体の拡張、つまり超能力なるものが得られ、仏教の修行というものが身体をそれこそ拡張していくものであること。それがどの段階にあるかは仏典によって確かめられるものであることなど、仏典と自分たちの修行を相互的に試していたことが言われていた点だったと思います。

小浜 バーリ語の仏典を翻訳するということも、あの頃は実際にやっていたのですね。

佐藤 はい。

小浜 それがどれほど学問的に厳密なものなのかぼくにはわかりませんが、それが貫かれていればまだ教義として深く検討すべきところはあったかもしれません。ところが、途中からシヴァ神が出て、仏教から逸脱していきますね。そしてヨハネ黙示録も入り、自分はイエス・キリストであるといわんばかりの発言になっていきます。ヨハネ黙示録にあるハルマゲドン思想からノストラダムスも入ってきますね。クルクル変わるんですよ。その変化は、宗教の正当性の観点から見たらつぎはぎでいい加減だという評価は否めないところだと思います。

 ただそれだけでは解決しなくて、麻原彰晃の時代感覚がすごく切迫性を帯びてきたということがあったり、自分の体のことなどもあって、ある種の誇大妄想というんでしょうか。自分の内面の切迫感が急なリズムになってきて、それをそのまま世界に投影させてしまうという点が、麻原の独特の妄想的な宗教家としてのあり方ですね。それは一種の迫力でもあったと思うんですが、普通の人がついていけない急テンポの展開になっていきましたよね。じゃあ仏教の原点に返るんだといっていたのはいったい何だったのかということになりませんか。

佐藤 はい。自分でもうまく埋められない、というのが正直なところですね(笑)。たぶんこの困惑は、初期の麻原=オウム真理教を知っていた人間の多くが持たされたような気がしますね。

小浜 つまりぼくが言いたいのは、必ずしも宗教の伝統性の枠内で今回の問題の是非を考えるだけではだめなんだということを言いたいわけです。時代とどう切り結んでいるか。

 そしてその切り結び方がこれこれの現代社会の必然から出ていて、しかしこういう方向をたどるのはまずいという、そういう評価の仕方をしていかないとだめだと思いますね。それが吉本さんの中に希薄だなという感じがしているのが批判点の一つです。「朝まで生テレビ」での麻原に関しては、ぼくはオウムの犯罪が明らかでなかったあの時点で見ていなかったので、俺がその時見ていたらどういう印象を持ったろうか、ということについては言う資格はないです。

 ただあれを見て感じたことは二つあって、幸福の科学が論理的に自分たちの立場を擁護しようとして言っているのを、そんな話は無駄なんだというような感じで、麻原がぶった切ろうとしていたというのがとても強引で、あまりいい印象ではなかったですね。もう一つは、あそこに出ていた一連の知識人たちが、こぞって麻原側であるという偏りのすごさですね。これには驚きでしたね。あの時期はあれが大きな流れだったんでしょうね。それに知識人好みの宗教だなという感じがしますよね。

佐藤 宗教家としての麻原に対する吉本さんの評価はかなり高いですよね。

小浜 産経新聞のインタビューで「世界有数の宗教家」といったんですね。

佐藤 『親鸞復興』(春秋社)にある「『生死を超える』は面白い」でも、実際の臨死体験者の記述よりも「微細で、徹底的で、如実」で貴重な臨死体験の記述になっていると評価されていているんです。

小浜 ぼくも『生死を超える』を読みましたけれども、吉本さんは、昔の密教が神秘化して、大衆に公開しないでこれは秘儀だといっていたことを、身体的体験的に鮮やかに、イメージとして描いてみせた、そこが面白いんだという評価ですね。ぼくはそこに関しては異論がないですね。

佐藤 はい。ただ、そこからなぜ「世界有数の宗教家」という評価になっていくのか。

小浜 だから宗教家の全体的な値打ちというものは、単にヨーガの修練過程を明らかにしたことだけで計られるのかどうかといったら、やはりそうではないと思います。宗教家という存在はいわば理念の実践家であるから、どういう人たちをどのように組織して、どういう救済理念を実現の方向にもっていこうとしていたのか。その行動と理論、教義は不可分であると思うし、不可分な全体のなかで彼がどういう言動をなしていたのかを含めて評価しないといけないと思うんです。

 ぼくはよくわかりませんが、ヨーガの修行過程を大衆的にあきらかにしたというだけで「世界有数」というのはいくらなんでも過大評価だなという気がしますね。そのことと、一方で彼がやったこととを天秤かけたらどうなるのか、という感じがします。ほかの点で、こういうところがすごいと吉本さんがいっていて、それを読んで納得できれば、そういう評価もあるのかと思えるでしょうが、ぼくが読み得たかぎりではいっていないんです。

佐藤 宗教家に対する評価の厄介さはこのへんにあると思うのです。小浜さんは理念あるいは教義と、彼が実際になしたことの全体を見なくてはいけないと考えていますね。ところが宗教の場合には苦行や、その極限の死は必ずしも否定性ではなく、魂のステージが一つあがったり救済であったりする。そういう理念を呼び寄せますね。このことをうまく付いたのが西部邁さんで、西部さんが中沢さんに対して向けた批判だったと思うのです。産経新聞で中沢さんも二回に渡ってインタビューを受け、それに対する批判として、宗教は肯定するが犯罪は否定するというのはおかしい。宗教を肯定するのであれば、そこでなしたことも肯定しなければ、その宗教対して失礼であり筋が通っていないというのが西部さんの中沢批判だったと思うのです。これはそのまま吉本批判としても当てはまるような気がするんです。

小浜 吉本さんは二重性だといって、そこは決着が付いていないといっていますね。ぼくも西部さんの言い方に近いですが、例えば山崎哲さんは革命だといっています。歴史にifはないのですが、仮にですよ、もしロシアのやった社会主義革命が偶然のいい条件が作用して、膨大な犠牲者が出ているにもかかわらず、もっといいかたちで展開したとします。そうするとある局面だけで多くの犠牲者を出した犯罪だったから否定しなければいけないと、単純には言えません。闘争過程で人間の血が流れるということは、いいというわけにいきませんが、必然ではありますよね。

 むしろ問題は犯罪と理念を分けてどうということよりも、オウムの革命理念あるいは宗教理念そのものが、いまこの社会の中で二十人の死者を出すということに代えてなお匹敵する、未来展望なり、すぐれた理念をはらんでいたものかどうかについては検討しなければいけないと思います。確かに二十人もの犠牲者を出したから、こんなものはいけないとは単純にいい切れないですね。これは一種の闘いなわけですから。だから山崎哲さんが革命だといっていることは、客観的には正しいとは思うんだけれど、二十人の犠牲者を出すことに代えられる、すぐれた革命理念であったり宗教活動であったかというと、全然それは違うと思いますね。

佐藤 はい、その点にはぼくも異論がありません。吉本さんの、麻原に対する評価の高さはやっぱりもう一つ腑に落ちないんです。

小浜 吉本さんはこうも言っているでしょう。もし麻原が法廷で、堂々と刑には服そう。しかし法律では裁かれるが、わたしの教えからすれば正しい。もしそう言ったら麻原はイエス・キリストになってしまう、と言ってますよね。これはどう思いますか(笑)。

佐藤 吉本さんがここで本当に言いたいことというのは、何なんでしょうか。後世への影響は簡単じゃない、とその発言の後で言っているのですが、麻原がキリストになろうとなるまいと、多くの人が指摘しているようにこの事件がもたらしたものは大きいですし、小浜さんも後に残す影響の大きさは指摘されていますよね。何もキリストになぞらえる必要はないです。また文字通り麻原がキリストになってしまう、つまりキリストと同等の力量を持った宗教家として後代評価される、そういう可能性もなくはない、そうおっしゃりたいん
でしょうか。そうであるならばなおさら承服しがたいですね。キリストが処刑された伝承の構造が再現されることになるのだ、とも指摘されているのですが、それだけで麻原を偉大な宗教家だとするわけには行かない。いずれにしても麻原や今度の事件を、麻原の異常人格に還元させたり、単なる狂気の殺戮集団だというように低く見積もってはいけない、という論争のレトリックであるにしても、キリストまで持ち出す必要はないですね。

小浜 まず麻原が、吉本さんがいうように言明するかどうかの可能性の問題が一つありますね。

佐藤 はい、そうですね。報道を読むかぎり、その可能性はきわめて小さい。吉本さん、ちょっとナイーブすぎるように思うのですが。

小浜 ええ。ナイーブだし空想的ですよね。それからもう一つちゃんと言っておかなくてはならないのは、仮に百歩譲って麻原がそういう態度を取ったとしても、キリストにはならないと思うんです。ならないようにさせているのが何かといったら、それは歴史の違いなんです。ぼくは、それが人間が歴史を積み重ねてきたことの意味だと考えているんです。キリストの時代には知というものはほとんど宗教の形態でしかあり得なかったわけですね。そのことと、現代の宗教は他のさまざまな観念諸形態に囲まれながら存在しているということの意味のちがいが、ぼくはすごく大きいと思うんです。それから情報の在り方ですね。すべて麻原のやったことというのは残ります。キリストの時代の伝承の形態と、この時代の伝承の形態はまったく違うということです。キリストも人を殺しているかも知れませんが、この時代の伝承は抹消されませんよね。こうした違いをわきまえないというのは、まったくナイーブだという他ないですよね。

 もっといえば、ぼくは吉本さん、あなたもですかと言いたいところがあるんです。つまりあれだけ知識人に対して強い批判意識を持ってきた人でさえ、やっぱり知識人なんです。親鸞に傾倒し、そこから宗教という「」で括った縦の系列の解釈図式を抽出して、無防備に現代の場面に当てはめているんです。それはどこまで有効なのか。現代宗教と呼ばれているものはどれだけ他のものと関係があるか、そもそも現代の宗教とは何なのか。あるいは現代で信じるとはどういうことなのか、どういう心的な刻印を帯びざるを得ないのか。そういう手続きを経た上でなければ、単に教義として仏教の教義はこれこれである、いやあれは正統であるといった議論に終始していたって、ぼくはこの事件のもつ現代的な意味には切り込み得ないと思うんです。ただし、一つだけそこで意味があると思うのは、既成仏教が現在さらしている無力性への切り込み、という点ですね。

佐藤 既成仏教の無力性を逆に示してみせたという点はまったく同感ですね。それで小浜さんの、宗教を他の観念と比較して検討してみる、それが現代的課題だという指摘はまったくぼくにはなかった観点で、教えられるところが大でしたね。

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