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『かぐや姫』の罪について(その2)

村瀬学
 




 

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「かぐや姫」、この「鉄を生む火の姫」
        ―「炭焼き系の物語」と「鍛冶屋系の物語」のリンクするところ


 そのことを踏まえて『竹取物語』を観てみると、「竹取の翁」は炭焼き系の物語を下敷きにしていることがわかる。映画でも「炭焼きの人々」が重要な役割を果たすように描かれていた。そこは絶対に見のがされてはならないところである。そして、そういう「炭焼き系の物語」は、どこかで「鍛冶屋系の物語」とリンクしているのである。その「炭焼き系の物語」と「鍛冶屋系の物語」のリンクすることの重要性は、すでに柳田国男が「炭焼小五郎の事」で指摘していた。そのことを踏まえると、「かぐや姫」は、いかにも「竹取の家」に下ったかのように見えて、実は鍛冶屋系の家に下っていた可能性が見て取れることになる。つまり、「かぐや姫」は、鍛冶屋系の元に、「鍛冶の火」としてやってきていた可能性があることになる。竹取の根元に「黄金(ルビこがね)」が出てくるという話も、それが「鉄」であることは、すでに柳田國男が「炭焼き長者」の話として取り上げていた。「黄金(ルビこがね)」は「小金」とも書くが、それは鍛冶の言葉で「粉鉄(ルビこがね)」を意味していたからである。だから、そういう物語には、「炭焼きー鍛冶ー鉄(黄金のこと)」の連鎖のあることはすでに読み取られていた。

 そしてまた「かぐや姫」の「かぐ」も、「香具山」の「かぐ」が連想され、その「香具山」は「鍛冶」に関わる山であったから、「かぐや姫」というのは、その出自の仕方からして、「鉄を生む火の姫」として登場していたことが見えてくることになる。事実、物語のハイライトで、求婚にやってくる殿方に言いつける難題も、、「石作」や「白銀の根を持つ枝」や「火鼠の皮」や「竜の首の珠」や「燕の子安貝」など、「鍛冶」でできるようなものばかりになっているのであるが、そのことの意味も、そこからはじめて見えてくることになる。「燕の子安貝」も、「ホト(火処)」に関わるものなのであろう。

  そういうふうにみれば、「かぐや姫」の本性は、ただの「光る姫」というだけではなく「火の姫」という側面を持ち、その火も「鉄を生む特別な鍛冶の火の姫」としての性質を持っていたところが見えてくる。そして実は「かぐや姫」の「罪」の問題というのも、この「鍛冶の火」に関わるものであったことも見えてくることになる。

  つまり、この「かぐや姫」の「罪」の問題というのは、「鍛冶の火」が「武器」を作る「火」になっていたところの問題である。そしてこの物語が、単なる昔話に収まらずに「日本の名作」になるのは、この「かぐや姫」の話が、「鍛冶の火」を欲しがる私たちの「罪」の問題になっていたからである。そこのところを理解することがとても大事なのだと私は思う。


    「かぐや姫」が「罪」として現れる理由

 「鉄」を生み出す「鍛冶の火」を手に入れた人類は、鉄の文明を築くとともに、大量殺戮を生む鉄の武器を生みだし、その「鍛冶の火」の極限に「原子力の火」を生んできた経過がある。この最初の「鍛冶の神」が日本では「アマテラス」であり、その「アマテラス」が「光の神」とすり替えられることで、「光る神」の信仰が、多くの鉄の戦争を支える原動力にもなってきたことを見えなくさせてきていた。その鉄を生む「鍛冶の火」の極限に「原子力の火」が作り出されてきたわけで、アマテラスの問題は、じつは原子力の問題につながっていたのである。そのことについては、私はすでに先述した私の古事記論の中でで明らかにしているが、「かぐや姫」の最後の場面は、そういう視点をよく意識させるものになっていて、とても興味深いものだ。

 というのも、この「かぐや姫の光」(それは小さなアマテラスの光なのである)が、その背後に「武力」を隠し持っていることが、最後の場面を見るとよくわかるようになっているからだ。その場面では、かぐや姫を地上に留めおこうとして、竹取の翁が兵士を配置させるのだが、夜にもかかわらず「あたりは昼の明るさ以上になって」、兵士の弓矢は役に立たなくなる。こういう「昼間以上の閃光」に見舞われた場面をわたしたちは広島と長崎の歴史の中で知っているのだが、それは地上の一切の武力が無化される光景である。もちろんこの「天空の光」を、原子爆弾の光と同じと見なすのは馬鹿げているが、「恐ろしい光」を放っているとことは見のがしてはいけないところだと私は思っている。そういう恐ろしい「光の力」を持った姫とその一族が、自分の力を天皇にも預けないで、地上に留めておかないように計らうのが、物語の最後の場面になっているのである。

 人情的に受け止めれば悲しい別れの場面であるが、『竹取物語』の作者は、もっと違うとこを見据えていたと私には思われる。結局、古事記は「鍛冶の火」として生まれている「アマテラス」の「罪」を明らかにさせないように仕組まれてゆく物語なのであるが、『竹取物語』の「小さなアマテラス=かぐや姫」は、「罪」を負ったものとしてきちんと登場することになっている。なんという聡明な発想の物語が構想されたものだと驚かないわけにはゆかない。しかしこのかぐや姫の背負っている「罪」は、くり返して言えば、「鍛冶の火」を欲しがる私たちの「罪」でもあるもので、その「罪の正体」を考えようとさせるところにこの物語の存在する優れた位置があったと考えるべきなのである。そういう位置をもった作品の重要性を、誰よりも鋭く直感されていたのが高畑勲監督ではなかったかと私は思う。高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の最後は、その直感に十分に交応するものにはなっていない。というのも、映画では、「天」から降りてくる「かぐや姫」の一族は、まるで仏の「後光」のような光を放ちながら降りてくるように描かれているからである。そういう風に描くと、翁の屋敷を守る武士たちは、「仏の後光」に武力を削がれてしまったというなってしまうのである。そういうふうにしてしまうと、この「光る姫」の「光る」意味を問うてきたことが、意味を成さなくなってしまうのである。つまり「光る」ことの裏には「火」の問題があり、「火」の問題の裏には、武器や武力の問題があり、それが「罪」の問題につながっているのだという問題意識である。

(ちなみ言えば、ジブリ作品の中で、かぐや姫のように「光る存在」が描かれるのは『もののけ姫』の「シシ神」である。そしてこの「神」も、最後には「鍛冶の頭領=エボシ御前」と対峙することになる。こうした、似たテーマを持つ二つの作品の比較は、別なお楽しみであろう。)

  6 竹・空洞・誕生

 

  かぐや姫と羽衣伝説の相似が早くから指摘されている。(大林太良・谷川健一対談 「羽衣・天女・白鳥」『ユイイカ 特集妖怪学入門1984.8』)。

 ここで羽衣伝説と鉄の話をどう結びつけたら良いのか。柴田弘武『風と火の古代史』に「丹後の天女伝説」の章があり、谷川健一の「羽衣伝説が産鉄に関係がある」という講演をしていたことを知る。「天女は産鉄母神だった」のか。柴田弘武氏や谷川健一氏が言う「天女が通った道は製鉄の道」という道が、丹後の竹野川にある、という意味は何か。

 天女が白鳥だとしたら、天女の降りた地域は産鉄の場であったことが分かる。

竹取物語では、羽衣を着ると、地上の記憶がなくなることが書かれている。

  竹という「なか=空洞」をもつものは、まさに「さなき」である。さなきという金属の子宮に、光る姫が宿る。火の神・鉄の神である。賤しい者のところに生まれる。天之日矛と同じパターン。賤しい者の手に預けられ、それを高貴のものが取り上げる。

 竹と高は同根という。白川静。三品彰英説に中国ー朝鮮と竹の信仰が渡ってきた。

  もう一つ大事な資料に、篠田知和基『竜蛇神と機織姫』がある。機織、羽衣と鉄の関わりがわかりにくく書かれている。

  どうしたら天女と羽衣と機織と湖と産鉄が関わるのか。 天に帰れずに地上にいる話と、産鉄の関係はどこにあるのか。

  火の神が、鍛冶の神として地上にいるのは良いとして、その力が権力者に渡るとき、恐ろしい力を発揮する。その火の力を封印するために、力の源がやってくる。その力がいかほどのものであるか、最後に示される。地上のすべての武力が無になるような光りによってである。それはアニメでは「仏の光」りのように見せているが、そうではない。実際は武力に対する武力で、原子爆弾のような光りである。