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第33回ショート・ピースの会 
『刑法三九条は削除せよ!是か非か』(呉智英・佐藤幹夫共編 洋泉社新書y)レジュメ
                                      2005・1・23     佐藤幹夫


[1]本書の成立まで
(1)直接の動機・・・日垣隆氏『そして殺人者は野に放たれる』、宮崎哲弥氏 「刑法から三九条を削除せよ 狂っていようが、いまいが犯人は犯人」(「わしズム7」04・7)の仕事を目にしたこと。

(2)「三九条問題」を最初に考え始めたきっかけ 01年大阪池田小事件(「責任能力とは何か」樹が陣営22)。犯人は「精神病あるいは治療経験者は、犯罪をなしても罪に問われない」という誤てる信念の持ち主だった。
・ここでの問い・・・@「責任能力」とは何か、だれが判断するものなのか。A知的障害を持つ人びとは刑事手続きの中でどのような「調べ」や「裁き」がなされているのか。Bこの問いの背景にあるものは何か。

@について・・・二つの判断基準がある。起訴前(鑑定そして不起訴処分)と裁判所(裁判停止か無罪か)の判断。
・・・刑法典には「責任能力」は定義されていない。
・・・通常の「責任」概念と「責任能力」はどこが重なり、どこが重ならないか。
・・・それは定義できるものではなく、運用上の概念、実践概念なのではないか。

Aについて・・・同じ「責任無能力(心神喪失)」あるいは「限定責任能力(心神耗弱)」と呼ばれるものでも、精神病、覚せい剤中毒、知的障害(発達障害)では事情が異なっている。

Bについて・・・<猟奇犯罪、動機不明の無差別殺人、「わけの分からん殺人」=精神鑑定=心神喪失=不起訴あるいは無罪>。法や正義が「壊れている」。精神鑑定は信用できない(鑑定医は詐病を見抜けない)。こうした「獏とした空気」の中に置かれている。

(3)池田小学校事件以後。
@「心神喪失者等医療観察法」成立までの流れ・・・世論、マスコミの無関心。
<問題点>
a.統合失調症などの急性期錯乱や妄想による犯罪、薬物中毒者の犯罪と「反社会性人格障害」と類型される犯罪常習傾向を持つものの問題は混同されてはならない。
b.「再犯の恐れ」の認定の問題。
c.退院決定などの問題が懸念される(相変わらずの検察主導であり、この法律に乗せられると弁護士はほとんど救済措置を取ることができない。退院の判断に生ずる責任と長期拘束の恐れ)。
d.「人格障害」をどう治療処遇する(できる)のか。
(*以上詳細は「樹が陣営28」富田氏インタビューを参照)

A発達障害、とくに自閉性の障害、アスペルガー障害の人びとを、従来の「責任能力論」にあてはめることはできるのか。
a.障害そのものが犯罪の直接の原因とはならない。しかし「形式」面には影響を与える(特異な行動、こだわり、情動行為、他者性の欠如)。
b.従来の精神鑑定は「責任能力」の有無を鑑定。生物学的要因(診断)と心理学的要因(どう犯行に結びつくか)。しかし、責任能力の鑑定医上に、処遇をも視野に入れた「情状鑑定」(生活史をチェックし、犯行の背景となった要因を洗い出し、処遇につなげるための鑑定)が重要なのではないか。(*「樹が陣営28」高岡氏インタビューを参照)。
c.彼らにとっての「責任」とは何か。
・従来の研究や取り組みは「行動の調整及び修正」という方向で進められてきた。(行動が良い方向に修正されることで賞賛や承認の機会を得ることができ、それは自己価値を上げることに通じる、自己価値が上がることは自身の言動に「責任」を持つようになるのではないか、という仮説に立ってきた)
・彼らの反省や謝罪、贖罪の感情をどう汲み取り、「責任意識」と見なすことができるか(大変に拙いかたちでしか表現できない)。
(*「樹が陣営28」滝川氏インタビューを参照)

B有期刑となる多くの知的・発達障害者の問題。
a.「逮捕・拘束―取調べ―裁判」において障害特性がまったく無視されたまま刑事手続きが進行する。あるいは取り調べる側が無知であるという問題(情報交換、スペシャリストの要請)。
b.「拘束」が弁護士なしで22日間可能であるという非近代性。
c.取調べが自白偏重であり、供述が絶大な証拠能力を持つこと。そのため取調べが「密室性」をもち、「温情を売りつける信頼関係」により調べに終始すること。(取調べの可視化)
(以上は、本書副島氏の論文及び浜田寿美男氏の仕事を参照)。

C精神鑑定の問題。特に簡易鑑定の問題が大きさは、司法精神医学内部からも指摘されている。・・・信頼性をどう回復するのか(*「樹が陣営28」高岡氏インタビュー、林幸司氏論文など参照)

D「刑法」とは何か。耐用年数を過ぎたのではないか(明治40年に制定。幾たびか改正)、という指摘をどう考えるか。

E刑務所などの処遇施設の貧困。ほとんど「再犯防止」の役を担いえていない。(一般の犯罪者の再犯率が五割を越す)

[2]再び日垣氏の立論へ
(1)日垣氏の主張・・・処遇施設、三九条の拡大解釈と濫用、条項そのものの差別性
【処遇施設が皆無である】
a.「無罪放免」ではなく適正な処遇施設を。
【拡大適用してきた司法界の暴走】
b.覚醒剤犯罪者への鑑定判断と司法処罰の杜撰さ。
c.責任能力判断の曖昧さ。精神鑑定はむしろ「害毒」であり、心神喪失を大量認定した。
○「なぜ泰斗たちが心神喪失概念を暴走させてまで加害者を守り、被害者に鞭打つ言動を続けてきたか」(p101以降)。
「犯罪者と患者の混同。精神科医は医者ではあるが鑑定する以上司法家である。法律家の精神医学的無知と、精神科医の法律的無知による混乱」。
「犯罪被害者への配慮の伝統的欠如」。
「精神分裂病=心神喪失説を広げた医師が東京帝大医学部出身者だったこと(分裂病と犯罪の不幸な出会い。刑事処遇施設の不在)」。

【三九条そのものの問題】
d.心神耗弱は即削除を。
e.法文の文言そのものが曖昧で「罪刑法定主義」の体をなしていない。
f.「刑法三九条がなぜ理不尽か」
「凶悪犯罪がなかったことにされてしまう」「被害者にとって犯人の心神がどのようなものかはどうでもいい」「定義を与えておらず、制限も与えていない。そのことで暴走を許してきた」。
g.各国条文からは削除されるかもしくは限定された文言となっており、時代錯誤の差別条項である。

(2)日垣見解に対する私見
@処遇施設の開設、整備という指摘には賛成。

A「心神喪失・心神耗弱」の拡大解釈と暴走という指摘に対しては肯うことができるし、こうした問題を顕在化させた氏の功績は認めたいと思う。
○しかしそのことが三九条削除という主張の根拠となるかどうか。またしてよいかどうか。日垣氏のロジックへの危惧。氏の論法は、マイナス要因のみを列記して三九条の不都合を指摘するというものである。反対のマイナス要因(知的障害者の刑事手続きの問題)は不問に付されている。

B三九条の問題と犯罪被害者の問題。
○被害者感情を三九条削除の根拠とすることはできないのではないか。しかしまた犯罪被害者が二重に孤立してしまう(存在・実存としての孤立と司法における孤立)という現状が一方にはあり、そのことへの関心が払われてこなかったという日垣氏の指摘には賛同する。
<存在として孤立>・・・情報が閉ざされる、あくまでも「犯罪被害者」という記号として遇され、個人の苦しみ、固有の苦しみが理解されない

a.被害者が「情報を知る権利」を保障する道はないか。保障制度(物理的支援)や心理的支援を確立していく。
b.「犯罪被害(者)」とは何か・・・人間存在のもつ二つの本質への侵害(世界は秩序があり、意義深い場所であるという信念。自分は自律している、だれにもコントロールされていないという信念。この二つが著しく侵害され、それは犯罪の大小にはかかわらない)
<司法における孤立>刑事犯罪とは国家に対する侵害であり、司法手続きから疎外されてしまう。参考人であり証人。
c.単に物理的制裁を加えるための司法(応報刑)から、被告人の責任や贖罪を探る教育刑へ(あるいは司法の裁きそのものが被害者支援へと通じてゆく司法へ)。

C三九条条項は差別条項か。(保護と差別)
a. 日垣氏ほか小谷野、宮崎、佐藤直樹各氏とも同見解。この「平等意識」を彼らの世代の知識人に特有のもの、と言いたいところがあるが、これは言いすぎか。保護とはむしろ差別であるとする「新自由主義的平等観」であり、一律に自己決定・自己責任を求めるあり方に通じていくものではないか。
b.「裁判を受ける権利」・・・冤罪の場合、氏の指摘する通り無罪を主張する機会が奪われることにはなる(本書にて浜田氏も指摘)。しかし一律に言うことはできない。統合失調症への誤解、先入観への「異議申し立て」という意図を汲み取る必要はないか(本書で佐藤が指摘)。

[3]本書について
(1)近代と刑法・・・佐藤直樹氏の削除の根拠(橋爪大三郎氏とどこがどう対立しているのか)
a.「近代的人間観=理性をもつ個人」というフィクションへの違和、あるいは限界の露呈(呉智英氏)。「理性/狂気」という二分法は成り立たない、ボーダーがなくなってきているという主張(直樹氏)。
b.「由緒正しい精神障害者の誕生」「社会と刑罰の二重の排除」(直樹氏p40)
〈bについての私見〉近代は、権利の保護が差別と表裏であり、保護の対象はどんどん分節されていく(差別の対象が次々に生み出され、ソフトに排除されていく)という宿命をたしかに持つが、この指摘だけでは物事の反面の指摘にとどまるのではないか。
c.「刑法はないよりいい、応急措置であり、バンドエイドのようなものだ」(橋爪氏の見解)

(2)精神鑑定の問題
a.浜田氏の指摘する原理的困難を抱え持つこと。
b.小谷野氏の指摘する非科学性の問題。
c.副島氏の指摘する「責任能力鑑定」から「訴訟能力・受刑能力」の鑑定へシフトすることの重要性、さらには「処遇論」へ。
d.佐藤の指摘する、司法と医療がコンベンションをどうつくり、どう社会的信頼を回復していくのか。
e.「反社会性人格障害」として精神医学化することの問題と、治療の必要な精神病犯罪者の問題が混乱されていないか(滝川氏、佐藤が指摘)。

(3)「心神喪失・心神耗弱」といっても、精神障害、知的障害、発達障害(アスペルガーなどの自閉性の障害)、薬物中毒、人格障害の問題の問題など、それぞれに固有の問題がある。
〈私見〉直樹氏のいう「わけのわからん犯罪」をもっと微細に見ていく。「障害」の指摘が、刑の減免のためにのみ主張されるのではなく、更生や処遇を視野に入れてなされるものであるという、司法(と司法精神医学)に共通了解をつくっていく。

(4)刑事手続きの問題
(5)処遇の問題
a.林氏の指摘する、刑事罰と治療を備えた刑務所治療はなぜ「悪」で、病院治療のみがなぜ「善」であるとされているか。(この見解は滝川氏の見解と矛盾しないように思えるがどうだろうか)
b.処遇施設の充実を。
(6)社会にとっての安全と社会防衛の問題(滝川氏の指摘)
(7)被害者の問題

(8)「三九条削除」になったとしたら
a.すべての事案が起訴されるということは物理的に不可能であり、ありえない(起訴便宜主義による不起訴、起訴猶予は残る)。
b.「医療観察法」に乗せられていく方向(起訴前の鑑定は残っている)。起訴されたうえで精神鑑定という方向(裁判停止となった場合、医療観察法に乗せられる。あるいは有罪判決となる)。
c.いずれにしても「取調べ」の問題、有罪率99パーセントという現行刑事裁判の問題、「精神鑑定」の問題、刑務所・医療刑務所など処遇施設の問題は残る。

[4]まとめとして・・・単に三九条それ自体の是々非々の議論ではなく、大きな布置のなかで考えていく。
(1)何が問題なのか・・・三九条そのものに問題があるのか、制度や運用など、具体的手続きに問題があるのか。
(2)社会の安全とはどのようにして果たされるのか。
(3)ノーマライゼーションとはなにか。
(4)社会がどんな方向に進もうとしているのか。

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