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浜田寿美男氏書評
「こころの科学」121号
佐藤幹夫著『自閉症裁判』洋泉社    
 *このページは、「こころのかがく」編集部と浜田氏の許諾を得て作成しています。



 二〇〇一年四月三〇日午前一〇時三〇分、東京浅草の路上で、レッサーパンダ帽をかぶった大きな男が、ゆきずりの十九歳の女子短大生を刺し殺すという事件が起こった。「ある時、ある所で、ある事件が起こる」というこの一点からマスコミ報道ははじまり、その時点からすでに膨大な量の情報が、想像の尾ひれをつけて、新聞・テレビで流される。そして捜査が進み、容疑者が浮かび上がれば、新たな情報が次々と伝えられていく。しかしそこでも情報の正確さが精査される以前のところで、報道合戦が繰り広げられ、ときにこの事件でのようにあるまじき「猟奇事件」のイメージが振りまかれていく。後に振り返って、どうしてこんな話ができあがってしまったのかと、首をかしげたくなることも少なくない。

 事件直後から容疑者逮捕までの大報道に比べ、その後の裁判にかかわる報道はごくわずかでしかない。浅草事件も、二〇〇四年一一月二六日、被告人に無期懲役の判決が下されるまで、裁判を追跡した報道は限られている。さすがに判決についてはそれなりの報道がなされたものの、裁判の過程を知らないものにとって、マスコミ報道から判決の意味を読み取るのは容易ではない。いや、じっさい記者たちにしても、その多くは裁判の経過を継続して追うことなく、ただ大事件の判決日だからということで法廷に足を運び、記者用に配られた判決要旨と、ごく一部の識者たちの簡単なコメントから記事を起こしているにすぎない。その記事から事件の真相をどこまで知ることができるだろう。まして捜査の過程、裁判の審理過程に忍び込みかねない誤謬を、そこから読み取ることは不可能である。

 事件をめぐる物語は、最初の事件の一点から捜査、起訴、裁判、判決へとたどる流れを、ただ一筆でなぞって描けるようなものではない。そもそも事件は人々の生活の流れがたがいに交差する点に生じ、そこからさらにいくつもの人々の生活を巻き込んで、ときに引き返しようのないほど大きな渦を生み出していく。この複数の流れと渦を可能なかぎり立体的に描くことではじめて、その物語の全貌が見えはじめる。もとより神ならぬ人間には、その物語をくまなく描ききることはできない。しかしそれを描こうとする努力はできるし、ジャーナリズムに求められるのはまさにこの努力でなければなるまい。

 『自閉症裁判』における佐藤氏のその努力と、事件に迫るその力量は、浮薄なマスコミ報道の対極にある。もし彼のこの努力がなければ、浅草事件の実相が私たちの前に、こうして目に見えるかたちで姿を現すことはなかっただろう。浅草の路上でたまたま一組の男と女が出会った。そのわずか数分のあいだに何が起こったのか。その不幸な出会いにいたるまで、たがいに接点をもたなかった二人が、それぞれの人生の物語をどのように生きてきたのか。加害者、被害者それぞれの家族や周辺の人々が、この事件でどのような悲憤の渦に巻き込まれ、それに耐えたのか。その一つひとつが、当人たちの生のことばで語られていく。しかも一方の側に偏することなく、等距離を保ち、それでいていずれにもしっかり思いを重ねる。こうした取材が実現したことは、運にも恵まれていたが、佐藤氏の人間への誠意があればこそのこと。とりわけ娘の残酷な死に加えて、マスコミの暴力的とも言える取材に傷ついた被害者の遺族から、直接その思いを聞き取ることができたことは、ほとんど稀有のこととも言える。

 浅草事件は、「自閉症」を正面にすえて弁護が闘われたはじめての刑事事件であった。しかしその障害を理由に刑の軽減を求めたのではない。弁護団が裁判に求めたのは、被告の障害を見つめたうえで、捜査はどうあるべきだったのか、被告は自らの罪をどのように引き受け、その責任をどのように果たせばよいのか、そして被告たちがこのような犯罪に陥ることのないよう、これから私たちに何ができるのか、これらを真摯に問うことだった。しかし裁判所はこのいずれにも正面から答えることなく、弁護団は本件を控訴した。本書での佐藤氏の努力は、かならずや何らかのかたちで控訴審において報われるものと期待したい。

 (佐藤註 被告人は4月1日に控訴取り下げを自ら申し出、「無期懲役」が確定した。)