リアルタイムの「オウム真理教事件」 宗教・戦争・超能力(1995/6/10〜20・ノート)その3 佐藤幹夫 *樹が陣営13号掲載の原稿に訂正を加えている。 3.マインド・コントロール、もしくは洗脳 オウム真理教がカルト教団であることを強く印象付けたのが、勧誘の悪辣さと、洗脳やマインド・コントロールといわれるものであった。宗教の勧誘は、ある種の洗脳を伴うものであることは避けられないだろうが、しかしそこには密室への長期の監禁、薬物の使用など、もっと物理的力を伴った「強制」があった。その目的も、たんに宗教的教義の注入にとどまらず、そこから離脱することへの徹底した恐怖心を植えつけようとするものであった。 私はマインド・コントロールの方法の一つとして洗脳という手段がある、と単純に考えていたのだが、今回いくつかの資料を読み返してみると、言葉の使用に若干のニュアンスの相違が認められた。洗脳とマインド・コントロールが同義なのか、あるいは適用の範囲に相違があるのか、まずはこの検証から始めよう。『Bart』5月22日号には次の記事がある。 《洗脳とは人間を破壊して、人格を破壊する、恐ろしい心の操縦≠セという。また洗脳とは、それまでの思想を改めさせ、新しい思想を植えつけること≠セともいう。/しかし、学術的に確立した言葉ではなく、外国語にもできないのが洗脳という言葉だそうだ。/「一番近いのが、マインドコントロールという言葉なんです」と、精神病理学者の座間見宗和・茨城キリスト大学教師は言う》 しかしテレビにおいては、洗脳とは「BRAIN WASHING」の邦訳だと言われていた。もう一つ、『マインド・コントロールの恐怖』(『恒友出版 1993』)の著者スティーブン・ハッサ ンとその訳者で宗教学者の浅見定雄の対談の中では、 《ハッサン 洗脳は、第二次大戦や朝鮮戦争で実際に行なわれていました。通常のマインド・コントロールと違って、洗脳の場合、食事や睡眠の制限、監禁などの身体的な虐待をともなう思想改造を行います。 ですが、現在、様々なカルトで行われているマインド・コントロールは、もっと洗練されたもので非常に巧妙になっています。洗脳の場合は、物理的にそうせざるを得ない状況を作って行いますが、マインド・コントロールは、最初は非常に友好的なやり方で始めるんです。》 (「カルト教団『洗脳』の恐怖」『文藝春秋』6月号) と語られている。あるいはまたリチャード・キャメリアン『洗脳の科学』(第三書館 1994)における浜田至宇の解説においては 《その方法の発展を歴史的にみると、拷問などによって肉体的にその人間を支配しようという原始的ともいえる方法から、人間の心に対して心理学的手法を用いてコントロールしようとするもの、そして人間の脳に生理学的手法をもちいて影響を与え心をコントロールするものへと、その方法は進化・発展してきたと言うことができる》 とあり、心理学的手法としてサイキック・ドライブ(二十四時間同じ言葉を繰り返し聞かせるもの)、あらゆる外的刺激から遮断した環境の中において精神を破壊しようとするものが含まれ、これらを「洗脳」といっている。また生理学的手法とは、薬物の投与、脳へ直接電気刺激を与える手法、電磁波を利用したものが例としてあげられている。 信者獲得のためオウムであることを伏せて近付いていくためのマニュアル、そしてサイキックドライブや薬物投与など、こうした実態が今回明らかになったのだが、それはまさしくオウム真理教が、洗脳やマインド・コントロールへの研究を怠りなく進めていたことを証している。 しかしマインド・コントロールはカルト集団だけが利用しているのではないこともまた明らかである。社員教育、集団心理療法、マルチ商法、自己開発セミナーなどもまたマインド・コントロールの一典型である。そればかりか私たちの消費行動も、CMによるマインド・コントロールであり、『洗脳の科学』の訳者は、学校教育すら社会にとって有用な人間となるための洗脳なのだとしてそこに含めている。この言い方に倣うならば、私たちが「大人」として社会化されていくことすらも、その範疇に入ってしまうだろう。 このような、マインドコントロールの概念をいたずらに拡張していこうとする論理の進め方には疑義を覚える。問題の在かがまったく別なのであり、ここでは限定して考えるべきである。これはこれで一つの大きなテーマなのだが、ともあれオウム真理教について話を戻す。 信者たちがマインド・コントロールされていると語られるときの文脈は、おおむね彼らが脱会し、社会に復帰するときには著しく困難をきたし、時には精神に破綻をきたすことさえある、というものである。そのために逆洗脳するのだということは私も知っていたが、海の彼方のアメリカにはカルト教団から脱退したあと精神を病む、「宗教精神病」という言葉さえあるということは、今回初めて知った。 いわばマインド・コントロールはカルト教団のもつきわめて悪しき側面を顕すものとして私たちの前にあるのだが、ここからさらに踏み込んで認識の楔を打ち込むことはできないだろうか。その足掛かりとして、大塚英志の次の一文を引いてみる。 「マインドコントロール」 《(略)新宗教をめぐる報道の中で盛んにマインドコントロールという言葉がとびかうようになった。だが、ある人間が新宗教を信じるのはマインドコントロールされたからである、という説明は、新宗教をめぐる一番本質的な問題を隠蔽する。(略)かつてイエスの方舟事件がそうであったように、新宗教に成人した人間が家を捨ててまで駆け込むというのは、少なくとも彼らと家族の間に相応の問題があったのではないか。 もちろん家族の問題に限らない。オウムに入信し、あるいは出家した人々は彼らなりの問題を、彼らの内面やあるいは社会との関係に於て抱えていたはずである。その彼らなりの動機や必然を、マインドコントロールで片付けてしまっていいのか。 マインドコントロールは去られた側の家族や社会をまず免罪する。(略)だから問題は放置される。 問題を放置しなかったイエスの方舟の女性たちの多くは、家に戻らなかった。だから宗教としてのオウム真理教が問われるのも、すべてが終決した後であるように思う。それでもなお、彼らが信仰を捨てず、彼らが家を捨てなければならなかったことの意味を引きずり続けるなら、それは宗教の名に値する。そうやって宗教として彼らが成熟する権利を奪ってはならない。》大塚英志(「産経新聞」朝刊4月23日) ここで示されている大塚の認識も、宗教と社会、家族との関わりや、宗教の本質に向けようとする数少ないものである。マインド・コントロールという言葉は、教団が用いた悪辣な手法は照射するかもしれないが、そのことによって逆になぜその人間が宗教を必然としたか、という側面は隠されてしまう。それはその通りである。しかし、自らが進んで信仰をもち、その教義に帰依することと、それが物理的強制力で行われることとは明らかに別のことである。1950年代から60年代、創価学会がそうとう強引な手法で信者の拡大に走った事実があるように(折伏と呼ばれた)、宗教教団が潜在させる側面があることも見逃してはならないだろう。ここにはどちらとも判別がしがたいというグラデーションはあるのだが、大塚の言説は、それが性急になされるとき、この点を逆に隠蔽してしまうことになる。 ところでまたこの洗脳やらマインド・コントロールという言葉は、人間の心や精神の仕組み、あるいは私たちが自己とか自我とか思いなしているものが、外的な作用や環境によっていかようにも組み替え可能なのだということを改めて教えてくれた。それは紛れもなく恐怖であるのだが、しかしまた逆のことも指し示してはいないか。 信者たちが修行として自らに課している自律的な精神や肉体の鍛練は、やはり何程のものかをもたらすということを、逆に証している。洗脳やマインド・コントロールが外的な力によって人格の変容を強制されることであるなら、修行というものは、それを自身が望み、自身で身体や精神に課していくことをいうのではないか。つまり「修行」とは、ある一定のプログラムのもとでなされる心身の変容である。大乗仏教の経典にも、そうした側面がまちがいなくあるのであり、このことを近代的理性によってとうに乗り越えられた「妄迷」である、と軽く見積もるわけにはいかない。 むろんこれは両刃の剣である。「修行は解脱するか狂って死ぬか、どちらかだ」という麻原のフレーズが残って離れないのだが、ここに宗教の本質を言いあてている、恐ろしいまでものリアリティを感じるのは私だけか。恐らく「分からない」人間には分からないだろう。それをよしとした人間に、あなたはマインド・コントロールされているのだと言ったとしても、何かを言ったことになるのだろうか。マインド・コントロールされているのはむしろおまえたちの方ではないかと切り返されたとき、反証することができるだろうか。この反証不可能性が、宗教の宗教たる所以である。もう一つ引用する。 「メディアの中のオウム」 《戦後、信教の自由が保証されましたが、オウム真理教内部では信教の自由、やめる自由がない。一方、オウムを批判する我々の中でもオウムを信じる自由が否定されている。信教の自由、精神の独立が実はまだ確立されていないことがはっきりした、にがい事件だったと思います。》橋爪大三郎(「毎日」夕刊 4月25日夕刊 「雑誌を読む」の鼎談より) この信教の自由、脱会の自由とそこにまつわる精神の独立という問題は、私たち日本という風土に住むものにとっては、もっとも不得手とするものではないか。私は、日本人が宗教的に寛容であり、いい加減である、という説を信じていない。むしろ逆である。日本人くらい、新しい宗教に非寛容な国民はいない。仏教もキリスト教も、その他の新宗教も、国家混乱の際に大きく力を伸ばし、そのたびに弾圧されてきた。 信教の自由は、信教の不自由を認めるだろうか。信教の不自由は、信教の自由を認めるだろうか。恐らくどちらも「否」である。そう考えるのは、宗教がもともともつ特性であることに加え、この国に独特の宗教的非寛容の存在を強く感じるゆえである。マインド・コントロールという言葉だけで宗教を説明してしまうことは、こうした問題をも遠ざけることになる。 |