トップページへ
犯罪論(3)
 
09・04・18更新
「責任能力」とは何か(その2)
飢餓陣営22号(01年8月発行)掲載

 以下、前回の続きです。

起訴前鑑定の問題 
 左の図は朝日新聞よりの転用であるが(略)、精神鑑定は捜査段階における起訴前鑑定と、裁判における精神鑑定の二通りがある。私は、新聞報道からの印象として、精神鑑定がやや濫用されていないかという危惧を訴えてきた(滝川一廣へのインタビュー集『「こころ」はどこで壊れるか』―洋泉社・新書y―。小浜逸郎・櫻田淳対談集『「弱者」という呪縛』―PHP―)。しかし、今回池田小事件の報道を追いながら、それにもまして、起訴前鑑定の問題こそ重要ではないか、と考えるようになった。

 朝日新聞では、「捜査段階で心神喪失などと判断された人の9割が不起訴処分になっている」(七月五日朝刊)と、9割という数字を上げている。また本誌の論考において、滝川一廣は八六年から九〇年の五年間のデータとして、殺人容疑者七三〇〇人、精神障害を疑われ起訴前鑑定を受けた者約八〇〇人、うち六九〇人心神喪失として不起訴という数を上げているから、朝日新聞の9割という数もほぼ妥当だと言える。

 問題は、この九割近い数をどう考えるか、その内容の妥当性がどこまで検証できるかである。滝川氏は起訴前鑑定のメリット、デメリットを精神科医の観点から冷静に検討しつつ、「判断基準や妥当性を十分検証できるだけの資料がほしい」と結んでいるが、私も同様である。しかしこの朝日新聞の記事を読みすすめているうちに、いくつかのことが気になりだした。率直に言うならば、この起訴前鑑定は相当な問題を含んでいるというのがシロウト判断であった。

 この問題は、実は滝川氏へのインタビュー集『「こころ」はどこで壊れるか』でも取り上げられている。私は自分の不勉強を率直にサラすが、この時点で起訴前鑑定と本鑑定の区別も明瞭でないまま、精神鑑定=不起訴処分=無罪放免というのはおかしいのではないかという漠然とした疑義が、そこでの質問の意図であった。

 滝川氏はその図式自体がおかしいこと、鑑定の判断と司法の判断は必ずしも重ならないこと、起訴以前の段階ですでに病状が疑われる者は鑑定にかけられること、そして九割近い数が不起訴となっているが、不起訴となっても無罪放免ではなく、措置入院という処遇におかれること、裁判で改めて心神喪失が問われるのは微妙なケースでむしろ例外であることなど、基本的に踏まえるべき見解を述べておられる。そのとき私は、なるほどと思って九割という数を受け留めている。

 起訴前鑑定は、簡易鑑定と正式鑑定に分かれる、と図にある。池田小事件の宅間容疑者は正式鑑定を受けることが決定し、拘置所に移送されたわけだが、およそ三ヶ月ほどの期間を要する、と産経新聞において報じられていた(七月九日)。しかし簡易鑑定は、長くても一時間程度の一回の診察で結論を出すと朝日新聞の記事にはある(「産経新聞」では三時間程度、となっている)。そして費用が、簡易鑑定の場合は三万円、正式鑑定の場合は五〇万から八〇万円ほどかかり、そのため、「起訴前鑑定のほとんどは簡易鑑定だ」と書かれている。その「ほとんど」とはどれくらいの割合を占めるのか。またそれを裏付ける資料があるのかなど、留保は必要だが、単に時間と予算の理由だけによって簡易鑑定で済まされているのだとしたら、いったい私たちの誰が納得できるだろうか。それが一点目である。

 なぜ簡易鑑定が過半であることに不安を覚えるのかが次の疑問となる。それは、一時間(から三時間)程度の診察でどこまで精度の高い鑑定となるかという問題である。それがいかに無理な作業であるかは、多くの精神科医の指摘するところであった。また先のインタビュー集において、滝川氏は次のように答えている。

《取調べ段階で鑑定がなされるのは、犯行状況や本人の様子からシロウト目にも病気のせいかもしれないと疑われたケースですね。念のために少し大きめに編みが掛けられ、精神科医が鑑定で絞り込んでたしかに心神喪失としたものが刑法の対象から外される仕組みでしょうね》

 私はこの時点では、なるほどそういう仕組みなのかと感じて聞いている。おそらく基本的にはそのようなものだと思われる。そしてそのように機能していることを願う。しかし記事はさらに、ワープロで簡便な書状を作り、日時、固有名詞、病状を書き換えるだけの鑑定書が使用された例があること。心神喪失を精神病の診断のみで判断している医師が相当数いること。一人の医師が独占的に行なっていた鑑定を、三十人が輪番で行なうようにしたところ、「責任能力あり」の鑑定が六割に増えたこと等、簡易鑑定がきわめて安易に行なわれているのではないかと疑問視されている。

 滝川氏は、精神科医のなす診断を手術に、精神鑑定を死体解剖になぞらえて、診断と鑑定とはまったく異なる作業である旨を次のように説明された。

《鑑定は治療行為ではなく、鑑定の結果、治療が必要ということはあっても、それは結果で鑑定行為そのものは治療を直接目的とはしていません。司法鑑定を進めてゆけば、治療からは遠ざかりますね。逆に治療的な目的意識を持って関わったら鑑定はできないと思います。たとえて言えば、解剖と手術とは違いますでしょう。鑑定は、なぞらえればこころの司法解剖なわけです。鑑定とはこの人はこういう病態なのだとできるだけ明示してゆくのが仕事、治療とはその人を現にある病態からできるだけ遠ざけてゆくのが仕事です。》

 福島章の『精神鑑定』(講談社ブルーバックス)によれば、起訴後の正式鑑定は、本人や家族への面接、数種の心理テスト、MRIやCTによる神経生理学的、脳医学的な検査などで、その資料は膨大なものになるという。おそらく簡易鑑定にあっては、犯罪調書の検討と面接だけによるだろうと推測される。滝川氏は先の論文で「ルーティンワーク」なる語を使用し、措置入院と起訴前鑑定について、そこからさらに踏み込んだ議論の展開となっている。病態が明らかな場合はまだしも、その認定が微妙な場合、たかだか数時間の面接で、どこまで認定できるかと私は危惧する。まして精神鑑定とは、基本的に病状を定めていくための作業である。仮に、検察もなるべく不起訴にしたいという「本音」を持っているのだとしたら、鑑定がどのような方向に進みがちかは予測できる。この問題が二点目。

 さらに三点目。朝日新聞の記事中、起訴前鑑定の段階で、容疑者が、「責任能力なし」という診断が出るまで病院をたらい回しにするなどの事実があり、「検察は有罪率を高めるため、公判維持できそうにない患者は不起訴=措置入院に持っていきたい意向が働くようにみえる」と、ある精神科医の発言として書かれている。(産経新聞も同様に「検察は高い有罪率を維持するために起訴しないのではないか」と記している。七月一日朝刊「凶行は防げなかったか」)。こうした、面倒な容疑者は病院に押しつけたがっているという不満は、他のところでもいくつか散見できた。驚いている私がうぶなだけであり、事情通からすればここに引いた例など氷山の一角にすぎず、かなり杜撰な簡易鑑定が行われている、それが不起訴九割という数字だ、と言うだろうか。

 物事は光の当てかた次第で、まったく別の様相を見せることがある。起訴前の簡易鑑定の過半がそれなりに機能しており、むしろごく少数の例をこの記事が取り上げているのだ、ということも考えられる。どんな事態にも完全などはあり得ず、捜査に当たる検察官にも鑑定する精神科医にも、与えられた職務を地道に、着実にこなして行くものもいれば、できるだけ手抜きをしながら辻褄を合わせようとするものもいるだろう。現段階において、私にはそれを判断する材料はない。滝川氏が示してくれたようなかたちで、それなりに順当に機能していることを願うしかないが、氏の今回の論にあっても、起訴前鑑定が問題としてせり出していることがうかがえる。

 起訴前鑑定がズサンなものとなれば、何よりも被害者とその家族は浮かばれまい。不起訴になった事後の情報がまったく与えられない現行の制度の中で、もし記事のような事態がまかり通っているとしたら、それは被害者が二度被害を受けていることにほかならないだろう。最初は加害者によって。二度目は捜査に当たった検察官と鑑定医によって。

 なぜこの起訴前鑑定を重く見るかと言えば、池田小事件の宅間容疑者が、それ以前の犯行における捜査段階での判断がもし簡易鑑定ではなく、正式な精神鑑定を受けていたら、と無念さを覚えるからだ。繰り返すが、私は朝日新聞の記事をもとに書いており、即断や予断は避けなくてはならない。しかし池田小事件は、措置解除をした精神科医個人に責任が帰せられる問題ではなく、ひとつには措置解除の判断が医師一名に任されているという制度の問題であり、もうひとつは措置入院後の医療的ケアという精神医療の全体にかかわる問題である。

 しかし私には、起訴前鑑定のあり方にも多くの問題が潜んでいるように思えてならない。それはもっと検討される必要がある。 

「責任能力」の現場における混乱?  
 しかし問題はここに留まらない。「責任能力」の有無の判断は、インタビューにおける芳永克彦氏や、先の論文における滝川氏も指摘しているように、きわめて高度な司法判断(のはず)である。しかし記事を読む限り、その判断の所在は曖昧である。記事中の、現職検事や元検事の弁護士の発言を引く。

「責任能力があれば、重大事件であろうが小さな事件であろうが起訴する。しかし起訴前に行う精神鑑定で『責任能力なし』との結果が出たら起訴できない。我々は精神医療の専門家じゃない。医師の判断を覆すことなんてできない」

 と、書かれている。ここにいたって「責任能力」という概念は混乱する。いや、記事を書いた記者の勘違いでなければ、この発言をした現職検事や弁護士は、故意に、「責任能力」の判断の所在を、精神科医に転嫁していると考えざるを得ない。まさか現職の検察官が、「責任能力」の何であるかを取り違え、その判断を精神科医がするものだと考えているとは思えないからだ。精神障害犯罪者の処遇をめぐる二重構造の弊害が、このもっとも肝心の現場中の現場において端的に現われてくる。

 「責任能力」とはある水準においてはきわめて抽象的な理念である。芳永氏の言うところを引く。

《抽象的に言えば、ものごとの善悪の判断ができるかできないかが一つ。その判断にしたがって自分の行動を律することが出来るかどうかが一つ。》

 一般論としてはそのようなものだと私も納得する。ちなみに、六月二八日、幼女連続殺人事件の控訴審の判決が下されたが、その判決文の要旨では次のように書かれていた。

《第二、責任能力に関する事実誤認の主張について
 1原判決による被告人の責任能力の判断方法について

 被告人の精神状態が刑法39条にいう心神喪失または心神耗弱に該当するかどうかは法律判断であって、専ら裁判所にゆだねられるべき問題である。その前提となる生物学的、心理学的要素も、その法律判断との関係で究極的には裁判所の評価にゆだねられるべき問題というべきである。/原判決の認定判断は、各犯行ないし被告人の生活状況などにおける被告人の行動そのものに了解可能性や被告人の異常もしくは病的な精神状態があるかどうかについてのものである。/このような認定判断は、精神障害の種類や程度などに関する精神医学上の診断ではなく、生物学的要素にその是非弁別能力や行動制御能力に与える影響という心理学的要素を総合して行う規範的評価としての被告人の責任能力を判断するために、その前提として関係証拠および経験則に従って行われるものである。/換言すれば、この認定は裁判所の評価にゆだねられ、精神医学の専門家による事実評価に関する意見に依拠する必要のない判断ということができる。/原判決による被告人の責任能力の判断方法に誤りはない。》(産経新聞六月二九日朝刊。なお讀賣新聞の判決要旨ではこの項は省略されており、朝日新聞は要旨自体が掲載されていない)。

 長々と引用したのは、宮崎容疑者に対して精神鑑定の結果を斥けた判断の妥当性を問いたいのではなく、「責任能力」があくまでも裁判所における判断であることを強調していることによる。生物学的、心理学的要素も裁判所にゆだねられ、精神医学の事実評価に依拠する必要がないと明言されている。従って再度引くが、「しかし起訴前に行う精神鑑定で『責任能力なし』との結果が出たら起訴できない。我々は精神医療の専門家じゃない。医師の判断を覆すことなんてできない」と述べる現職検事の発言は、故意の誤用か、責任能力の何であるかの履き違えか、記者の書き誤りだということになる。

 起訴以前の捜査段階とはルーティンワークである。犯罪被疑者の取り調べという重大な職務を決して軽んじているのではない。私は自分の体験を参考に考えるしかないが、いかに高邁な教育理念を持っていたとしても、日々の教育実践は、小さなこと、卑近なことの積み重ねによるルーティンワークである。そしてルーティンワークだといったからとしても、決して教育という仕事を軽んじているわけではない。どんな仕事にあっても、日々の職務は小さなことの積み重ねからなるということを言いたいのである。

 その意味で「責任能力」という高度な理念も、ルーティンワークにあっては、「医者の診断→精神障害→責任能力なし」というように、短絡的操作的な扱いを受ける事態は、十分に考えられる。仕方がないといっているのではない。十分にあり得ることだと言っているのである。鑑定を下す精神科医においても事情は同じである。精神の病状に対し自分なりの判断基準をもち、その基準で責任能力の「ある・なし」を操作的・マニュアル的に決定していくことは予測できる。いかに高度な理念であろうと、いや理念が高度であればあるほど、その表現は、現場においては操作的になる危険を孕む。

 しかしもし万が一「責任能力」に関して、起訴以前の、現場中の現場である検察捜査段階にあって、検察と鑑定医双方になんらかの履き違えがあるならば、それは重大な疑義を生むことになる。

 なぜなら宅間容疑者が「自分は何をやっても無罪になる。なぜなら精神病だからだ」と言ってはばからなかった愚かな論理を、検察自らが裏付けていることになるからである。