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   「かぐや姫」の罪について
(その1)

                                                         村瀬 学


    「かぐや姫」ーこの日本独特の物語を

   高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を観終わると、♪まわれ、まわれ、まわれ。水車、まわれ♪というわらべ唄が、なぜかいつまでも口について出てくる。作品は、原作に忠実にという監督の初心がよく貫かれて、そこに独特なオリジナルな部分が付け加えられ出来上がっている。かつて、日本の子どもたちは、西洋の児童文学をアニメ化させた「ハイジ」を皮切りに、「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「小公女セーラ」と続く「子ども名作劇場」を観ていた時代があった。そういう時代に育った子どもたちは、日本の「名作」などは「日本まんが昔話」という15分もので観るしかなかった。この力の入れ用の差を、当時は誰も不思議には思わなかったものだ。日本の昔話と違って西洋の原作は長いのだから、連続した番組にしやすかったのだと思われていたかもしれないが、それは違います。「母をたずねて三千里」の原作などは、ものすごく短いものなのに、それを1年間の脚本に引き延ばしていたからだ。要は原作の長さではなく、「西洋の物語」の方が、日本の子どもたちに受けると判断されていた時代があったということなのだ。

  そして2013年になって、ようやく「竹取物語」が「原作に忠実に」という意図の元に作られることになった。この「原作に忠実に」というところがとても大事だと思う。高畑監督は、特にそのことを意識し、映画のパンフレットでも強調されている。その意図が成功しているかどうかは観た人の判断によるだろうが、少なくともそういう意図でもってこの映画が作られたことは、注意しておかなくてはいけないと思う。だから、もしそういう所が大事な所なのだとしたら、監督の創造性や独創性やオリジナリティーを疑問視する人も出てくるかも知れない。ここではそういう「議論」にはかかわらないが、ただ私が素直な感想として思ったことは、これからの日本の子どもたちは、掛け値無しに日本の名作をじっくりと1時間半かけて観ることができる作品を手に入れたという実感だった。

  それも、日本の「名作中の名作」を「原作に忠実」に映像で観ることができるようになったといううれしい実感だ。このことの持つ意味は、大変に大きいと私は思う。むしろ大きすぎるものを子どもたちは手に入れることができたと私は思う。だから、おそらくこの「日本の名作中の名作」を、これからの日本の子どもたちは、学校の推薦などを受けながら、子ども時代に必ず一度は観ることになると思われるし、「日本の名作」は?とたずねられて、「かぐや姫」と日本中の子どもたちが答える日がやってくる。かつては名作と言えば「ハイジ」とか、ディズニーの「シンデレラ」というふうにしか答えられなかった日本の子どもたちが、「かぐや姫」を知っていることになるというのは、やはり「大きなもの」を手に入れたということになると私は感じている。


 
  かぐや姫の「謎」に挑む

 もちろん『かぐや姫の物語』から「大きいもの手に入れた」のは、子どもたちだけではない。この映画を観た日本の大人たちも、実はある「大きなもの」に直面することができていた。その「大きなもの」とは、二つの「謎」である。一つは、「光る存在」としてのかぐや姫の「謎」である。もう一つは、そのかぐや姫が「罪」を犯して竹取の翁のところにやってきたというせっていの「謎」だ。この二つの「謎」が気になって観客は、映画のどこかでこの「謎」が解き明かされるのではないかと期待して観ている。だが、残念ながら映画が終わっても、その「謎」が解き明かされたようには感じられない。そこが大事なところである。謎解きは観客にゆだねられて終わっているのである。これも「原作通り」である。

 もちろん、高畑監督なりに、後で触れるように、その「謎」の解明への糸口を残しておこうとはされている。それでも観客は「謎が解けた」とは感じなかっただろうと思われる。それはやはり「原作」がそうなっており、「原作」に忠実に描こうとすればそうならざるを得ないところがあったので、監督としてはきっとはっきりした「謎解き」をしてはいけないと思っておられたからかも知れない。

 しかし、その「謎」を考えさせるのが実は『竹取物語』のテーマであり、この映画を観たものに残される「大きなもの」だったのだと私は思う。というのも、この映画を観た人は必ず問うことになるからだ。かぐや姫はなぜ光っていたのか、なぜ竹の中にいたのか、なぜその竹藪に「黄金」があったのか・・と。そして、最後の方で唐突に出てくる「月で罪を犯して地上にやってきた」というかぐや姫自身の「説明」の不可解さ。えっ、あの「光る姫」が「月」で一体どんな悪いことをしたの?という驚きと疑問と興味。子どもたちも気になるし、大人たちもきっと知りたいと思うことになるはずだ。そういう問いの前に立たせること自体が、実は『かぐや姫の物語』を観ることの大きな意味になっていることを、高畑監督もよくおわかりだったと思う。というのも、こうした「かぐや姫」の抱える「謎」を問うことは、実は「日本」というものの「謎」を問うことに真っ直ぐにつながっているところがあったからだ。


    「光るもの」の出現

 それはどういうことかというと、「日本」という「文化」の根幹を支えるものに、「光るもの」がいたからだ。その一番大きな「光るもの」は「アマテラス」である。この「光るもの=アマテラス」の存在を使って、日本の文化的統一、軍事的な統一がなされてきたことは、特に明治維新以降の日本の歴史をたどってみればわかるところがあるはずだ。近代の歴史の中では「光るもの」は想像以上に大きな役割を果たしてきている。しかし、この「光るもの」が「なぜ光るのか」と問うことは、戦時中の軍国主義の風潮の中では許されないことでもあった。「アマテラス」は最初から「光る神」であり、「太陽」のような「絶対光源」として光っていて、それを疑うようなことはとうてい許されないことだった。しかし、「アマテラス」は本当に「太陽のように光っていたのか」と問うことができる時代がやってきた。

 そして、この「アマテラス」のように「光るもの」として、その次に現れるのが実はこの「かぐや姫」だったのである。かぐや姫は「小さなアマテラス」のように存在しているところが見られるからだ。だから私たちは、「なぜかぐや姫は光っているのか」と問う必要もでてくる。その問いの答えを知りたいと思う人は、結局は「アマテラス」の光り方を問うことにもつながり、それは日本の文化の根本にある「古事記」と向かい合うことにもつながってゆく。

 そういう意味で、かぐや姫の「謎」に向かい合う日本の子どもたち(私たちも含めてだが)は、実は日本の根源に向かい合うことになっていて、高畑監督の仕事の射程は実はそこまで届いているので、私は「大きすぎるもの」に直面していると書かなくてはならなかったのである。

  そのことを踏まえて、ここで少し「アマテラス」のことに触れておきたいと思う。「アマテラス」は元々は「火の神」であり、「火」である限りは「灯りの神」なのだが、その「灯りの神」が「世を照らす太陽の神」のように演出されてゆくのが古事記の特徴である。(このことについては、私はすでに『徹底検証 古事記』『古事記の根源へ』で明らかにしている)。この「火」が、古代の歴史に中で「罪」になるときがやってくる。それは「火」が「灯りの火」ではなく、「鉄を溶かす鍛冶の火」となる時である。そういう意味で、「アマテラス」が、古代の歴史の中で絶大な権力を手にしていくのは、「灯り」のような「光る神」であったからではなく、「鉄を溶かす火の神」として「金属の鏡の光」を手に入れる神になる過程が演出されていったからである。そして「鉄を作る火の神」は同時に「武器」を生む神にもなり、それが戦いで多くの屍を作る「罪」をも生み出すことになっていった。(つづく)