犯罪論(第2回)
09・03・10
幼女連続誘拐殺人事件
――「平成」のはじまりと「手触り」の変容
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「つとむ・みやざき」という物語(2) 1989・10
●初出1989年10月15日発行「ざるう8」
▼ キーワードその(1)の読み換え
しかし、次のように仮定してみよう。
彼が犯罪者としてではなく、人並み外れた映像感覚を持ったビデオ作家としてわたしたちの前に現われたとしたらどうなるだろうか。先に列記したキーワードの一つ一つが、まったく異なった意味を持つものとして印象付けられないだろうか。
ひどくおとなしく、周囲になじめないその性格は鋭敏過ぎる感受性のゆえであり、職業についてもろくに働かなかったのは、ビデオ作家というアウトロー的天分のゆえであり、過保護の母親は理解を持って見守り続けた母親だった、というようにすべては反転する。
仕事に専心してほとんど我が子と接触のなかった父親も、自らの生き方を身をもって示した父親となり、六千本のビデオ収集は天才の驚くべき研究心のたまものであり、才に頼むだけでなく、そのようなひと知れない努力があったのだというように、マイナスのカードがたちどころにプラスのカードに転換するのを見ることができるだろう。
むろんこのような「もし」は濫用すべきではない。天才的な表現者と犯罪者は、常に紙一重なのだという紋切り型の常識を指摘したいのではなく、メディアはこのようにして同じキーワードで異なる人物像をいくらでも描けること。そしてそのようにして描かれる「物語」は通俗的で類型的なものに他ならないこと。そのことを指摘しておきたいのである。
しかし通俗的で類型的であるほどに,その「物語」が計り知れない威力を発揮することもまた間違いない。情報の受け手であるわたしたちは、それが通俗的で類型的であるほどに「不安」が解消されるのだ。
▼ 「物語」を作るキーワードその(2)
・「おたく青年」「色白、小太り、銀ブチめがね、長髪」(以上、おたくの特徴―佐藤註)「マニアック(アニメ、コミック、パソコン)」「私の中のM、Mの中の私」(*1)
・「胎内回帰」「ペドロフィリア(幼児性愛)」「ネクロフィリア(死体性愛)」「コピーフェテシズム」「サディズム」「情性欠如精神病質」(*2)
・「究極の男による女の所有」「快楽殺人」「自己肥大感」(*3)
・「肥大化した一・五の世界」(*4)
・「無表情」「性的不能者」「ロリコン」「究極のホラービデオ作り」(*5)
これらの言葉は、この事件を「解読」するために次の各評者によって用いられたものである。
* 1は大塚英志「私の中のM君、M君の中の私」(『中央公論』1989年10月号)、
*2は小田晋「快楽殺人者の日常感覚」(つかこうへい、吉岡忍らとの座談会『中央公論』1989年10月号)、
*3は小倉千加子「小人国のガリバー宮崎勤」『文藝春秋』1989年10月号、
*4は安部隆典「追跡! 宮崎勤の『暗い森』」(『文藝春秋』1989年10月号)における小此木啓吾『一・五の時代』よりの引用、
*5は山元泰生のルポ(「宮崎勤は性的不能者だった」『週刊テーミス』1989年8月30日号)。
これらの論評の解読の方法、著者の立場を簡単に紹介しよう。
*1はこの事件をきっかけにマスコミに急浮上した「おたく族」と呼ばれる一群の青年たちが、あたかも犯罪者「つとむ・みやざき」の予備軍として位置付けられかねない最近の風潮に対して、自ら「おたく」を称する筆者が違和を表明したものである。
*2は犯罪者の心理鑑定も行うという犯罪心理学者の、座談会におけるきわめて教科書的な分析である。
*3は売出し中のフェミニストによるもので、この事件は「男としての権力」を手にすることに挫折した男による、究極の女の所有であるという、これまたいかにも新左翼フェミニストらしい解釈である。
また*4も心理学者の分析であり、テレビやパソコンなどの機械との関わりは、人間関係を希薄なものにし、自分本位の満足感を肥大化させるとし、その肥大化を「一・五」と呼んでいる。
*5は写真週刊誌の記事であり、煽情性で他を圧している。
これら一つ一つについての感想や批判はあるが、ここでは触れない。ただ先のキーワードと併せ、「おたく青年」とやらの生育史?と特徴を次のように図式してみよう。
@[存在感がない、無口、過保護な母親と無関心な父親]→A[人間関係がヘタ、特に女性関係の挫折、自分本位]。(ここまでが「おたく青年」の予備軍)→B[マニアックな収集、ビデオやパソコンへの耽溺と自閉化と自己肥大感、退行、情性欠如、性的不能者?、ロリコン](一般的な「おたく青年」)→C[快楽殺人、異常性愛、究極の女の所有、究極のホラービデオ作り](もはや「おたく青年」とは呼べない、きわめて少数の犯罪予備軍。)
言うまでもないが、@とAを併せ持つからといっても、そのすべてが「おたく青年」になるわけではない。つまり@からCに至る明確な因果関係などありようがないのだ。またBの「おたく」たちと言えども、そこにはなだらかな傾斜があるはずである。Cに至っては、そこに矢印をつけることが妥当とは思われないほどの断絶があるだろう。
ここにあるのはあくまでも恣意的なもの、と言って悪ければ、一般例として示すには、根拠が弱いと考えざるを得ない因果関係の束なのであり、これらを強引に結び合わせることによって「つとむ・みやざき」の物語は作られたのである。つまりそれぞれの筆者たちが、このような因果的図式を読み手に喚起させる度合いとは、マスメディアによって作られた物語を無自覚に受け容れた結果によるもの、もしくはそこに加担することを進んで選び取ったことによるものだといえる。
▼ 「物語」を補完する「憶測」
ここで少しばかり週刊誌に目を転じてみる。わたしたちの前に日々量産されてくる「週刊誌」が果たしている役割は何か。そこで書かれる記事はどんな内在的なモチーフを持ち、どんな手続きをよって生み出されているのか。こうした主題は大変興味深いものだ。
多分、理屈もへったくれもないなんでもありの世界であり、その記事は玉石混淆なのだろうが、ときに、見事、と感じせる記事が見られることも事実である。あるいは言論の自由とか知る権利などとという「錦の御旗」を振りかざしながら、特定の個人に対してさりげなく、あるいは恫喝を露骨にして暴露的な記事を載せてみたり、また暴露性のなかに手の込んだ行間の情報を垣間見せてみたり、ときには浪花節そのものであったり、というその節操のないスタンスが、わたしには大変関心をそそられるのだ。
しかしそのなんでもありの凄まじさが、今度の「つとむ・みやざき」の物語を補完するおびただしい「憶測」によく現われていた。目に付いたそのいくつかをあげてみる。
●彼の「性」に関するもの
@「宮崎の性器は子供のような状態で、その発育不全にあわせるように陰毛を剃っていた」*6
A「宮崎は性的不能者であり、女を知らない」*5
●余罪等に関するもの
B「埼玉県下には、昨年から今年にかけて幼女誘拐未遂事件が九件起きており、その手口と目
撃証言から、うち五件が宮崎の犯行と見られている」(*5)
C「『チャイルドU』と題された非合法裏ビデオは、出演者の顔のほくろやビデオ撮りの手法が宮
崎のものと酷似しており、宮崎が自作自演したものではないか」(*7)
D「アイドル歌手近藤真彦の母親の墓が暴かれ、その遺骨が盗まれるという事件があったが、宮崎の中森明菜への執心ぶりと近藤への反感、また近藤宅へ送られた脅迫状と今田勇子名の『告白分』の文字の類似性などから、その犯人は宮崎ではないか」*8
(*5は前出、*6は『週刊文春』8月31日号、*7は『週刊宝石』9月7日号、*8は『女性セブン』9月28日号)
@とAの愚劣さとバカバカしさは格別である。しかしこの愚劣さが、メディアが作り出した物語のなかで、一定のリアリティもって受け容れられたであろうと推測することはまちがいではない。それほどメディアの「憶測」は過剰だったのだ。
しかしDには、正直驚かされた。むろんこの記事はシャレで書かれたものではない。宮崎、とさえ名がつけば、なんでも記事になるとおもった訳ではないだろう。ネタが底を付いてきたのだな、ということは分かったが、ここまでやるかよ、と考えたのはわたしだけではないはずだ。
しかし『つとむ・みやざき』の物語は、この後鎮静化することになる。
▼ 「へいせい」のもう一つの物語
このとき、突如として現われたのが、「へいせい」天皇第二子礼宮の「婚約発表」という報道だった。
これは単なる偶然なのだろうか。週刊誌やワイドショーから「つとむ・みやざき」についての報道は後方に退いていき、そして「きこさん」をめぐる新たな「物語」が前面に押し出されてくる。担当の記者たちは早くから知っていたというが、二人のために報道を控えていたという。
まさかタイミングを見計らっていたわけではないだろうが、「へいせい」の始まりに当たって、わたしにはとても象徴的に映る。一方は、「へいせい」という時代のある不気味さ、グロテスクさを、そしてもう一方は、世相がどんなふうになろうともこのようにして世継ぎは成されて行くのだというメッセ―ジのように。
しかし、とさらにわたしは想像をたくましくする。今ごろ週刊誌の記者たちは、「つとむ・みやざき」の新たな物語をめぐって、新聞の縮刷版をめくりながら、この一、二年に秋川近隣で起きた屍体や遺骨をめぐる猟奇的な事件はないかと、血眼になっている姿が浮かんでくるのだ。これは、いうまでもなくグロテスクな想像である。しかしこのグロテスクさは、宮崎勤という一人の青年が仕出かした、途方もない得体の知れなさと通底している。
そして「へいせい」という時代は、いつ、どこから、どんなかたちで噴出してくるか分からないという、そういう時代でもあるらしいのである。
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20年近くも前になる上記の文章は、拙いものではありますが、このときわたし自身が受けた衝撃がどれほどのものだったのか、いくらかなりともお伝えできるのではないかと思います。
何かをしなければいけない。私にできることはなにか。まずはなにが起きたのか、できるだけ詳しく知ること。当時のわたしにとってそのためにできることは、さまざまなひとびとの「発言」に耳を傾け、自分なりのフォーマットをつくり上げ、リアルタイムで送られてくる洪水のような「情報」をそのなかで整理すること。
他にも『「つとむ・みやざき」についての覚書』と題された文章が何本かあるのですが、出来不出来の大きさがありつつも、モチーフは共通しています。ひと言で言えば、マス・メディアが作りあげていく「物語」を、なんとしてでも相対化すること。そのための方法を、わたしは模索していたのだろうと思います。
ともあれこの1989年、わたしたちの社会は大きな傷を負うことになりました。そして20年後のいまもなお、それは修復されてはいません。なぜなのか。どのような傷を負うことになったのか。そもそもこの「幼女連続誘拐殺人事件」とはなんだったのか。
そのことを考えていくことが、これからしばらくつづくテーマです。それは間もなく始まろうとしている裁判員制度への危惧とも、どこかで関連していくテーマだと、私自身は考えています。(つづく)
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