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犯罪論(3)
 
09・04・18更新
「責任能力」とは何か(その1)
飢餓陣営22号(01年8月発行)掲載

 以下に掲載する論考は、2001年の池田小事件の直後に書かれたものです。
 まだレッサーパンダ帽の青年による「浅草事件」への本格的な取材には入っていない時期で、このとき、ある弁護士さんにインタビュー取材をさせてもらい(芳永克彦さんといい、オウム破防法問題のときの弁護団の一人となった方です)、滝川一廣さんの論文と合わせ、池田小事件に関する「小特集」を組みました。ここから、『自閉症裁判』に至る「障害をもつ人と犯罪」というテーマに本格的に取り組むことになります。

 「責任能力とはなにか」。ストレートなタイトルです。池田小事件のさい、私も、そしておそらくは社会も、まさにこの「責任能力とは何か」という問いに襲われたのです。

 ところで、ここにきて、新聞やテレビからの取材が続きました。裁判員制度を取材してきた記者たちが、「障害」をもつ人びとをどう裁くのか、裁判員となった一般市民にそれができるのか、という問いに直面したうえでのことだと思います。刑事裁判が他人事ではなく、自分のこととして目前にすると、どうしてもそのような「問い」に直面することになります。(ちなみに、だから裁判員制度には反対である、という論にはなりません。裁判員制度について、ここでは述べることはしませんが、私は、どうすればもっとより良い制度になるか、という方向で考えたいと思っています)。

 ともあれ、それまでにきちんと論じられる機会がきわめて少なかった責任能力や精神鑑定についての取材と考察が、このときから始まりました。『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』という著書も、この延長上で編まれました。


はじめに――何を「問題」と感じたのか
 二○〇一年六月八日午前十時過ぎ、大阪の池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に三十七歳の男が乱入した。男は包丁を手にし、「顔色一つ変えず、目を見開いた状態で、本当に無表情」(6月9日「朝日新聞」夕刊掲載、校長談話)に逃げ惑う児童らの背中や胸に切りつけた。死亡した児童八名、負傷者十五名。男はこれまでに「精神分裂病」「妄想性人格障害」などの診断を受け、入院歴があり、現在も通院加療のさなかにあったと報じられた。

 はじめ、精神分裂病の疑いのある者の犯行かと見られていたが、すぐに詐病が疑問視された。やがて詐病どころか、かなり周到に精神病の被治療者として自己を擬し、さまざまな犯行やトラブルを引き起こしては、「治療歴あり」をアリバイとして、起訴されることを巧妙に回避してきた男のようだ、という方向で報道は進んで行った。

 現在、わたしたちは、宅間容疑者についてのいくつかの情報を手にしている。かつても犯行歴があり、しかしその病歴のために起訴はされず、短期の措置入院で社会に戻って来たこと。自衛隊への入隊、バスの運転手など、さまざまな職についてはトラブルをきっかけとして短期間で次の職に移っていること。結婚―離婚を繰り返し、以前の妻に対して異常な執着を見せ、恐喝を繰り返していること。精神鑑定その他についての法律書を所有し、自分は何をやっても無罪になると嘘ぶいていたこと。精神科医であるという偽の名刺を作り、女性に声をかけていること。ある時期に勘当されており、家賃の滞納や数百万の借金を抱えるなど、生活に困窮していること、等々。

 そして七月七日の時点では、精神鑑定が決定し、拘置所へ移送されたた旨の報道がなされた。ここでの鑑定請求は、公判になったときの立件をより確実なものにするためであり、鑑定後に起訴されることは、ほぼ間違いないとも書かれていた。

 ところで、わたしがここで取り上げたいことは、この池田小の事件それ自体ではない。宅間容疑者に関する情報を集め、その「心の闇」とやらをほりさげたいのでもない。この惨劇は、微妙な、しかし私たちの社会が乗り超えなくてはならない「問題」を、束の間、垣間見せた。その「問題」とは何か。なぜそれが微妙なのか。どのように「問題の形」にできるのか。本稿ではその端緒を探ってみたい。

「なぜこんな子を・・・」という感情
 まず、小泉純一郎首相は、事件後、早速、次のようなコメントを発している。以下、抜粋して引用する。

「(略)これ昨日、国家公安委員長と文部科学大臣とも協議したんですけどね、精神的に問題がある人の、この医療法と犯罪を犯した刑法は、なかなか難しい問題がありますね。人権の問題、そして、逮捕されてもまた社会に戻ってね、ああいうひどい事件を起こすというようなことがかなりでてきている。/そこで今後、いま山崎幹事長にも今日、電話で相談したんですけれども、政府と党が両方こういう問題に対して法的に不備なところがある、と同時に医療の点においても、刑法の点においても、まだまだ今後、対応しなければならない問題が出ている。(略)」(「朝日新聞」六月十日付朝刊)

 小泉首相は、目ざとく大衆感情をキャッチし、それを発信することに、これまでのどの首相よりも意識的に見える。私が発言を引いたのも、そのことによる。ことの是非や、事実の真偽、あるいは情報の精確さ以上に、大衆の何かを捕まえ、即座に発信する。その演出の巧みさによって八割以上の支持につながっているわけだが、ともあれそうした首相によって、右のようなコメントが出された。

 端的に言おう。「社会に対し、何らかの不安や損害を与える存在を、これ以上、野放しにしてはおけないのではないか。そのためには法の改正も辞さない」。このコメントの真意はそうなる。おそらく「精神病の治療中の者の犯行である」という第一報の直後、この首相同様の「怒り」を抱いた人は、決して少なくない数だったと推測される。言ってみれば、誰もが抱いたであろう「こんな男を野放しにされたらたまらん」という大衆感情が、首相によってこのような形で「発信」されたわけである。その危機感や不満は、詐病の疑いが明らかになるにつれて、とりあえずの収束を見せてはいる。しかしそれは機会さえあれば、いつでも噴出してくるものだろうと思う。

 なぜわたしが精神障害者の犯罪と、司法や医療の処遇をめぐる問題に他人事ではない関心を寄せるのか。その事情は次のようになる。

 知的障害を持つ子どもたちと接してきたこの二十数年の間、「なぜ野放しにしておくのか」とまで言われたことはない。しかし「なんでこんな子を!・・」とおぼしきことを面と向かって難詰された経験はある。むろん非はこちらにあるのだから――特に幼児などに対して何かトラブルを引き起こしたときなど――引率した私たちはただただ詫びるだけであった。

 確かに彼らは、公園やデパート、レストランなどの学校外で、ときにトラブルを引き起こすことがある。多くの人たちは、彼らに対し、拭い切れない「不安」を持っているだろう。それは仕方のないことだと私は考える。まして理由もないのに突然パニックになって暴れ出したり(本当は彼らに固有の理由はあるのだが)、小さな子に危害を加えてしまう行為など、理解し難いだろうし、「なんでこんな子を・・」と感じたとしても、そのこと自体を責めることはできない。しかし、それなら彼らを社会から切り離して生活させることが望ましいのかといえば、そんなことはできない・・・。私はそのような相反する思いに引き裂かれてきた。今回の事件の報道に接しながら感じてきたことも、そこに通じている。

 ましてや先の首相発言である。精神障害犯罪者がどのよう法や制度のもとに置かれていくことになるのか。それが知的障害を持つ人々に、どのように適用されていくことになるのか。

 知的障害を持つ人々が重大犯罪を引き起こす例はきわめて稀だろうと予想されるが(不起訴になった事件は報道されないから、全体の輪郭をつかむことは難しい)、しかしまったくないわけではないことも事実である。私は過度の配慮は逆に真実を隠蔽すると考えるものであるからこの稿で触れていくが、近い例では、レッサーパンダの帽子をかぶり、女子大生を殺害したYM容疑者は、「高等養護学校」を出ている旨が一部で報じられた。金がなくなるのも構わずに放浪していたという放浪癖と金銭感覚。わざと人目を引くように、幼稚なレッサーパンダ帽をかぶって、人中に出て奇とも思わなかった対人的感覚。白昼、街の真っ只中で突然パニックになったように女性に襲いかかり、犯行後もその形跡をまったく隠そうとはしなかったという場当たり的行動。

 新聞や週刊誌の報道では、幼稚さや「奇行」として捉えられていたようなのだが、私はY容疑者が高等養護学校の出であると知り、なるほどそうだったのかという「当たり」をもった。むろん詳細な日常のデータを持っているわけではないから、そのことを確定的に言うつもりはない。しかし、読み書きがある程度でき、会話もそれなりにこなせ、就労も不可能ではない生徒たちに見られるひとつの行動パターンとして、「腑に落ちる」ものがあったのである。彼は起訴されたが、この事件の公判はまだ始まっていない。この後、彼がどのような弁護を受け、どのように裁かれていくことになるのか。

 あるいはこの五月には、二歳の幼児を陸橋から突き落とした事件が起こった。この事件の容疑者は、重度の知的障害者であり心神喪失であるとして不起訴処分となっている。私は偶然知ることとなったのだが、その事件は報じられていない。もし社会が防衛のために精神障害者への監視を強めていく方向に進むなら、知的障害を持つ人々も、その対象となるだろうことは予想される。

 *
 ところで、本稿のタイトルを「責任能力とは何か」としているが、司法理念としての「刑事責任」について、何がしかの意見を述べようとしているのではない。専門書をまったく覗かなかったわけではないが、「責任主義」の何であるかから始まり、「責任能力」の概念からその適用範囲や範例に至るまでが書かれており、その批判的吟味はにわか勉強などの及ぶものではないという事情もある。今回はこの間の新聞報道を整理しながら「問題の形」を作ってみたい。

司法と医療の二重構造
 先に引用した首相発言は、当然多くの波紋を引き起こすこととなった。しかし刑法改正と精神保健法の改正に対しては慎重論が大勢を占め、人権問題を考慮しつつ、法や制度の不備をどう整備するか、という方向に進んでいった。七月六日の「朝日新聞」によれば、厚生労働大臣の発言として、医療関係者のみならず、司法関係者も加わった「司法医療審判所」(仮称)を全国に8ヶ所設置し、そこで措置入院と退院の判断をすること、審判所は裁判所の一機関であり、その長には現職裁判官をあてる等の構想を述べたという。

 しかしここには厚労省と法務省の綱引きがあるとも記事は指摘する。つまり裁判所主導となれば「保安処分」のイメージになり、批判を招くと法務省側は言う。しかし、医師は「自傷他害」の判断はできるが、「再犯の危険性」を決定するのは司法の役割だ、と厚労省は主張する。司法と医療の意志不統一は、これから検討を加える問題のなかで、随所に現われてくる。改めて指摘するまでもないが、刑法は法務省の、精神保健福祉法は厚生省(現厚生労働省)の管轄と、それぞれに分かれている。様々な歪みが起因する一つは、この二重構造に求めることができる。

 これまでの官僚・行政の組織は縦割りになっており、縦割りであるゆえに、絶えざる縄張り意識を生じさせた。中間の領域に渡る問題に関しては責任の所在を押し付け合い、逆に既得権は絶対に手放そうとはしない。縦割り機構の限界が明らかであったゆえに構造改革が言われ、省庁再編が断行されたはずなのに、結局何が変ったのか。警察の相次ぐ不祥事、外務官僚のたび重なるスキャンダル。私たちがいま見せられているのは、既得権と責任をめぐるきわめて歪んだ例である。こうしたなかで法と制度の改変がなされたとしても、改悪にしかならないと危惧するのは、私だけではないだろう。

 厚労省の意向はともかく、医療現場の声ははっきりしている。例えば「精神科七者懇談会」(これは国内の精神科医の総意を集める唯一の団体だと書かれている)の緊急声明として、「容疑者や被告に精神医療を提供しながら、司法、医療の双方がともにかかわって責任能力を評価する制度を設けること」を法務、厚生労働両省に求めたという(「朝日新聞」六月三〇日)。この記事からも明らかなように、医療の側は、措置入院の解除決定の一切を委ねられている現行の制度に大きな不安をもっている。

 しかし司法の側がそこに踏み込むことを躊躇している、という構図が見られる。なぜだろうか。弁護士や裁判官の絶対数が不足しており、過密スケジュールのなかで実務がなされているという現実がある。精神障害犯罪者の処遇にまで職域が及んだら、現実的物理的に不可能である、という危惧は推測できる。また本誌のインタビューにおいて芳永氏が再犯の予防にはならない点を強調されていたように、報道を追う限り、多くの司法関係者はその点を強調する。。現実問題としてはそうであると、私も思う。医療に対しては素人であり、その素人が精神病の患者に対して何事かの判断を下す、というのは現実的ではないし、そのような責任ある立場に立つわけにはいかない、そう危惧することもわからなくはない。

 しかし医療従事者も法律上の問題、司法判断にあっては素人である。しかしその素人が、結果として(特にクローズアップされるのが重大犯罪の事後である)、司法判断が引き受けるべき責任までも負わされているのが現実ではないか。司法の、精神障害者全体への関与ではない。不幸にして犯罪を犯してしまった精神障害者の事後の判断に対する、何らかの関与である。その方が、現状よりもはるかに妥当なあり方ではないかと私は思う。そのためには法の改変、もしくは新たな立法を必要とする。しかしここで先の問題が浮上する。

 「政治主導」の名のもと、新法の制定と現行制度の見直しについて、厚労相と法務相の見解が一致したとも報じられたが、(「朝日新聞」六月二一日朝刊)、すでに指摘した通り、責任所在の不明確な改悪とならない保証はどこにもない。この司法と医療のねじれた二重構造が最初の課題である。しかしこの問題は絶望的に根が深い。

(以下次号)
*「精神分裂病」という当時の名称をそのまま記載しています。また「Y容疑者」は原文では実名ですが、改めました。