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浅草女子短大生(レッサーパンダ帽)殺人事件裁判記録(04/10/23)

第1回公判(2001・10・19)検察官起訴状朗読・冒頭陳述・罪状の認否他
第2回公判(2001・11・22)証人尋問(救命医療センター・医師)
第3回公判(2001・12・21)証人尋問(司法解剖・担当医)
第4回公判(2002・1・22)被告人尋問(1)
第5回公判(2002・2・13)被告人尋問(2)
第6回公判(2002・2・26)弁護人罪状の留保について・証人尋問(警察署取調官実況検分調書作成者)
第7回公判(2002・3・19)証人尋問(警察署取調官実況検分調書作成者浅草警察署警部補)
第8回公判(2002・4・26)証人尋問(警察署取調官引きあたり捜査報告書作成者)
第9回公判(2002・5・16)証人尋問(警察署取調官実況検分調書作成者浅草警察署警察官)
第10回公判(2002・5・29)証人尋問(隣接マンションより事件目撃者)
第11回公判(2002・6・11)証人尋問(吾妻橋にての前兆事件被害者女性)
第12回公判(2002・6・26)弁護人取調調書への異議申し立て
第13回公判(2002・7・10)被告人尋問(3)
第14回公判(2002・7・24)被告人尋問(4)
第15回公判(2002・8・26)被告人尋問(5)
第16回公判(2002・9・10)被告人尋問(6)
第17回公判(2002・9・24)証人尋問(警察署取調官供述調書作成者)
第18回公判(2002・10・7)証人尋問(同上)
第19回公判(2002・10・22)証人尋問(同上)
第20回公判(2002・11・5)証人尋問・精神科医高岡健氏(1)
第21回公判(2002・11・19)証人尋問(警察署取調官員面調書作成者警部補)
第22回公判(2002・12・3)証人尋問(同上・検察官供述調書作成者)
第23回公判(2002・12・17)証人尋問(検察官検面調書作成者)
第24回公判(2002・1・14)証人尋問(同上)
第25回公判(2003・1・29)被告人尋問
第26回公判(2003・2・12)自白の任意性についての弁護人の意見
第27回公判(2003・2・26)証人尋問(山元寿子養護学校時代の元担任)
第28回公判(2003・3・18)証人尋問(同上)
第29回公判(2003・4・16)証人尋問(八王子平和の家、施設長・阿部美樹雄)
第30回公判(2003・5・2)供述調書の任意性をめぐる裁判所の意見・証人尋問(山元寿子証人)
*特別法廷(2003・5・23)証人尋問(父・弟・被告人勤務先塗装店社長)
第31回公判(2003・6・2)証人尋問(目撃者・タクシー運転手)
第32回公判(2003・6・2)被告人尋問
第33回公判(2003・7・16)被告人質問
第34回公判(2003・9・2)被告人質問
第35回公判(2003・9・30)証人尋問(簡易鑑定医米本利彦)
第36回公判(2003・10・17)被告人質問
第37回公判(2003・11・4)証人尋問(簡易鑑定医米本利彦)
第38回公判(2003・12・16)証人尋問(高岡健氏)
第39回公判(2004・1・27)証人尋問(簡易鑑定医米本利彦)
第40回公判(2004・2・20)被告人質問
第41回公判(2004・3・8)被告人質問
第42回公判(2004・4・21)被告人質問
第43回公判(2004・6・1)論告請求・被告人質問
第44回公判(2004・6・27)被告人質問
第45回公判(2004・7・5)論告求刑
第46回公判(2004・8・30)最終弁論
第47回公判(2004・11・26)判決言い渡し





浅草事件の裁判とは何だったのか

○2004年7月5日、浅草事件の論告求刑がありました。検事側の求刑は無期懲役。被害者とその家族へ与えた無念さの計り知れなさをについて強調することについてはその通りです。異論はありません。しかしあくまでも「凶悪な性犯罪である」というストーリーの元、被告人の凶悪性と社会的影響の甚大さだけを強調したこの求刑は、三年以上に及ぶ裁判をまったく無視したものであった、という印象が強い。

 あるいは、それを報じた朝日新聞の記事は、相変わらず「弁護側は、責任能力をめぐって争っていた」と間抜けなことを記し、いかに取材をしていないか。この問題の本質がどこにあるかについて、いかに無知であるかを晒しています。いずれ詳細は他日を期しますが、この裁判を私自身がどう見ていたか、下記資料を転載します。(2004・7・20)


「浅草事件に寄せて」――副島弁護士の問いかけにお答えしながら
(2003年7月25日 第3回知的障害者刑事弁護センター資料集より転載)

1.佐藤さんの簡単な自己紹介を。知的発達障害者とどういう関係があり、どうしてこの浅草事件に“興味”をもっているのか。

(佐藤) 千葉県の養護学校で、21年間教員をつづけ、2年前に退職をしました。現在執筆、フリー編集、雑誌発行、「人間学アカデミ―」という自主講座の企画・運営などをしています。目下のところは、「精神障害」「発達障害」と呼ばれている人々の問題を中心に仕事を進めています。今年の2月に精神科医の滝川一廣氏へのインタビュー集の二冊目『「こころ」はだれが壊すのか』を出し、いまは九月の刊行を目指して「ハンディキャップ論」の執筆のさなかです。

 実はわたしの弟が「脳性マヒ児」で、他界して35年ほどなるのですが、そんなわけで、幼少の頃からハンディキャップをもつ子どもたちとは「付き合い」のある身でした。最初から養護学校の教員を目指したわけではないのですが、なったとたん、徐々に「深入り」していきました。それがどんなものであったかを、こんどの「ハンディキャップ論」で、いくらかなりともお伝えすることができれば、と考えています。

 教員時代は小学部・中学部の子どもたちと過ごしてきました。発達という観点。心理的なケアやコミュニケーションの問題。そうしたことを中心に学んできました。高等部生徒の「出口」の問題についてはやや関心が弱かったのですが、自分の送り出した子どもたちの卒業後の話を耳にし、そうとうに厳しい現実があるとそこから関心を広げていきました。退職理由を簡単にいうのは難しいのですが、知的ハンディをもつ人たちの「支援」は、学校のなかだけではない、とある時期から感じ始めていました。むしろ現役の教員が「教育外」の活動をしようと思うと、多くの制約があって大変難しいわけです。

 たとえば、著作を通しての社会的な発言は、「公務員」であるゆえに禁止されています。また校外に出て何か活動をしようとすると、さまざまな制約を受けます。近年、とみに社会の視線が厳しくなったということで、この傾向が強まっていると感じてきました。だったらフリーになって、自由に、存分に、思うところをやってやろうと考え、決断しました。

 在職中にもうひとつ気になっていたことは、卒業生のなかに、「福祉」のネットワークから零れ落ちてしまう子が出ることです(割合や実態など、正確な現状は把握していませんが)。つまり就労ののち、さまざまな事情で退職し、やがて家にもいられなくなる。そういう卒業生が、一定程度の割合で、かならず出ることです。

 いわゆる重度の子は、福祉のケアがあります。しかし、比較的理解能力の高い子どもたちは、そこから零れたとき、学校、家庭、福祉など、彼らを支えるシステムを失なってしまう。学校では、進路関係の職員を中心にアフターケアをしていますが、学校でできることには、やはり限界があります。というわけで、この問題がとても気になっていました。

 気になっていたところに、今回の事件がおきました。真っ先に、「他人事じゃない」という感じでした。万が一、わたしの卒業生たちが刑事事件の当事者となったとき、周囲の人間はなにができるのか。なにをしなくてはならないのか。おそらく学校は「文科省―教育委員会」という、その責任回避の体質からして、彼らを十全に守るという役目は期待できません。教員も、現役でいるかぎり、そこからそうとうな縛りをかけられるだろうことは明らかでした。

 わたしはそれまで、実際の刑事事件の裁判や冤罪について、本で読む程度の一般的な知識しかありませんでした。しかしこの事件以降、彼らが、どんな取調を受け(警察での聴取はあらかた想像がつきますが)、検察段階ではどうなるか。また起訴後はどうか。法廷という場に立ったとき、どんな対応が待っているのか。

 弁護人は、彼らの「知的障害」あるいは自閉症という事情をどこまで理解しているのか。裁判官はどうか。そうした基本的なことを、まずは知らなければなに始まらない。そう考えて、知り合いの弁護士さんに取材をしたり、この事件の公判の傍聴通いが始まりました。

 不幸にして刑事事件の当事者(被告人)になったとき、まずは自分の為した罪をきちんと認識する場となっているのかどうか。それが可能となっているのかどうか。そうしたことも含めて、知りたいと考えています。ですから、「福祉」や「教育」からは、どうしても零れ落ちてしまう問題があること。これだけ複雑になった情報化社会に固有の「新しい問題」といいますか、そうしたことをわたしなりに拾いだし、考えていきたい、社会への情報発信をしていきたい。それが、これからのわたしの、大きな仕事のひとつだと考えています。


2.佐藤さんは、どうしてこの浅草事件に関心をもち、最初から熱心に傍聴席の中央前面に座ってメモ・記録する、という“作業”をはじめられたのでしょうか。

(佐藤) どうして関心をもったか、という点については1で述べました。わたしの卒業生たちが、万が一刑事事件の当事者になるようなことがあったとき、それをどう支援するか、ノウハウをいくらかなりとも知っておきたいという個人的な動機からはじまっています。個人的ではありますが、わたしにとっては切実でした。しかもあのあと池田小事件がおき、小泉首相の発言など、「他害のおそれのある触法精神障害者」への監視強化の雰囲気が強まっていた時期とも重なっていましたし。

 次には、お尋ねの通り、公判での一言一句をなるべく洩らすまいと「記録・メモ」をしています。簡単に言ってしまえば取材だということになってしまうのでしょうが、わたしはインタビュー集を作ることを、重要な仕事のひとつとしています。とうぜん、わたしが共感し、たいへんに優れている、という方に依頼し、相手になっていただくことになります。そのときもっとも自分に課していることは、自分の考えを押し付けないことは当然ですが、まず相手の考えを虚心に聞く、あらかじめ自分のなかに「ストーリー」や「結末・結論」を作らない、ということを出発点にしています。とにかく耳を傾けます。そして伺ったお話を元に、わたしなりに考え、分からないところは重ねてお聞きし、自分の考えがあるときにはそれをぶつけ、さらに応えていただく、という手順を踏みます。今回の事件に関しても、このプロセスと、同様です。いまは、とにかく多くの「情報」を、自分の耳で取り入れること。虚心に聞くことを最優先しています。

 一番前に座るようにしているのは、山口被告の表情、ちょっとした動きなどをキャッチしたいと考えているからだと思います。いまは、彼のことを少しでもいいから、ほんの些細なことでもいいから知りたいと考えています。

3.私ら弁護団は、この種の事件報道について懐疑的で、マスコミ・ジャーナリストの人たちに強い警戒心(信用できないという感覚)をもっています。長いこと、その警戒感を私たち弁護団から感じられてきたと思うが、そのことについてどう思いますか。

(佐藤) その「警戒感」はとてもよくわかります。私も共有しています。特に今回の事件のような場合、「微妙」な問題がたくさんあります。そしてそれがなぜ「微妙」でデリケートかは、通常のマスコミ・ジャーナリストには理解されないでしょうし、難しいところだと思います。

 まず、弁護人は「供述調書の任意性」について争ってきたわけですが、なぜそれが重要なのか。そして通常の大人でも、連日連夜の「質問責め」で心身がボロボロになってしまう事情聴取が、彼らにとって、それがどれほど過酷なものであるか(浜田寿美男さんの一連の著作がありますが)。特に「知的なハンディ」をもつ人の場合、そうやってつくられる供述調書は、まず信用できないことは明らかです。しかし弁護人が何にこだわっておられるか、そのこだわりのもっとも核心のところは、おそらく一般のマスコミ・ジャーナリストには理解はされていないだろうと思います。理解していたとしても「通り一遍」のものにしか過ぎないだろうことは予想されます。

 ただし、いまやわたしもマスコミ・ジャーナリストの側の人間になってしまったので、その点は少し複雑な気持ちです。

4.この浅草事件の裁判を、直接自分の目と耳で実体験してきて、この人たちの刑事裁判についてのイメージが変わったというところがありますか。

(佐藤) 刑事事件のイメージが代わったといいますか、副島さん方のような、こうした事件のスペシャリストがおられたということに、もっとも安心し、また感銘を受けたところでした。最初の公判で、まずは、ほっとしたことを覚えています。次は、「殺意の認定」が大きな争点となるのか、と予測していました。そのとき、あらゆる「調書」の任意性を崩していく、という方法が取られていくのを眼にし、なるほど、こうしたかたちで「弁護」が進んでいくのかと分かり、大変に勉強になりました。蒙を開かれました。そしてみっつめは、彼のもつ生来のハンディキャップ、家庭環境、生活の困窮、社会的迫害、そうしたことから、たんに情状酌量を求めていくのか、とも考えていましたが、全くそうではありませんでした。

 第一回目の公判のときだったと記憶しますが、「この裁判を通じて、被告自身が自分の為したことの重大さを認識し、被害者はじめ家族への、真の謝罪の思いをもつようになってほしい。それがこの裁判での努めとしたい」と述べておられました。大変に大きな共感を覚えました。そして、これは絶対に最後まで見届けなくてはならない、と決意を新たにした次第です。ただし、そうした弁護士さんが他にもおられるのか、不勉強にして分かりません。経済的見地を抜きにしなくてはできないことでしょうし、いずれにしても少ないだろうことが気がかりです。


5.凶悪犯の弁護人である私たちの弁護をみていて、何か弁護士のやり方についてイメージが変わりましたか。

(佐藤)質問の意図とするところが、もうひとつつかめないのですが、上記との関連でいえば、供述調書の任意性を崩していくこれまでの公判は、何度か、あっと言わせられました。とくに6回、7回、8回。実況検分調書、引きあたり調査書など、数字の矛盾を徐々に追い詰めていくあの公判には、目を見張りました。


6.この浅草事件を私たち弁護団は、“自閉症者の犯罪”として正面から掲げ弁護していることについて、どう思いますか。

(佐藤)非常に大きな問題提起だと思います。そして「矛盾」というか、たいへん難しい面もある、というのが率直な感想です。

 まず、法廷において弁護を受ける権利は、どのような凶悪犯罪の被告人といえどももつわけです。そして弁護人は、最善の弁護をするために、もっとも最良と考える法廷戦略をとる。そこで「“自閉症者の犯罪”として正面から掲げ」ることを選んだ。なぜならばこの事件の背景を為す重要な要因は、彼が「自閉性の障害」を抱えているという事実がある、そう考えたからですね。ここまでは大変合理的な道筋であり、わたしなりに了解できることです(弁護士さんがたの、知的障害者の権利をまもる、という強い信念、信条とするところは、あえて脇に置いて述べています)。

 そして問題提起だと感じるところは、自閉症(特に高機能、アスペルガー)と呼ばれる人たちが、どういう心の世界をもつか、刑事事件の「弁護」という行為を通じて明らかにしようとしている、という点だと思います。教育や福祉という場だけでは、なかなか見えないものがそこにはあり、この点がわたしにとってとても重要なところです。

 いわば、わたしが教育の現場にいたときに、いわゆる「問題行動」の多い子、「特別の配慮の必要な子」に対して、彼らの抱えもっている背景(家族環境や生育歴、それまでの学校教育や友達関係など)はどうなのか。これまで、どんなケアが欠けていたのかetc、としていくらかは議論の俎上に乗せていたことが、傍聴を通じて、そうした問題のあらゆることが凝縮されていると感じます。私にとってもっとも重要、というのはそういう意味です。

 一方、難しいと感じるのは、こういうことです。弁護人の尋問を聞いていて、これは辛いと感じることがあります(こういうせっかくの機会ですので率直に書かせていただくことをお許しください)。それは、彼の「自閉症」という障害が、本人の目の前で強調されることです。これは戦略上、止むを得ない事態であると頭では考えても、多くの人の前で、自分が障害者であることが強調される。彼は、自分は障害者なんかじゃないという。さらに弁護人が、いや、そうじゃないと、さらに述べていく。これは辛いよなあ、たまらんなあという感想がどうしても出てきてしまうことです。・・・と、この点を、私があまり強調してしまうと、非公開に、ということになってしまうとまた困るわけですが、この背理がとても難しいと感じました。

(余談ですが、ある一定程度の理解力のある知的ハンディをもつ子たちの苦しみが、この点なのです。自分のことを特別扱いしないでほしいと感じる、しかし自分は、勉強も進まず、友だちにも馬鹿にされる、なぜ馬鹿にされるのかも理解できる、ケアが自分のためだとはわかるが、わかるからこそ、それがジレンマになってしまう・・・という)

 ただ、以前、副島さんの「ニュースレター」で、ご自身がその点をしっかりと自覚されておられることが分かり、複雑な心境の半分は軽減された、ということもお伝えしておきたいと思います。

 もうひとつ難しいのではないかと予想されるのは、自分の障害を強調されることは、彼本人にとっては本意なことではない。つまり、弁護人は、否定していることを「争点」にしなくてはならない、というジレンマに、弁護する際に置かれてしまうのではないかということです。あくまでもわたしの推測ですが、このことは二重に「共感関係」を難しくしているのではないかと考えられるのです。まず、彼の「心」を開かせ、共感関係をつくることそれ自体が難しいという、彼自身に備わった初期条件があります。まずはそのことを乗り超えなくてはなりません。

 それに加え、彼のために良かれと考えることが、彼にとっては本意ではない。むしろ反発を招くことになってしまう。彼の本意としないことを含み聞かせながら「共感関係」をつくっていかなくてはならない。このジレンマです。「共感関係」ができなければ、弁護は必要ないと感じられてしまう。むしろ、余計なことだと感じているかもしれない。まして彼にとっては、情状酌量してほしいとか、自分を少しでも有利なところへもって行きたい、という気持ちも皆無です。さらに法廷という場に出ること自体が、たいへんな苦痛です。そういう多くの困難のなかで、「弁護」活動を維持していかなくてはならないわけです。

 そうすると、なぜ自分がそのような重大事件を引き起こしてしまったのか。自分がいま、あるいは今後しなくてはならないことはなになのか、ということを考えるきっかけも遠のいてしまう。このジレンマは、とても難しいことだと思います。そしてこうした事件で、「障害」を争点とするとき、どうしても避けがたくついてくる点ではないかと考えます。しかし、ここは、ぜひとも乗り越えていっていただきたいと、わたし自身は、つよく望んでいます。

7.この浅草事件の問題点とはどういうことだと思いますか。
 
(佐藤)これには、簡単にお答えするのはとても困難です。6でも書きましたように、多くの諸矛盾が凝縮されている、と考えるからです。そのことを、わたしたち(彼らの周辺にいて、サポートしようとしている人たち)が少しでも理解することが重要なのではないでしょうか。

 大きな事件には、ほんとうにさまざまな要因が複雑に絡まりあっている。そのことを強く感じます。たとえば、「虐待」の問題には、現代社会における「貧困」の問題が潜在している、と精神科医の滝川一廣さんは指摘しています。わたしも少し取材する機会があったのですが、貧困を核に、家族や夫婦の関係、生い立ち、世間からの孤立、次々に出てくる生活上の難問(ほんとうにこれでもか、というくらい、次々に難題に襲われるのです)、そうしたことが複雑に絡まりあって、「虐待」がエスカレートしていく。そういうケースがほとんどであることを知りました。

 経済的困窮という潜在する事情は、「差別」や偏見をつくってしまうのではないか、という自主規制的な力学によるためか、ほとんど報じられません。この事件でも、まさにそうだと思います。やはり「貧困」に追い込まれていくという問題が、非常に大きな要因としてあります。しかもそれが、社会の偏見、排除などの問題、家族成員や生い立ちの問題などと、深く連動しています。ここに教育・学校の問題、法や制度の問題などが加わり、現在もなくなってはいない「負」の問題が、すべて凝縮しているという印象を受けます。

 詳しくは述べられませんので(できればわたしのインタビュー集や著作をごらんになっていただきたいところですが)箇条書きにしてみます。

(1)社会全体がとても複雑になってしまったことから生じる問題。
その1.教育や福祉のケアがとてもきめ細かになった。それはよい点ではある。しかし一方で、たとえば「高等養護学校」のようなかたちで、「障害児」が分けられてしまう。それはソフトなかたちで「障害/健常」という線引きをしてしまうことになる。(実際彼は、高等養護学校への進学を望んでいなかったし、卒業後アルバムを捨てたり、履歴書には中卒と記している。こうしたケースは、ほかにも多いのではないかと予測されます)。

 だからといって、昔の方がよかった、昔に戻れ、と言いたいのではありません。それは不可能ですね。また批判したいのでもありません。つまりきめ細かになった福祉や教育などのケアによって、また別の問題も生じている。良かれと考えて行なっていることには、どこかに「反作用」がある。そのことに、まずわたし自身が自覚的でありたいということです。

その2.広汎性発達障害、行為障害、人格障害などというかたちで、あたかも「新しい障害者」のようなかたちで問題が顕在化してしまっていること。
 滝川一廣さんが、新しい障害と捉えるよりも、社会が複雑になり、人間関係がとても細かになってしまったことで生じている問題ではないか、と述べていますが、この意見にわたしも同意します。

 高機能自閉症、アスペルガーなどにかぎって言えば、対人関係や社会性に偏りがあるにしても、かつては頑固な職人、樵さんなどなど、それなりに社会のなかで生きていくことができていた。しかしいま、社会性や対人面に偏りをもつ人、それが困難な人は、たいへんに生きにくくなっている。子ども社会でもそうで、そのことが焙り出されているのではないか。おおむね、そのようなことを述べています。

 なぜこうした見解にどういし、重要だと考えるかということですが、むろん、こうした指摘で問題が「解決」されるわけではありません。しかし、ここを誤解してしまうと、それ以降の対応や認識に、誤りが生じることになるのではないかと考えます。

その3
このことに加え、テレビやインターネット、携帯電話など過度の情報ツールが溢れています。それらを使い分けることが、若い人たちの人間関係の形成に、きわめて重要な役割を担うようになってしまっている。これをかき分けて生き抜いていくのは、なかなか厄介だろうとおもわれます。そしてこうした事態を、たんに批判するだけでは有効性はないのではないか。この事態は止められないし、学校にも家庭にも、それを求めることはほとんど不可能です。できることは、せいぜいが、使用にあたっては場をわきまえること、過度にならないことを願うことくらいではないでしょうか。
 
その4、こうした事態に、学校教育が対応しきれていないという問題。
 はっきりいって、養護学校教員に、アスペルガーとか高機能自閉症の問題の重要性がどこまで認識されているか。早急に対応してほしい旨、滝川さんとのインタビュー集でも強調しています。とはいえ、わたし自身、このことを偉そうに他を批判できる所ではありません。高機能、アスペルガーなどに関心を持ち出したのは、退職する、つい2、3年ほどのまえのことだったからです。対象の生徒がいなかったという事情があるにせよ、です。

 お恥ずかしい限りですが、いわゆる自閉症の子に対して、一律ではなく、彼らの行動の様式や特性、こころのあり方をもっと重視した対応をしなければならないのではないか、と気づいたのは、教員になって10年も近くなってからです。ですから、わたしは山元さんの心中が、よく理解できます。まさにおっしゃる通りなのです。わたしが山元さんの場所にいないのは、ほんの偶然にすぎないと考えています。

(2)彼自身の家庭環境の問題
 経済的困難、お母さんの死、一家の「柱」だった妹さんの発病。こうした家族をサポートするシステムの問題。

(3)法と制度の問題
 ここにもいろいろな問題があり、ひと言では言えないのですが。思いつくままに上げてみます。

その1 起訴後の有罪率が、99.9%という数字は何を語っているか。
 しかしこの問題についての現状は「闇の中」であること。憶測しか、いまの段階では述べることができないのが実状です。

その2 起訴前の簡易鑑定(二時間で鑑定)の問題。そしてこの問題の実状を、わたしたちが知ることができないということ。議論の俎上に乗せるために必要な基本的情報をもっていないということ。

その3 精神鑑定それ自体の問題。つまり鑑定医が治療にあたらない。治療と鑑定が切り分けられていることに、問題はないか。精神鑑定とは「診断」ではなく、「診断」とはあくまでも「治療」を目的として行われるものであること。

その4 司法精神医学に携わる一部「有名精神科医」の見識の問題(拙著『精神科医を精神分析する』を参照していただけると幸いです)。

その5 「責任能力」という概念の問題。いわゆる従来の「責任能力」概念では、もう立ち行かなくなってきているのではないか。(「責任能力」というのは高度な司法判断で、わたしには大変難しいものですが)

その6 有罪となったいわゆる知的障害者や精神障害者が、どこまで治療の機会を与えられているか。医療刑務所が十全に機能しているのかどうか。

その7 措置入院、措置解除の問題。(法改正によって、この点がどうなったかは未確認ですが)。

その8 刑法それ自体の問題。あるいはその運用の問題。

などなど、これから取材を重ねながらと考えていきたい問題は山積しています。

8.この浅草事件の傍聴によって、何がわかり、どのようなことが疑問と思われていますか。

(佐藤) 分かったこと、学んだこと、考えさせらたことについてはこれまで書いてきたとおりです。疑問、どうしても分からないこと、いまも出てくる強い問いは、大きく次の二つです。

 ひとつは、なぜ彼が「一線」を超えてしまったのかということです。他人に攻撃などを加えることのない子だった。むしろ、やりかえすこともせず、一方的に、やられてしまう子だった。そう言われています。わたしの現場経験からも、そうした子は多くいて、とてもよく分かります。それなのに、なぜあのとき、包丁を取り出したばかりではなく、それ以上の行為に及んでしまったのか。彼に何が起こったのか。少しずつヒントめいたものは積み重なってはいるのですが、逆にそうそう簡単に分かるはずもないことだという思いもあります。

 もうひとつは、どうしたら「罪」というものが認識できるようになるかという点です。ある公判の際、「社会に出るより、刑務所にいるほうがいい」という主旨のことを彼が述べている、と弁護人が指摘していたと記憶します。この言葉には考えさせられました。

 「罪」も「罰」も、人並みの暮らしをしたい、社会のなかでふつうに生きたいという気持ちをもっているときに、はじめて機能するものだと考えます。だからこそ「罪」の重大性を認識することが必要なのですし、「罰」を受けることによって、その認識を自分のものにする、というプロセスが生じます。だとすれば、最初からそうした考えをあきらめ、放棄している人間にとって、「罪」と「罰」とはいったいなんでしょうか。彼が「罪」を認識するためには、まず彼にとって、社会が生きるに値するところだと思ってもらわなくてはならないということになります。

 どうすればそれは可能なのでしょうか。どうすれば彼は社会や人間への、そして自分自身への信頼を取り戻してくれるのでしょうか。とても難しいところです。難しいところではあるのですが、あきらめてしまうわけには行かないところだとも思います。具体的な方策は見えないのですが。


9.我々弁護人に対する期待は。 検事には。 裁判所には。
10.この人たちの刑事手続(捜査・取り調べ・弁護・裁判・刑務所)をどう思われますか。

(佐藤)ここはいっしょにお答えしたいと思います。
この事件は、今後の重要な判例となっていくのではないでしょうか。シロウトながら、強くそう感じます。

 社会が複雑化するにつれ、「異常行為・凶悪行為・衝動的行為−動機」という線が、なかなか見えにくい、という事件は増加傾向にあると言われます。旧来の「正常/異常」、「犯行−動機」という考え方では、ますます立ち行かなくなってくるのではないでしょうか。

 だからこそ、今回、従来の人権的人道的見地以上に、アスペルガー障害、自閉性の障害、という観点を出されたことの意義は大きいと考えます。誤解を受ける言い方かもしれませんが、これまでの「知的障害者の人権を守る」という以上の場所に、一歩出て行かれた。そうわたしは感じています。わたしがもっとも注目し、期待を寄せているのは、この意義の大きさゆえであり、今回の弁護は、いわば先駆的役割を担っているという感想をもっています。

 そのことを裁判所も「直感的」に感じているのではないか、とやや楽天的な期待を寄せているのですが、しかし、供述調書の証拠採用の見解などを聞くと、道はるか遠し、という感は否めません。検事等、取調にあたる側にも、精神医療的素養や観点が求められていることは確かだとわたしには思われるのですが。この「精神医療的素養や観点」というのは、拙著『精神科医を精神分析する』で批判した、やたらと「なんとか人格障害」であるとレッテル貼りをしたり、統計データをよく吟味しないまま、精神障害者や知的障害者が「社会にとって危険な存在」であるという偏見をばら撒くような、そうした「素養や観点」とはまったく異なることはいうまでもありません。よもや誤解されることは無いと思いますが、念のため付言させていただきます。

 しかしそれにしても、証人尋問に立った警察官(供述調書を取ったT氏)の見解には、警察はいまだ100年このかた変わらないことを、あいかわらず省みることなく続けているのかと、言葉を失いました。警察の全体的機能が低下していることは報道や著作で知らないわけではなかったのですが、実際の目の前で、堂々と話されるのを耳にしたことは、なかなか感慨深いものがありました。しかしそれが現状であることがわかったことは、逆によい勉強になりました。

 以上のような観点で、やがて一著としてまとめ、非力ではありますが、世に問うていきたいたいと考えています。これから、弁護士さんはじめ、多くの方々の、ご助力、ご指導をいただくことになろうかと思います。その節は、くれぐれもよろしくお願いしたいと存じます。

以上、お答えします。