トップページへ(クリック

 本書は、『獄窓記』の著者による第二作目のノンフィクションである。以下、書評と呼ぶにはいささか紆余曲折を経たものとなっているが、お許し願いたい。

 人が「障害」を持つ人びとや彼らをとりまく問題とどのように出会うかは、千差万別である。またどうその課題を担おうとするのかも、人それぞれである。本書の著者山本譲司がきわめてユニークなのは、受刑という特異な状況のなかで彼らに出会ったことであり、また互いに受刑囚であるという、掛け値なしに裸形の人間として、いきなり体ごと出会ったことである。山本氏以前にも無数の受刑者がおり、そのなかには文筆家や知識人もいたはずである。しかしそこに「障害者」を“発見”するには、山本氏を待たなくてはならなかった。なぜそれが他の誰でもなく、山本氏でなくてはならなかったのか。

 前著『獄窓記』は「塀の中の障害者」という事実の衝撃性で、多くの耳目を集めた。しかし評者にとって興味深かったのは、何よりも「自己発見の書」となっていることであった。氏は出所後の、先行きの見えない不安のなかで受刑体験を振り返る、という目的で『獄窓記』を書き始める。書き始めた時には、「塀のなかにいる障害者」が、その後の自分の人生にとってどれほど大きな意味をもつか、おそらくは考えていなかったのではないだろうか。振り返り、記述し、再び内省し、記述する、というプロセスのなかで、「塀の中にいる障害者」が自身にとっていかに大きな意味をもっていたか、少しずつ確認していったはずである。

 「塀の中の障害者」の発見とは、自分自身の発見でもある。これからの人生において、何を目標として生きていくことができるのかという発見。そしてここでの「自己発見」とは、言うまでもなく贖罪感情の深まりと同義である。

 このような「自己発見」のプロセスが如実に刻まれていることが、評者にはこの上なく興味深いことに思われた。



 本書『累犯障害者』の最初の特徴は、そのようにして半ば偶然与えられた「自己発見」が単なる自分自身のためのものではなく、社会的責務という必然に転化していることをはっきりと刻んでいることだ。むろん著者自らが、この仕事は自分の社会的使命だなどと、声を大きくして述べているわけでない。行間にみなぎる息遣いや、著作全体を貫く気迫から読み取った評者の感想である。しかし『獄窓記』における発見がいかほどのものだったか、ただの驚きや一時期のヒューマンな感傷ではなかったことを、本書自らが証明している。そのような書物となっているのである。

 このことは次のように言い換えることができる。本書の二つ目の特徴は、いわゆるジャーナリストやル・ポライターが、第三者的に“社会問題”を取材するように「障害者の犯罪」を取材し、元受刑者を訪ね歩いて書かれる、といったリポートとは明らかに異なっている点である。ここにはもっと切迫した“動機”を感じさせるものがある。

 本書を一読すると、氏の取材力や情報収集力に驚き、多くの元受刑者の安否を訪ね歩くその行動力に感銘を受けるが、それは取材とか調査という言葉を越えたものを感じさせるのだ。「犯罪を犯す障害者」、出所後の福祉支援から零れ落ち、再び刑務所に舞い戻る「障害者」とは、著者にとっては単なる第三者ではない。福祉支援にさえ乗せることができれば一件落着、と言ってすむような存在ではない。ここには山本氏に特有の、他の誰も持つことのできない、或る“身体感覚”といったものが存在する。それをあえて言葉にするならば、自分と受刑体験をともにした同志への、連帯意識(身体的つながりの感覚)とでも呼びたいものがそこにはある。

 しかしまた、次のことも忘れてはならないだろう。著者は本文中、元受刑囚同士ゆえに気心が知れることがある、と屈託なく書いているが、そこには当事者にしか分からない、複雑な心情が込められているはずである。“元受刑囚”というスティグマは、終生、どうしても消すことができないものだからだ。彼らを訪ね歩く情熱が単なる取材という枠を超えているのは、それが山本氏にとっては自身が犯したことへの贖罪行為という意味をもつからであり、そうやって生まれる陰翳が、この著作をユニークで、単なるリポートに終わらないものにしているのだと思う。



 もう一つ触れておきたいことがある。本書はまたどの章をとっても、優に一冊分となる重い主題を扱っている。福祉行政とアンダーグランドの、持ちつ持たれつの癒着構造と、明らかな誤認逮捕にさえ自らの非を認めない警察と検察の体質(第二章)、売春と知的な遅れをもつ女性との悲しい関係(第三章)、ろうあ者ならではのコミュニケーションの難しさがもたらす社会的ハンディと、彼らに聴者であることを強いて気づかない私たちの社会(第四章、第五章)。読者によっては、一つ一つの主題をもっと深く掘り下げてほしかった、と感じる向きもあろうかと思う。

 しかし評者の見るところ、山本氏の最大の眼目は最終章にある。障害を持つ人びとの犯罪と、彼らをとりまく福祉や社会の諸矛盾を抉り出すだけではなく、そうした現状の中、ではどうすれば制度の現実的改変が可能なのか、という点こそが訴えの主眼であり、山本氏が最も力量を発揮する場所である。そして実際にその役割を山本氏は担っている。

 厚生労働省による福祉行政も、法務省による矯正教育も、現在、大きく変わろうとしている。制度の改変が新たな矛盾を抱えることになるのは避けられない。どこかを直せば、別のどかにひずみが現われる。制度の改変とはそのようなものだ。安定を見るまでには十年に近い歳月を要するだろうが、こうしたなかでどのような戦いを氏は見せるのか、その記録を次作では是非とも読みたいと思う。ひょっとしたら山本氏は制度の中枢に腰をすえることのできる、新しいタイプの社会活動家としての軌跡を見せてくれるのではないか。本書はそのような期待を感じさせる一著となっている。


山本譲司著『累犯障害者』(新潮社)