「責任能力」の現場における混乱?
しかし問題はここに留まらない。「責任能力」の有無の判断は、インタビューにおける芳永克彦氏や、先の論文における滝川氏も指摘しているように、きわめて高度な司法判断(のはず)である。しかし記事を読む限り、その判断の所在は曖昧である。記事中の、現職検事や元検事の弁護士の発言を引く。「責任能力があれば、重大事件であろうが小さな事件であろうが起訴する。しかし起訴前に行う精神鑑定で『責任能力なし』との結果が出たら起訴できない。我々は精神医療の専門家じゃない。医師の判断を覆すことなんてできない」
と、書かれている。ここにいたって「責任能力」という概念は混乱する。いや、記事を書いた記者の勘違いでなければ、この発言をした現職検事や弁護士は、故意に、「責任能力」の判断の所在を、精神科医に転嫁していると考えざるを得ない。まさか現職の検察官が、「責任能力」の何であるかを取り違え、その判断を精神科医がするものだと考えているとは思えないからだ。精神障害犯罪者の処遇をめぐる二重構造の弊害が、このもっとも肝心の現場中の現場において端的に現われてくる。
「責任能力」とはある水準においてはきわめて抽象的な理念である。芳永氏の言うところを引く。
《抽象的に言えば、ものごとの善悪の判断ができるかできないかが一つ。その判断にしたがって自分の行動を律することが出来るかどうかが一つ。》
一般論としてはそのようなものだと私も納得する。ちなみに、六月二八日、幼女連続殺人事件の控訴審の判決が下されたが、その判決文の要旨では次のように書かれていた。
《第二、責任能力に関する事実誤認の主張について
1原判決による被告人の責任能力の判断方法について
被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失または心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって、専ら裁判所にゆだねられるべき問題である。その前提となる生物学的、心理学的要素も、その法律判断との関係で究極的には裁判所の評価にゆだねられるべき問題というべきである。/原判決の認定判断は、各犯行ないし被告人の生活状況などにおける被告人の行動そのものに了解可能性や被告人の異常もしくは病的な精神状態があるかどうかについてのものである。/このような認定判断は、精神障害の種類や程度などに関する精神医学上の診断ではなく、生物学的要素にその是非弁別能力や行動制御能力に与える影響という心理学的要素を総合して行う規範的評価としての被告人の責任能力を判断するために、その前提として関係証拠および経験則に従って行われるものである。/換言すれば、この認定は裁判所の評価にゆだねられ、精神医学の専門家による事実評価に関する意見に依拠する必要のない判断ということができる。/原判決による被告人の責任能力の判断方法に誤りはない。》(産経新聞六月二九日朝刊。なお讀賣新聞の判決要旨ではこの項は省略されており、朝日新聞は要旨自体が掲載されていない)。
長々と引用したのは、宮崎容疑者に対して精神鑑定の結果を斥けた判断の妥当性を問いたいのではなく、「責任能力」があくまでも裁判所における判断であることを強調していることによる。生物学的、心理学的要素も裁判所にゆだねられ、精神医学の事実評価に依拠する必要がないと明言されている。従って再度引くが、「しかし起訴前に行う精神鑑定で『責任能力なし』との結果が出たら起訴できない。我々は精神医療の専門家じゃない。医師の判断を覆すことなんてできない」と述べる現職検事の発言は、故意の誤用か、責任能力の何であるかの履き違えか、記者の書き誤りだということになる。
起訴以前の捜査段階とはルーティンワークである。犯罪被疑者の取り調べという重大な職務を決して軽んじているのではない。私は自分の体験を参考に考えるしかないが、いかに高邁な教育理念を持っていたとしても、日々の教育実践は、小さなこと、卑近なことの積み重ねによるルーティンワークである。そしてルーティンワークだといったからとしても、決して教育という仕事を軽んじているわけではない。どんな仕事にあっても、日々の職務は小さなことの積み重ねからなるということを言いたいのである。
その意味で「責任能力」という高度な理念も、ルーティンワークにあっては、「医者の診断→精神障害→責任能力なし」というように、短絡的操作的な扱いを受ける事態は、十分に考えられる。仕方がないといっているのではない。十分にあり得ることだと言っているのである。鑑定を下す精神科医においても事情は同じである。精神の病状に対し自分なりの判断基準をもち、その基準で責任能力の「ある・なし」を操作的・マニュアル的に決定していくことは予測できる。いかに高度な理念であろうと、いや理念が高度であればあるほど、その表現は、現場においては操作的になる危険を孕む。
しかしもし万が一「責任能力」に関して、起訴以前の、現場中の現場である検察捜査段階にあって、検察と鑑定医双方になんらかの履き違えがあるならば、それは重大な疑義を生むことになる。
なぜなら宅間容疑者が「自分は何をやっても無罪になる。なぜなら精神病だからだ」と言ってはばからなかった愚かな論理を、検察自らが裏付けていることになるからである。
「責任能力」とは何か、と問うために
「責任能力とは何か」などという問いは、分かりきったことをわざと混乱させる観念の遊びの類いである、と言われるだろうか。しかし、もう一度私のモチーフを確認しよう。
池田小の事件の容疑者は、精神障害の治療中であり、薬を大量に飲んで犯行に及んだ、という第一報の後、「なんであんなヤツを野放しにしておくのか」という「声」が、報道のそちこちから沸き起こった。詐病の疑いが大きくなったとは言え、首相発言とともに、精神障害犯罪者の処遇をめぐる法的な整備の動きが具体化しはじめた。「あんなヤツ」とは「責任能力」のない者、法の裁きを受けない者の謂いである。私は知的障害を持つ子どもたちの教員を続けてきたが、彼らの多くもまた「責任能力」がない、または疑わしいとされるだろう。つまり彼らもまた何か事が起きたときには「なんで野放しにしておくのか」と言われかねない存在である。そのことへの異義申し立てが、私を動かした初発のモチーフであった。もうひとつ私の脳裏にあったのは、レッサーパンダ帽の山口容疑者であった。
実は、「責任能力」なることばに、あれっ、と思ったのは、滝川氏へのインタビュー集を編んでいるときまでさかのぼる。インタビューのなかで、「責任能力がないとされるのは、分裂病と、それから?」という私の問いに滝川氏は、分裂病は病状にもよるが、まあそうだろうと答えた後、
《責任能力という概念自体、わかりづらくて、少なくともわたし自身恥ずかしながら消化できていません。ですから、なるべくこのことばなしに考えてみましょう》
と答えられた。私はきわめて意外な感じを受けた。実はこの時点で、重度の精神障害及び知的障害=責任能力なし。一四歳未満のものも年齢ゆえに責任能力なし、ときわめて単純に考えていた。そして池田小の事件である。宅間容疑者は、その短絡した図式を転倒させ、責任能力なし=無罪になるためには精神障害者になりおおせればいいと考えた。
こうした経緯の中で、「責任能力とは何か」という問いが、私のなかで大きくなっていった。そしてインタビューにおいて芳永氏は、一般論として、先のような説明をされ、さらに実際の適用の可否はどのような判断に基づくのか、個別の事例によるのかという私の問いに、《しかし、それを実際に適用するということは、きわめて難しい。何か明確な基準があるというものではないですからね。》と述べるに留まり、それ以上は言及されていない。
「責任能力」なる語は、明瞭なものとして流布している。おそらく一般の多くの人は疑わないのではないだろうか。しかし、精神科医の滝川氏は「消化できていない」と言い、弁護士の芳永氏は「難しい」と言われる。確かに「ならば責任能力とは何か」と問うと、ある分かり難さが生じてくる。しかし私の問いは、司法概念として分かりにくく、その分かりにくさを明らかにしたいということとは、少し違っている。しかし、ここから先をどのように考え進めたらよいだろうか。
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ここで少しばかり整理してみたい。
・「責任能力」の「責任」とは、いうまでもなく刑事責任である。したがって、責任一般よりも、その概念は限定的である。
・「責任能力」なる語は、刑法には出てこない。刑法は、次のような条文によるものである。
《「第七章 犯罪の不成立お呼び刑の減免」
「(心神喪失及び心神耗弱)
第三九条 心神喪失者の行為は罰しない。2心神耗弱者の行為は、その刑を減免する。」》
これだけの条文である。第七章の、犯罪の不成立と減免にあたるほかの項目は、「正当行為、正当防衛、緊急避難、故意、責任年齢、自首等」となっている。「心神喪失」や「心神耗弱」のなんであるかは、刑法を読むかぎりでは明記されていない。
・もう一方の「精神保健福祉法」をひもといてみても(正確には「精神保健及び精神異常者福祉に関する法律」)、やはり「責任能力」ということばはどこにも明記されていない。
・一般的抽象的に問うていっても、おそらく先の芳永氏の答え以上のものを導き出すことは考えにくい。確かに司法理論の著書をひもとけば、責任の認定の所在から始まり、その本質について書かれている。そして「責任能力」なるものの意義や「責任能力」と責任との関係、責任能力の存在をどこに見とめるか(実行行為時か原因行為時かなど)。あるいは「責任無能力」の概念について等々、詳細な理論が書かれている。しかしそれを理解し、納得したとしても、おそらく私の疑問は氷解しない。
・あるいは「責任能力」とは、刑事事件の現場にある検察官や、法廷における裁判官が、具体的個別的事情、罪の重大さと社会的影響力を鑑みながら、その有無を判断するという実践のなかにしか答えはない。あるいは個別事情を腑分けして、その有無を導いていく実践そのものが答えなのだと言ってもいい。
・もう一つ言えることは、「責任能力」が社会問題として顕在化するときとは、それが疑わしいときと、そこに矛盾を感じるときである。(ここで言う矛盾とは、言うまでもなく少年法の対象となっているものを指している。断りを入れておくなら、矛盾を感じる主体は私ではなく、あくまでも一般論として言っている。)
・「責任能力」が認められ、法の前に立つとは、法が前提とする近代的個人として認められることであり、法の裁きを正当に受けることは人としての権利を十全に確保することである。逆の場合はどうか。精神障害者の声として、もし犯罪を犯した場合は、法のもとでしっかりと裁かれたいと願う声が、ときに報じられる。むろん病態の程度によるだろうが、この声には納得できるものがある。
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