女性身体とエロスを読む(その3)
伊藤比呂美の<呪言>的リズム 「性」という主題と八〇年代 伊藤比呂美は<語り>の詩人である。自在な<語り>からおりなされるリズムに読み手が共振したとき、もっとも本領を発揮する詩人である。伊藤比呂美が何をうたっているのかという問いに答えるには、ことばの指し示す意味内容以上に、リズムと語りの特性に真っ先に求められなければならない。 むろんこの詩人にとって、「性」は主要な主題である。例えば初期作品において「あたしは便器か」と、ポツリと突き付けたとき、この詩人のセンセーショナリズムが宿命付けられたはずだ。それは、男と女の性愛関係において言ってはならない言葉であり、それが一つの突破口となったという印象をわたしは持つ。さらに、『テリトリー論』という作品が偉大なる「性の求道者」である荒木経惟の写真と競い合うようになされることによって、ますますこの詩人の性神話を確固たるものにしたといえるだろう。 しかし、伊藤はたんに「性」を歌いあげる過激さにおいて八〇年代詩人の頂点に立ったわけではない。いや、確かに過激ではある。しかし「性」を過激にうたうことは露骨にうたうこととは異なっているはずである。 例えば「あたしは便器か」という呟きは「きっと便器なんだろう」というタイトルを持つ作品の末尾に置かれている。 あたしは便器か いつから 知りたくは、なかったんだが 疑ってしまった口に出して 聞いてしまったあきらかにして しまわなければならなくなった この詩句に解説など不要だろうが、性が女にとってこのようなものだと見なされたとき、男の言辞はすべて嘘八百となり、美辞麗句は戯言となる。まして女性を前にして「そうだ、お前(女)は便器なんだ、それで文句はあるか」などとと開き直れる男がいたとしたら、わたしはお目にかかりたい。たとえ腹のなかで、これに類したことを百も考えていたとしても、だ。どちらにしても女の中に生じた疑惑を解消できるどころか、不信や憎悪を募らせるだけだろう。 そしてこの一行から、胎児はウンコであり、出産は排便であるという言挙げまでは真っ直ぐにつながっている。排便のような出産とは母性神話という抑圧からの解放であり、女性という衣装と母という衣装を捨てて行くそのプロセスが、伊藤比呂美という詩人の歩みである。 これ以上多言を費やすことは、男であるわたしにとって自分の首を締めることになりかねないおそれがあるが(笑)、いずれにしても消費社会たけなわの八〇年代初め、性愛とはそのようなものだとはっきりと口にする女性が現れてしまった。そして伊藤比呂美と同じ時期に現れた女性詩人たちは、そこに言及しようとすれば、男が自分で自分の首を締めざるを得なくなるような?言葉を秘めていた、というのは過褒だろうか。 ここで少し脇道に逸れるが、たかがセックス、どうせこっちは便器じゃないかと開き直り、女子高生という付加価値をフルに稼動させてショーバイに励んでいるのが、言うところの援助交際の少女たちである。むろん開き直りは無意識のうちになされており、彼女たちは、ちょうど伊藤比呂美がこのような言あげをした時代に生まれている。これは偶然の符合ではない、とわたしは見る。ここには八〇年代初期の男と女をめぐる大きな意識変容があり、それはさらに加速して現在にいたっている。その筆頭が女子高生などの十代の少女たちだということになる。 語りのリズムと「行わけ」 伊藤比呂美の詩作品についても、こうした時代背景を附置しながら、<性>についての主題論的な展開が可能であるだろう。しかし、やはり伊藤比呂美において解かれるべきは語りであり、リズムである。 わたしが気ままな読者として詩をかじり始めたのは八〇年代の半ば以降だったのだが、すでに伊藤比呂美は他の女性詩人たちを頭一つリードして、確たる位置を占めていた。すくなくともわたしにはそのように見えた。この詩人の作品をまとめて読んだのは『現代詩文庫 伊藤比呂美詩集』一冊によってであり、したがってリアルタイムで伊藤比呂美体験をしていない。 そのことを正直にコクハクしながら『現代詩文庫』一冊を眺め渡してみると、『テリトリー論』を中心として編まれていることがすぐに分かる。第一詩集の『草木の空』からは作品は採られていないし、『伊藤比呂美詩集・ぱす』からは二篇、世評高い『青梅』からも五篇に過ぎない。それでも伊藤比呂美の語りが変容を見せていることは分かる。 『伊藤比呂美詩集・ぱす』より採られた「歪ませないように」と「きっと便器なんだろう」においては、性愛の詩句はときに過激ではあるが、ことばはきわめて平明である。しかしその平明さは、決して単調さを意味しない。行変えの呼吸や語りのリズムによって、この詩人独特の心理世界を描き出している。しかしそのことだけで、格別の個性として、同時代の詩人たちから抜きん出ることができたとは思われない。 詩集『青梅』より引かれた「虚構です」になると、行変え詩とともに散文詩行が導き入れられている。いわば散文詩の語り口と行変え詩のリズムが併置されることで、ある対比が際立たせられている。何が対比されているのか。対比させられていることで、何が明らかとなるのか。例えば、 最小限度に書き込んで 封して、 投函した。 切手の裏を、 唾ためた口で、 ぺろりと舐めた。 すうっと向こうへ遠ざかる というふうではなかった。 …… これは、実は作品の後半の散文を行変えしたものである。原文は、 最小限度に書き込んで、封して、投函した。切手の裏を、唾ためた口で、ぺろりと舐めた。すうっと向こうへ遠ざかるというふうではなかった。… となっている。ここでの散文は行を変えることによって、十分に行分け詩としても読むことができる。行分け詩として読み得る散文詩行を対置させ、詩人はなにを果たそうとしたのだろうか。 一行をどこで区切るか。そこには作者の強い選択が働いている。それはモチーフの表出であると同時に、詩という形式が持つ強い選択性である。詩を書きたいという欲望は、端的に、ことばを区切りたい、一文を行分けしたいという欲望である。あるいはことばとことばの余白、ことばそのものへの余白の欲望であるといってもいい。読み手にとって言えば、区切りや余白はリズムとして体感される。行変え詩は、作者の息継ぎを読み手に強いて来るのだ。 しかし散文形式では、読者が自分の呼吸で読み進めることが比較的可能になる。とくに句点のない一行は、 すうっと 向こうへ遠ざかる というふうではなかった でもよいし、 すうっと向こうへ 遠ざかるというふうでは なかった でもよい。「行ワケ詩と散文とを並列させることの相乗効果を発見」と『現代詩文庫』の解説で佐々木幹郎が書いている以上のことを言えるわけではないが、前半の行変え詩で作られた詩人のリズムを身体に残して後半の散文を読むこともできるし、もっと自在な「喋り」として―つまり自分のリズムに近づけて―読むこともできる。話者―聞き手の関係が、その語りのさなかにどこまで意識されているか。意識の強度の相違が、ここにはあるのではないか。 そして『テリトリー論2』に至り、行変え詩においてリフレインが多用され始める。とくに「霰がやんでも」「カノコのしっしんを治す」「カノコ殺し」はそれが顕著であり、次の『テリトリー論1』でもなおいっそう明らかである。むろん畳句という手法は珍しいものではない。一般論としていえば、作品一つ一つにおいてその効果は異なっているというほかないのだが、『テリトリー論』からわたしが受けとめた感想は次のようになる。 憑依していく語りの身体 作品全体において平明なことばが選ばれ、語が次の語を呼ぶように語られていくが、しかし行変えの息継ぎ、語のもつリズムなどは、作者のモチーフとの責めぎ合いの中で強い選択を受けている。そして語りのリズムが作者によって統御され、自在さを得ていると感じられるとき、わたしには主題が深まったという感知としてやってくる。「霰がやんでも」から部分を引用する。 まるのままのおちんちんのついた(産みたい) それでわたしと性交できる(産みたい) わたしに射精できる(産みたい) 髪を剃らなければいけないが(産みたい) 剃っても剃りあとに体臭が残っている(産みたい) 二十二歳の背の高い男を(産みたい) 十九歳の背の高い男を(産みたい) 二十五歳の背の高い男を二十九歳の背の高い男を(産みたい) 大便みたいに 産もう、一緒に すてきなラマーズ法で うー ……(以下略) 一つの詩句のあとに、「産みたい」という声が唱和する。この声はリフレインされることでどこか呪詛めいてくるが、それは男の記憶が重ねられているからではないか。わたしなどは、十九歳、二十二歳、二十五歳、二十九歳という年齢の記述を読むと、そのときどきに、キツイ恋愛をへたのだな、などと勘繰ってしまうのだ。しかし呪詛めいてはいるが、詩句が巧みにズラされていくことによってこの呪詛自体が戯画化される。戯画化され、笑いを誘われそうになるその背後から、コワい女だなーという思いもまたやってくる。末尾。 は、は はずかしい分娩 成長する卵たち 分裂する卵たち 蠕動する卵たちが足を突き出す額を突き出す うれしい うれしい卵たち うれしいなっとう うれしいはっさく うれしい腎臓 うれしい小鳥の霰たち うれしい「ひろみ」たち 産みたい 産みたい イタコやシャーマンの用いる太鼓、鉦、数珠、そして唱和する声、これらはトランスに導くための装置である。わたしはイタコの語りを聴いたことがあるが、その語句の内容は常套的であり、単純なものであった。しかし単純な語句がそれらの小道具と共に、ある節回しをもって繰り返されていくうちに、身体に律動がやってる。その律動にこちらがどこまで共振できるか。イタコの「下ろし」が迫真を持つか否かはそこにかかっている、と後で聞かされ、なるほどと思った覚えがある。イタコの律動に身体が席捲されたたとき、受容する側にもトランスの状態が訪れる。そこに、今度はイタコの方が共鳴し、さらに深い冥界へとおりてゆく。つまり「イタコ下ろし」とは共同の作業なのだ。 伊藤比呂美の詩を読み、わたしが真っ先に思い浮かべたのはこのことである。先に散文詩と行分け詩とを対比させた「虚構です」において、語りにおける聞き手への意識の強度云々という指摘をしたのだが、それが「語りによる憑依」「憑依してゆく語り」という、うたが根源にもつ呪力として示されたということになる。それがこの詩人の最大の魅力なのだ。 こうしてたどり着いたわたしの大まかな結論は、『現代詩文庫』における上野千鶴子や佐々木幹郎の指摘に近いものとなる。上野いわく「もと拒食症の少女の悪魔祓い」、「霊媒の呪文」。(上野は、伊藤比呂美と『ノロとサニワ』という共著をものしている)。あるいは佐々木曰く「歌比丘尼」。したがってわたしの感想は二番煎じ、三番煎じにすぎず、本当は、これ以上付け加えることはない。 しかしこのことを主題の側から見るならば、「あたしは便器か」という問いかけから始まったこの詩人の営みが、単純な呪詛からもフェミニズム的な政治図式からも自由な手法を手にしたことを告げている。あるいは、女であることのカッタルさやシンドさ、男への呪詛めいたおもいが、文化という厚みの中で表現される通路を得たのだと言ってもいい。『テリトリー論』1、2はその到達点である。 「子殺し」という主題 産まれた児は、愛情の対象ではあるが、愛を注ぐことのみでは、この詩人の生は完結しない。児は母にとっての刺客だとも感じられている。つまりいつ、どこで母親を昔の悪夢の中へ引きずり込んで行くかわからない、その隙をうかがっているような存在である。(産みたい児が昔の男だったわけでもあるし)。子捨て、せっかん、子殺しがうたわれ、滅ぼしておめでとうございますと書かれる所以である。長編詩「カノコ殺し」より部分。 六ヶ月経ち カノコは歯が生えて 乳首に噛みつき乳首を噛み切りたい いつも噛み切る隙をねらっている カノコはわたしの時間を食い カノコはわたしの養分をかすめ カノコはわたしの食欲を脅かし カノコはわたしの髪の毛を抜き カノコはわたしにすべてのカノコの糞のしまつを強要しました カノコを捨てたい 汚いカノコを捨てたい 乳首を噛み切るカノコを捨てるか殺すかしたい カノコがわたしの血を流すまえに 捨てるか殺すかしたい わたしは嬰児殺しをしたこともあります 死体遺棄したこともあります 産んですぐやればかんたんです みつかりさえしなければ中絶よりかんたんです みつからずにやってのける自信は いくらもあります カノコはいくらでも埋められます 埋められたカノコおめでとうございます おめでとうございます 妊娠から出産を経、その後一年ほどに及ぶ母子接触の体験は、男にはおよそ窺い知れない。男であるわたしの側から、あえてドラマ性を際立たせて描いてみれば次のようになる。無事に生まれた子に、母となった女はすべてのエネルギーを注ぎ入れているように見える。授乳のときなど、ときに近寄り難いと感じさせられる。しかしまたあるときは、こちらには理由の推測しきれない苛立ちを挙動の端々に滲ませている。わたしはいくどか、さりげなく母親の手から子を離したことがある。 あるいはなんでこんなに無防備に、と感じさせる依存を見せていたかと思えば、次には拒絶をあからさまに示され、ついつい、これは本当におれの子かなどと、益体もない思いに動かされかけたこともある。わたしなどは子育ての激務に巻き込まれることを厭わなかったタチだから、連れ合いよりも子どもに目が向いていた方だったと思う。それでも、こんなふうにして女は母親になっていくのか、と感慨めいた思いを抱かされたことを覚えている。むろん感慨は複雑である。しかし子を抱く母の内実もやはり窺い知れないというほかない。さらに同じ作品の部分。 わたしは思わずカッとなって カノコ(六ヶ月)の頭を そばにあった目覚し時計で殴りつけると カノコはぐったりしてしまって 呼んでも揺すっても叩いても びくともしなくなりましたので 殺してしまったたいへんなことをしたと思い こわくなって そのままカノコを置いて 外出しました 二時間ばかりして戻ってみますと やっぱりカノコは死んでいるようで 全身に黒い蟻がたかっておりまして はじめに置いたところより ちょっと動いているようでした 子育ての苦労、言ってしまえばありきたりな言葉になってしまう営みのなかで、女性たちは過去や未来の出来事にさまざまな思いを巡らせているはずである。嬰児は無防備な存在である。自分がいなければ、すぐにでもあっという間に息絶えてしまうだろう。だからこそ子どもはすべてを奪う。母親は、子どもにその時間のすべてを奪われる。その無償の情熱は、無償ゆえに、ときにこのようなはげしい亀裂を見せてしまう。 わたしは素朴に思うのだが、母による「子育て(=子殺し)」というテーマは小説やノンフィクションでは選ばれても、これまで詩で歌われるものだと感じられてこなかったのではないか。子育てなどというものがきわめて散文的で、日常そのものであると思いなされてきたからばかりではない。「子を産み育てる母」というイメージの分厚さはが、どんな詩のことばをも跳ね返してしまうようなものだったからである。 それを突破する契機となったものが、実は「わたしは便器か」という呟きであり、そこからはじまった語が語を呼び、ズレながら連鎖して行く日常語による語り、呪術のように読み手の身体に律動するリズムであった。そのことで子育てが子殺しでもあるような表現が可能となったのだ。 「文字」について ところで、ことばの持つ原始的でマジカルな力に存分に迫り得ている現代詩人といえば、いうまでもなく吉増剛造だろう。意味、音、形象(としての文字)というあらゆる面からの開示において、吉増は現代詩の巨人である。その吉増を持ち出して伊藤比呂美と比較するなど、笑止のさたなのかもしれない。シロウトの思いつきそうなケレンであると言われれば、笑って引き下がろう。 両者の比較などはわたしの手に余ることは承知ではあるが(ここにはひょっとしたら男女両性のシャーマンがはたしてきた、文化的実際的役割の相違があるのではないかという壮大な―だけの?―仮説を打ちたてようとしたのだが、さすがに今回それは断念した)、一つだけわたしにも言えることがある。それは伊藤比呂美が徹底的に現代消費文化とサブカルチャーの洗礼を受け、あるいはそれらを滋養とする(せざるを得なかった)ことを経て、呪言めいた手法に至り付いたという点である。それが吉増との決定的な相違である。バックボーンとしている文化が違うのだ。 たとえば「文字」とは、吉増にとっては書字であるが、伊藤にとってはワープロによってはじき出された活字が前提となっている、というように。だから吉増は、形象としての「文字」そのものに向かう。しかし伊藤にとって文字とは、いかようにもフォントされる活字である。そうわたしには思いなされる。 わたしは伊藤の詩集を所持していないので、ここからは留保をつけての議論となるが、『感情線のびた』というエッセイ集はレイアウトや割り付け、活字のポイントやフォント(地のエッセイは9ポの明朝体で、詩は8ポのゴチックで、童話は10.5ポで、というように分けている)など、それぞれに変化を与えている。(これが編集者の作りか伊藤比呂美自身の手になるものなのか、わたしには分からないが、ここに詩人の大いなる意図を読み取りたいと思うのだ)。 さて、詩人による作品のビジュアルな試みは珍しいものではない。そこには絵画、ことば、音楽という他ジャンルへの横断というモチーフがあるだろう。詩自体を、アートそのものへ架橋したいという欲望を見てもよい。伊藤比呂美もそれらに属するのかもしれないが、しかしわたしには、よりジャンクな、コミック誌と同じような感覚で、『感情線のびた』一冊をまとめようとしたかったのではないかと察せられる。 詩と、詩に近い散文と、詩を生み出すもととなった散文と、詩のような童話とが、境界を溶かすように編まれているのだが、コミック誌においては、すべてがコミックである。広告や活字でさえコミックなのだ。同様に、『感情線のびた』はすべてが自身の詩を意識して編まれていると言ってもよい。その意図が、レイアウトや活字のポイントへの徹底したこだわりとなって現れた、とわたしは見る。吉増剛造は、文字そのものに憑依するが、伊藤比呂美はさまざまに組成された活字に動かされるのだ。 ことばがことばを呼び、物が次なる物を呼び、ズレが生じ、そのズレによって次のことばが呼び出され、というように書かれた作品は、現代の消費社会に生きるわたしたちの感性そのものの「喩」になっている。その内実をかたどっているのがリズムの力と、文字=活字へのこの詩人独特の感性である。 伊藤比呂美と吉本ばなな 最後にもう一つの蛇足めいた問いを置き、この駄文を閉じよう。 それは、なぜこの詩人は、吉本ばななのように超常的な世界に向かわなかったのか、という(しょーもない?)問いである。シャーマンとはなによりも此岸と彼岸を行き来し、死者と現世の人間とを橋渡しをする存在である。死あるいは死者を歌った詩は伊藤にもあるが、そこにばななのような霊的なものは現われない。たとえばばななの世界が日常と超常の融合を可能にすることで、救いや癒しといった感覚を文体化し得たのだが、乱暴に言えば、ばななは「あちら側」にいざなおうとする。しかし伊藤比呂美にはそのような世界へ読者を誘う作用はない。 しかし自身の身体も、男も、性交も、この世の苦痛以外なにものでもなかった、あるいはアンビヴァレンツな感情をもたらすものであった(と察せられる)伊藤は、むしろ「こちら側」に踏みとどまるために、ことばを自らの身体に向けてゆく。(これを上野は「浄化儀礼」と呼んだのではないか)。一方ばななは、ことばを自身のうちには溜め込まず、とき放つように外に向ける。これは、自らに刻印付けられた女性性、あるいは女性身体への自意識や葛藤の相違による、とひとまずは言えるだろうが、同時代の優れた二人の表現者のこのような相違は、わたしにはきわめて興味深く映る。ここにはある決定的な相違が見られるからだ。 吉本ばななの世界が可能になったのは、歴史と断絶した人物を登場させたことにある。つまりエゴイズムや葛藤やらの他者性の問題を死の問題と同致させるという、ばなな固有の方法で消し去られているのだ。ここにばななの描く超常世界のリアリティを解く鍵がある。(とくに『アムリタ』。この主題は別稿で展開の予定)。 しかし伊藤比呂美にとっては、まずは自身の身体が拒食症という他者として現われた。そして男は、その他者に介入し、あてどなく混乱させる二重の他者であった。しかし妊娠を契機とし、呪的なリズムを伴った、いわば文化風土へと広がりうる手法をうちたてた。「カノコ殺し」において多用される「滅ぼしておめでとうございます」というフレーズがもつリアリティは圧倒的である。呪文のようなこのリフレインによって、作品主体は辛うじて此岸と彼岸の狭間でつなぎとめられている。カノコを殺すことは自身を殺すことであり、しかしそのことでカノコも自身も延命できるのだ、と言えば、ためにするレトリックに響くだろうか。 少なくとも作品を読み進めているさなかにあって、この「滅ぼしておめでとうございます」というフレーズから、二重三重の響きが立ち上がってくるのを感じるのだ。滅ぼしたものは、自身の拒食症だった身体であり、かつての男であり、男とセックスをする女性身体であり、妊娠し出産した母親としての身体であり、そしてそこから産み落ちた子であり…というように。伊藤比呂美によってうたわれる妊娠や出産が彼岸と此岸とをつなぐように作用し、胎児や赤子が、あたかも此岸から呼び出された存在のように響く逆説は、たぶんここに由来する。 この詩人にとって癒すとか癒されるなどということばほど無縁のものはないだろう。だからわたしのように散文的この上ない人間にとっては、『伊藤比呂美詩集』一冊は、一人の女性による、「ある闘いの記録」としての相貌を帯びている。 トップページに戻る |