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  『思い出のマーニー』論 ーもう一つの「アンネの日記」体験へー

                                                       村瀬 学

 


  1 「マーニーって杏奈のおばあさんだったのね」という理解の批判

 

 「マーニーって杏奈のおばあさんだったのね、ネットにネタばらし注意!って書いてあったわ」と学生が話をしているのを聞きながら、『思い出のマーニー』が、そんなふうな理解のされ方で広がっているのかと思うと、とてももったいない気がしたものだ。損をしていると思った。私が原作を読んだときの驚きは、ちょっと言葉には出来ないものだった。「マーニー」は本当に不思議な存在で、最後になるまで、その正体が分からずに、やっとこさ「わかった」感じになったときに、深い感動を覚えたものだった。こんな複雑なしくみを持った作品がアニメに出来るのだろうか、とその時思ったものだ。そしてアニメを見たときは、原作を読んでいた者にだけわかる、「期待が裏切られていない」感覚を味わうことができていた。原作の不思議さがとてもうまく再現されていたからだ。しかし、その感動は「マーニーって杏奈のおばあさんだったのね」というような単純なものではなかったのに、ネットでそういうことが「作品の結末」であるかのように見なされ流されていることには、とても残念な思いをしたのである。そういう感想は、作品をただ推理小説のように読んだ感想にすぎない。「犯人は○○だった」という話の落ち。だから「犯人」を知ってしまえば、もう作品を知ってしまったも同然のような理解になる。しかし『思い出のマーニー』は、そんな推理小説ではなかった。

   もしこの作品の落ちが「マーニーって杏奈のおばあさんだったのよ」というところにあったのだとしたら、この作品は、ただただラッキーな女の子の、シンデレラストーリーになってしまうだろう。杏奈のように親を亡くした子どもたちはたくさんいるわけだが(『秘密の花園』のメアリもそうだった)、その苦しい生い立ちから救い出してくれたのは、かつて裕福に暮らしていた祖母だったというのであれば、そういう「裕福な祖母」を持たない多くの親の居ない子ども達は、こういう作品を自分には関係の無い、ただのラッキ-な女の子の話に見えるのではないか。そんな「お金持ちのおばあちゃん」がいる子ってうらやましいわ、で終わってしまうのではないか。しかし実は物語はそんなふうに読まれるようには出来ていないのである。

 

  2 「窓」があった

 

 杏奈とマーニーの最初の出会いは、杏奈が「湿っち屋敷」の「窓」にマーニーの姿を見たところから始まっている。印象的なのは、実はマーニーの方もこの「窓」から杏奈を見ていたことが明かされるところである。二人は、この「窓」を通して、「お互いを見ていた」のである。それは、この「窓」を通して、今までに見たこともないものを意識的に見ようとする努力に中で見えてきたものである。その「窓」とは何かがまず「問題」にならなければならないだろう。

 問題はその見ようとする努力が、人に見られないようにする努力の中で実践されていたので、二人はそれを、人には言わない(見せない)「秘密」にすることになる。原作でもアニメでも、二人は誓い合う。

  「おねがい。約束して。あなたも、あたしのこと、だれにも話さないって。ね、永久に、話さないって。」(松野正子訳)

  こういう風にはじまる物語を、原作でもアニメでも、ほぼ本当に「二人」が出会ったかのように感じさせられる。アニメでもその出会いは不自然にならないように注意深く描かれている。しかし「二人」は「現実」には出会っていないことがのちにわかる。では、この「二人」の出会いは杏奈一人の空想だったのかということになる。そう理解してしまえば、この長いお話が、杏奈の一人芝をというか、杏奈の幻想におつきあいをさせられていたということになる。しかし原作を読み終わった後も、そんな感じが残る物語にはなっていなかった。そこがこの物語の不思議なところなのだ。いったい読者や観客の中に、何が起こっていたのか。

  物語の展開で、はっきりとわかることは、両親を亡くした杏奈が、頼子(よりこ)おばさんに引き取らせ育てられていたのだが、打ち解け合えずにきていたというところである(養母なのに「おばさん」と杏奈は呼んでいる)。それはおばさんが、気を遣いすぎて、腫れ物に触るようにしていたとか、養育費を国から支給されていたことを隠していたとか(無理に隠していたわけではないのに)、杏奈にしては「口も聞きたくない」ようなことが続いていたからかもしれないが、思春期の少女にしては、実の親とでも「口も聞きたくない」ことが起こるのだから、それを特別視することはできないだろう。つまり養育してくれているおばさんに「問題」があって、杏奈と打ち解け合えずにいたというふうに考えることは出ないし、アニメでもその辺のデリケートな関係はうまく描いていたと思う。心配性のおばさんと、その気持ちが伝わらずにいる杏奈という、周りから見るとちょっとじれったい関係。でも、それが長引き、硬直状態になってきていたので、杏奈は北海道のセツおばさんの家に旅をすることになる。そのおじさん(清正)、おばさん(セツ)は、養母の頼子おばさんより、屈託のないというか、ざっくばらんな感じの夫婦だったので、変に気を遣い必要がなくて、それはそれで杏奈にとってはありがたいことではあったのであるが、でもだからといって、打ち解け合えるかというと、それはそうではなかったのである。

  杏奈には何が欠けていたのか。自分の思いを語れる相手がいないというところなのである。自分を悪く思う気持ちが強いので(それは「私は私が嫌いだ」という台詞によく表されている」)、自分で自分と話をするところまで進めないのである。そんな杏奈が、村はずれの誰も住んでいそうにない「湿っち屋敷」に、誰かのいるのを見てしまったのである。

 

 3 「窓」とは何かーもう一つの『アンネの日記』ー

 

  この「湿っち屋敷」から見えたものは誰か。それはもう一人の自分であった。しかし、それはただの空想の自分というのではなく、いままで誰とも「話」をしないできていた自分が、やっと「話し相手」としての自分を見つけたということなのである。ここが大事なところである。杏奈は誰かと話をしないではすまないところにきていたのである。そんな杏奈が「話し相手」を「窓」に見つけたのである。だから、当然、向こうも「窓」から杏奈を見ていたのである。杏奈と話するものがそこにいなければならなかったのだ。

 私は、杏奈が「窓」に見た少女との出会いは、ある意味での『アンネの日記』の杏奈が、「13歳」の誕生日にもらった日記のようなものだと感じた。この日記をもらったことで、アンネは初めて自分の胸の内を「誰かに語る」という体験を持つことになるのである。ここが大事なところである。「自分を語る」というということを通して、ひとは自分に形を与えてゆくことになるからである。アンネはここで「日記」を話し相手にするために「キティ」という名前を「日記」につける。そして名前の付いた「キティ」に向けて誰にも言えなかったことを語り始めるのである。その「会話」は、二人の「秘密」であった。

 それと似たようなことが、杏奈にも起こっていた。彼女は「窓」にいる少女が「マーニー」と呼ばれることを知る。そして、お互いの話したことを「秘密」にするように約束する。アンネとキティの関係のように。

  そうして、二人の関係は深まってゆく。作品の中で、読者でも、観客でも同じように感じたのではないかと思われる不思議な場面があった。それは、杏奈が自分の今いるおばさんの家のことなどを話しようとすると、あいまいな感じになって記憶がはっきりしなくなるところである。杏奈は何でそんな風になるのだろうときっと思われたのではあるまいか。杏奈は「語る」ことを通して自分の「姿」を見つめようとしているのだが、自分がはっきりしないときに、自分を引き受けてくれているおばさんたちの「姿」もはっきりしないのである。

 

 4 「ノート」が発見される

 

  『思い出のマーニー』と『アンネの日記』を私は偶然に結びつけているように見えるかもしれないが、そうではない。私が原作を読んでいた時も、ものすごく驚いたのは、確かに「湿っち屋敷」の改装の過程で「マーニーおばさんのノート」が発見される下りだった。このノートを通して杏奈は、自分が話していた相手が、実在したアーニーであったことを知るのである。

 こうした「隠されていたノート」ということを考えると、隠れ家を発見されて、ゲシュタポに着の身着のままで連行された後、隠れ家の床に散らばっていたノートを拾い集めて保管してくれたミープ・ヒースさんのことを思い出す。彼女がこのノート(「アンネの日記)を隠して保管してくれたことで、私たちは今日アンネのことを知ることになったからである。でも、それはたまたまアンネがそういう境遇で、特別で例外な出来事であったからですよと言われるかもしれないが、しかし、そうではない。というのも、この「隠されたノートの発見」というのは、すでにアンネが父から日記を買ってもらったときに、この日記に「キティ」という名前をつけ、そのキティの存在を家族から隠し秘密にしていたからである。

 思春期が「大人」から「秘密」にすることで手に入れてゆくものがあるのだ。アンネは、たまたまナチスから隠れて過ごすことになり、そこでつけられていたノートを、発見者が隠して秘密にせざるを得なかった経過をたどることになったのだが、「思春期の秘密」と「ナチスへの秘密」が重なっていることは、「秘密のノート」というもの運命を考えるときには、偶然とみなしてはいけないところがように私には思われる。

 ともあれ、杏奈はマーニーのノートを発見し、その後の歴史はアンネの日記を発見した。だからどうなんだといわれるかもしれないが、でもこの『アンネの日記』を13歳の時によんだ作家・小川洋子の回想録『アンネ・フランクの記憶』を読むと、この日記に出会うことで、自分も「語る」ことができることを知ったことが書かれている。つまりアンネが日記をキティと呼んで話しかけた記録を読んだ日本の少女が、自分もまた「語る」ことで自分に形を与えるすべを学んだわけである。小川洋子もアンネの日記から、語りかける相手を見つけることと、その相手に語りかけることの必要性を学んだわけである。

  おそらくそういう仕組みのことが『思い出のマーニー』にも描かれていたのではないだろうか。杏奈は、自分が話をすべき相手を秘密のうちに見つけた。この「秘密」のうちにということがとても大事である。アンネの日記はナチスからの「秘密」の問題と絡んでいるので、ややこしくはなっているけれど、アンネがキティとのことを「秘密」にしないと始まらなかったことは、思春期を生きる若者たちには共通していたはずである。つまり杏奈とも、という意味においてである。

  そして、「ノート」が発見された。これはでも物語としてはうまくできすぎではないかと思われるかもしれない。そういう感じがしないわけでもない。確かに杏奈がマーニーのノートの存在を知らなければ、物語全体がただの空想の話として受け止められて終わってしまう可能性が大きいだろうからだ。しかしそういうことにならないことは、アンネにとってのキティが、空想の産物ではあっても、そのやりとりがただの空想の遊びに終わらなかったことは、いまさんざん見てきた通りだからである。思春期には、どうしても「空想の相手」と話をしなければならない時期が誰にでもあったからである。たとえ普段話せる相手が居たとしても、それでもどこかに「もう一人の自分」と話をしなければならない時があったのだ。だから杏奈がノートを見つけなくても、マーニーとの出会いを、ただの空想遊びにしないで終わらせることは作家にはできたとと思われる。しかし作家はあえて杏奈がノートを見つける経過を描いたのである。

 

  5 「歴史を知る」ということと、「自分を知る」こと

 

 過去のノートを発見するとはどういうことか。つまり、杏奈がマーニーのノートを読んだり、小川洋子がアンネの日記を読んだりすることはどういうことか、という問いである。それはおそらく、自分以外の「人の人生」を追体験するという事であるように思われる。大きく言えば「歴史」を知るということになるだろうか。「人の人生」を追体験することで、人はそこに自分の姿を重ね合わせたり出来るようになり、それまではっきりしなかった自分の姿に少しづつ形を与えてゆくことがでいるようになるのである。自分だけが不幸だと思っていたのに、他の人も同じように悩んでいたのかということにも気がつくことになる。

 『思い出のマーニー』は、そういう意味で、人は内面で「もう一人の自分」と対話することが始まると同時に、その対話の相手を「人の人生」の物語の中に求めることが出てくることを示唆している。杏奈はそういう意味でマーニーのノートに出会っていたのである。だからそれはマーニーのノートではなくて、「アンネの日記」でも良かったのかも知れない。あるいは「キュリー夫人の伝記」でもよかったのかもしれない。「人の人生」を垣間見る時間を持つこと、それは物語や歴史を体験することなのであるが、そうすることで、自分の嫌なところばかりを見て、硬く口や心を閉ざしていた杏奈が、心を開くようになってゆくのである。

 『思い出のマーニー』は、だから二段構えになっていたのである。まず「対話をする相手」を「湿っち屋敷」の「窓」に見つけたということと、さらにその「対話の相手」の「歴史」をノートを通してを知るという二段構えである。そしてたぶん、おそらく私たちは誰でも、物事を深く知るには、その物事について誰かと話をするということと、さらにその物事の成立してきた歴史を学ぶということと、この二つが必要なのではないかという事である。

  この映画『思い出のマーニー』が発表されたとき、『アナと雪の女王』と重なっていて、ジブリ発行の冊子「熱風」では、この二つの作品を比較して、「ガール・ミート・ガール」という点で似ているなど言う宣伝をしていた。二つの映画は、ともに少女と少女、女性と女性が出会う話として同じではないかというのである。表面的な理解だと思ったものである。

  ちなみいえば、映画では「湿っ地屋敷」に新しく移り住んできて、マーニーのノートを見つけてくれる「彩香」というめがねをかけた少女が出てくるが、その少女は原作でも出てくる重要な存在である。映画では、このノートを見つけたことを「二人の秘密にしようね」と約束し合う。ここにも、少女と少女との出会いがあるではないか、といわれるかも知れない。男の子同士ではそんな約束はしないぞと。「ガール・ミート・ガール」特有の出会いがあるのだと。しかし私は、杏奈とマーニーとの出会いは、ただの「出会い」ではなく、くり返して言えば「歴史に出会う旅」であり、その「旅」が今度は杏奈と彩香の間でも引き継がれたということがここで描かれていたのだと私は思っている。そのことは原作では強く感じることが出来るのだが、アニメになった時の彩香は、「歴史を探す旅」をするには小さく描かれすぎていると感じたことをここで書いておく。映像を見ないで、原作を読んでいた人たちには、二人(アンナとジェインー原作の中でノートを見つける少女ー)は、もっと近いと感じていたはずである。事実原作では「長い茶色の髪の女の子は、アンナより少し年下のようにみえました」と描写されていたからだ。

 

  6 「湿地帯」という舞台

 

  ところで「窓」と共に、「湿地帯」も物語に欠かせない舞台になっている。この「湿地帯」の設定には何か意味があったのだろうか。「湿地帯」というのは、「陸」と「海」の境界線で、一つ間違えば、というか、うかうかすると、「戻る道」を見失ってしまうところである。だから歩いて渡れない時はボートを使う。この「ボート」も物語にとっては重要な役目を果たしている。というのも、二人の大事な会話は、この「ボート」の上でなされているからである。いったい物語にとって「ボート」とは何なのか。実は「ボート」も「湿地帯」も似ているのである。共に「海」でも「陸」でもない不確実な場所で、不確実な二人が、不確実な会話をして、少しづつ近づいてゆくのである。この揺れ動く境界線の上で、不確実な二人が、より確実な語りを求めて出会い続けようとする場所が、「湿地帯」であり「ボート」だったのである。

  そうした不確実な場所での出会いの後、杏奈はいつも変なところで寝ていて起こされる。これも重要なシーンである。似たような場面に、『となりのトトロ』のメイが、家の敷地の藪の中で寝ているシーンがあったり、『銀河鉄道の夜』で、最後草むらでジョバンニが目を覚ますシーンがあったりしたが、幻想のような世界から「目覚め」を描くことはとても難しいものが。ただ今回のこのアニメのように、若い娘が、夕方の道ばたで寝ているところを発見されるという場面は、見ていて異様に見えたことは確かである。原作でもそういう情景は描かれるが、映像としてみるわけではないので、その危険な状況はさほど気にならないが、アニメ化されると、危ないところで寝ていて、ほんとどうかしているんじゃないと、若い女子学生たちは感じたと思う。その無防備で危険な状態が、どうしても気になったことは確かである。その辺の演出にはもっと工夫があってもよかったのではないかと思う。

 

  7 「私を見つけて!」ー「内側の人、外側の人」の問題へ

 

 くり返して言うように、『思い出のマーニー』は、原作もアニメも、まれにしかいないラッキーな女の子を描いているわけではなかった。マーニーはくり返し「私を見つけて!」と物語の中で言っている。結果として、かつては「お金持ち」であったおばあちゃんに杏奈が出会うことになのであるが、でも物語は「主人公は、とうとうお金持ちだったおばあちゃんに出会いました」というような話には決してなってはいないのである。というのも、杏奈がそのマーニーを「見つけよう」と「努力」しなければ、見つけられなかったはずだからである。作品の中ではくり返しマーニーは「私を見つけて!」という。そこが一番のポイントになっているはずである。「マーニーを見つける」とはどういうことなのか。それは杏奈が自分を見つける努力をすることそのもののことであった。マーニーのいう「私を見つけて!」というのは、杏奈がが自分に向かい合い始めた時に、自分に声かけた言葉だったと私は思う。

 作品には、「内側の人、外側の人」という言い回しが出てくる。普通に考えると、両親がいて家族のあるひとは「内側」を生きていて、家族のない人は「外側」にいる人という理解であろう。杏奈はだから自分を、両親も家族も持たない永遠に「外側にいる人」として意識してきていたのだが、マーニーと出会い、話を交わすなかで、マーニーにはお金持ちの両親が居るけれど、その両親はいつも不在で、自分の近くに居るのはいつも意地悪ばかりするお手伝いの女性だと言うことが分かり、マーニーも「外側を生きている人」なんだと言うことが分かってくる。両親がいて家族があるから「内側の人」というわけではないことがわかってくる。そういう認識の深まりが物語にとってのとても大事なところであって、そこを単純に「ガール・ミート・ガール」のように言ってしまってはいけないのだ。

  私たちは自分の暮らす国を、「外側」に感じるか「内側」に感じるか、「問題」になるときがある。自分が国の「内側」にいると感じる人は、おそらく「愛国心」をもつだろう。しかし国を「外側」に感じる人は国に敵対心を持ち、国を転覆させようと考えるであろう。そういう判断の基準は、その人が自分の国の歴史をどういうふうに学ぶのかによって左右されると私は思う。「過去」を知ることを通して、自分が「内側にいる」ことを学んでいくからである。『思い出のマーニー』で使われる「内側の人、外側の人」という言い回しが投げかける問題は、そういう意味では、決して私たち読者や観客と無縁なところで問題にされているとは私には思われないのである。

 

  8 米林宏昌監督の課題ー「ハク」が自分を取り戻すようにー

 

 米林宏昌監督は、『思い出のマーニー』の制作開始にあたって、参加するメンバーに「あいさつ」をしているシーンがテレビで流されたことがあった。その時監督は、「今までのジブリのような青い空に白い雲が浮かんでいるというような、そういう感じじゃない世界観で・・・」映画を作りたいと言っていた。ジブリの過去の作品を、そういう「青い空と白い雲が浮かんでいる」というような言葉で総括するのは根本的に間違っていると思うが、宮崎駿さんなら映画に出来なかったところを映画にしたところは高く評価されなくてはならないと思う。宮崎駿さんのやろうとしたことは、これまでの私の説明では「歩行と地球」を結びつける壮大な物語りを構想するところにあった。そういうアニメを見てきた人たちにとっては『思い出のマーニー』は、ものすごく物足りないと感じたはずだと私は思う。そこのところは、米林宏昌監督はよく理解しなければならないと思う。しかし宮崎駿監督の映画と比較するだけで、『思い出のマーニー』を「悪く」いうのも、この作品の良さを見のがしてしまうことになるので絶対に良くないと思う。

 宮崎駿さんならなぜこの『思い出のマーニー』がアニメ化できなかったのかを考えてみたらよく分かることだ。宮崎さんの場合は「歩行と地球」があまりにも同時進行で描かれるので、話が極端な描写、極端な展開になってゆくのである。何かが不足しているのである。それは「歩行と地球」の間に「歴史に出会う」という仕組みを入れないといけないという課題である。「歩行ー歴史ー地球」という仕組みの物語化である。少なくとも今回、米林宏昌監督は、宮崎駿さんの取り組めなかった仕組み(「歩行ー歴史」)に踏み込んで映画化することが出来ていた。そこはこの映画のとても大きな成果になっているので、公平に評価されなくてはならない。ただ、その評価も、宮崎駿さんの問題意識とは切り離されてはならないのであって、たとえば杏奈がマーニーのノートから自分を再発見してゆく姿は、『千と千尋の神隠し』で「ハク」が千尋の「記憶」を手がかりに自分の過去を際発見してゆく姿と決して別のことではなかったからである。宮崎駿さんは、しかしハク」の過去や、「ハウル」の過去を、「物語」としてしかたどれなかったのに、米林宏昌さんは、「歴史をたどる」過程として描こうとしたことは新しい試みだったのである。それはこんど米林宏昌監督がジブリノ過去を「青い空と白い雲が浮かんでいる」というような言葉ではなく、ちゃんと「歴史の中のジブリ」を再発見してゆく作業と連動しているはずだと私は感じている。