那珂湊(水戸湊)の、昔日のレトロな街並みへ、タイムスリップ

  日本全国の、戦災を免れた・古い街並みの残る町々は、観光資源・町おこしとして、原形のまま残る古建築物を・保存・解体修理したり、崩壊寸前の古建築物を・大改修して・復元したり、外見を現代的に改装してしまった古建築物を・トタン看板や新建材の覆いを取り払って・本来の姿に戻したり、電線や電話線を地下に埋めて・美観を損ねる邪魔くさい電柱を撤去したりと、まるで時代劇のオープンセットか・テーマパークの如くに復元し、わざわざ人力車を復旧させたり、大々的に観光宣伝したりと、競い合って、脚光を浴びて居ます。

  それに反比例して、全国の小京都や小江戸に勝るとも劣らない立派な町並みや土蔵を多数残して居た・我が故郷の那珂湊(水戸湊)は、郷土民謡や郷土芸能や祭礼などはしっかりと保存・継承して来たのに、古い町並み・豪商宅・網元宅・土蔵・西洋館などの保存意識は殆ど無く、私が小・中学生だった昭和40年代の情緒深い町並みも土蔵群も西洋館も、今では大半が取り壊され・無個性な現代住宅や駐車場や道路にその姿を変えてしまい、例えば小江戸・川越の蔵造り商家の前を祭りの山車が通過する写真や、水郷・佐原の古い町並みを祭り山車が通過する写真や、小京都・飛騨高山の古い町並みを祭り屋台が通過する写真やらと同じような背景では、那珂湊の祭り屋台の写真やビデオを撮れなくなってしまった事は残念でなりません。

  那珂湊(水戸湊)の、今は無き豪商宅や土蔵群や西洋館の写真を・子供の頃から撮り続けておいて本当に良かった(それらを背景にして撮ったお祭りの写真集も。)、今となっては貴重な記録映像と情緒・懐旧の源です。

  那珂湊(水戸湊。)には、他の古い都市と同様に、江戸時代には大火が幾度かありました(享保年間の・玄宝屋火事やら、天保年間の・六四郎火事やら、と。)。

  しかし、最も甚大な被害(水戸藩随一の繁栄を誇った、立派な市街地が、殆ど丸焼け。)に遭ったのは、幕末の、1864年(元治元年。)の、歴史上に残る悲劇の・水戸藩の内乱である「天狗党の乱=元治甲子の乱=おさわぎ」(その2年後の、1866年=慶應2年の、豪商宅・土蔵の打ち壊し事件数件も。)でした。
  が、奇跡的に、「おさわぎ」にも焼け残った、江戸時代の豪商宅・網元宅・土蔵も、点在して居りましたし(例えば、水戸藩一の豪商・木内家の土蔵群=現在の「ふるさと懐古館」など。)、その他の・難を逃れた建築物も・つい最近まで・ちらほらと残存して居りました。

  水戸藩一の経済力を誇った(水戸藩内で最繁昌の地・最繁栄の地と称され、人口も水戸城下に次ぐ多さだった。)・那珂湊(水戸湊)の人々により、幕末〜明治〜大正〜昭和初期(戦前。)には、すっかりお見事な街並みや土蔵群や西洋館が復興して居ましたし、奇跡的に・第二次世界大戦の空襲を逃れた(1945年=昭和20年に。那珂湊沖から、米国の艦隊が、那珂湊の上空を通過させて、勝田の軍需工場へ向けて、艦砲射撃を実施した際も、流れ玉・こぼれ弾が、那珂湊にも数軒に落下して、炎上したのみで済んで。)幸運と、長い戦争の末に・日本は敗戦国とはなったものの、那珂湊は被害を免れたので、早くも敗戦の翌年(1946年=昭和21年8月。)には、和田町が年番で、1941年=昭和16年以来・実に5年振りに、盛大に、天満宮御祭礼(那珂湊八朔祭り。夏祭り。)を、本祭りにて実行致しました。

  そのまま、湊の由緒ある街並みが無事であったなら、今頃は、多分、「歴史的建造物群指定地区」になって居て、素晴らしい観光資源(水戸藩ゆかりの史跡や、神社仏閣と共に。伝統の夏祭りや、変化に富んだ海岸線や、レトロなローカル鉄道の湊線や、おさかな市場とも、相乗効果を発揮して。)となって居た事でありましょう。

  が、折角、奇跡的に戦災を逃れたのに、敗戦から僅か2年足らずにして、1947年=昭和22年の4月末には、明神町から出火し、価値ある貴重な市街地の大半(約3分の2。)を、焼失してしまうと言う、信じ難い惨事・悲劇に見舞われてしまいました(幸運にも戦禍を免れたのに、戦災に匹敵する被害に遭ってしまった、悲劇に。)。

  しかし、焼け残った3分の1余の街並みは・立派なままでしたし、焼失地区内でも・土蔵だけは焼け残ったり、たまたま角店(二方は道路で、もう二方は土蔵に守られて。)だったので・無傷で焼け残った古建築も散在し、昭和40年代〜50年代までなら、少しずつその数を減らしたり、現代的に表面を改装してしまったりしても、まだまだ那珂湊には(本通りだけではなく、碁盤の目状の・幾つもの通りがあり、路地も多かったので。)、何とも言えない・個性的で・情緒深い・味のある・古き良き時代の面影を残す、レトロな、それはそれは立派な街並み(豪商宅、網元宅、土蔵群、西洋館、看板建築、遊郭や花柳界の遺構など。)が残って居りました。

  しかも、その中には、何と、天狗党の乱にも、太平洋戦争の2年後の大火にも、両方共、難を逃れたと言う、古民家が十数軒や・土蔵が数十軒も残って居りました。

  これらの歴史的遺産も、昭和末期〜平成へと、急激な時代の流れで、忽然として次々に姿を消して行き(誰も、それらの価値に気付かぬまま、放置して居たのか?保存運動も、観光資源としての再活用もなされぬままで。ひたすら、破壊のみの、間違った方向で。廃都化に拍車をかけるのみで。)、里帰りをする度に・故郷の情緒の欠如・喪失に落胆し(市内各所の・お寺や墓所だけは、殆ど古いまま残って居ますが。物心ついた頃以来、心象風景として、半永久的に存在するものだと信じて居た、湊の象徴的な古建築物群が、次々に消えて行き、まさか・・・・・・・・・・と、大ショックを受けつつ。)、ほぼ諦めかけて居た処へ、更に追い打ちをかけての・2011年=平成23年(昭和なら、86年。)3月に発生した・東日本大震災(巨大地震と、津波。)とにより、もはや那珂湊(水戸湊。)の栄華を証明する建築物は・皆無(ほぼ全滅?)に近い状態になってしまいました。

  まさか、私自身が、小・中・高・大と、湊の旧市街地を散歩しつつ、スナップしておいた、これらのアルバム集を、こんな形で公表する日が来るなんて、思っても居ませんでした。
  それらに加えて、私の先祖や、親族が、保管してあった古写真も、少々の役に立ってくれました。

  私の脳裏にはしっかり鮮明に焼き付いて居る・古建築でも、その写真を一枚も撮って居なかった物や(うっかりして。まさか、こんなに短期間に、こんなに沢山の、古建築物群が、その個性的かつ立派な姿を、一気に消失するとは思っても居なかったので。)、私が生まれるより遥か以前の「大火で焼ける前の、○○屋さんは、今残って居たら、凄く価値が出て居た筈の、立派さだった。」などと、身内や・親族や・町の古老達から・伝説としてのみ聞かされて居た、写真でさえ見た事の無い・名建築などに関しては、「貴重な、お宝写真。」をお持ちの方がいらしたら、是非、スキャナ版を提供して頂いて、充実・完成させたいものだと、そのように考えて居ります。

幕末の「おさわぎ」(1864=元治元年。)で、土蔵(天保8年作。母屋・離れから・直接出入り出来る・文庫蔵。仲通りの上側の店舗の向かい側から、仲通り下側・下通り・浜通り迄、
商品保管用の蔵がずらりと並び、
川沿いには、持ち船「稲荷丸」があった。)以外を全焼したが、
幕末〜明治維新までには、立派に再建し、その後の戦災にも・那珂湊の大火(1947=昭和22年。)にも焼け残り、
1966=昭和41年に・土蔵以外を・鉄筋コンクリート造りのピルに新築してしまうまで、三町目仲通りの角地(豪商・木内家の隣り。)に、実在して居た、この名建築。

これが、那珂湊(水戸湊。)の栄華を象徴・代表する、古建築の典型例の中のひとつである(この他にも、ごく最近まで沢山残って居た。)。
三町目・仲通り・角地の、廻船問屋・「梅権」(梅屋・照沼権十郎。)邸宅の威容。

鉄道交通の発達により、海上・河川交通が衰退後は、廃業し、何本か上の通りの・元町へ・お稲荷様を持って・移転・新築し、蔵は大谷石で建て、呉服商へと商売替えした。
その呉服商も廃業後で、お稲荷様と・大谷石の蔵以外は、現代的住宅に建て直してしまった。

この建物は、「梅権」が建て、1898=明治31年からは、「湊商業銀行」として使用され、同銀行が「常陽銀行・湊支店」として、三町目・本通り・角地へ移転後は(昭和の初頭に。)、
「藤本外科医院」が買い取って、営業を開始した(1966=昭和41年に、鉄筋コンクリート造りのビルに改築後も、天保8年作の・裏手の文庫蔵は・現存する。)。
もし、この建築物(土蔵も含む。)が、現存して居たなら、国の重要文化財指定は、間違いなかったことであろう。

ちなみに、この旧「梅権」宅の、土塀や母屋の板張りの素材は、余程の資産家でないと・室内の・天井板としても滅多に使用出来ない、杉の柾目板を、
風雨や潮風にさらされる・外壁に・惜し気も無く・存分に使用して居たと言う点で、驚きの的でもあった。


文庫蔵の箱棟も、他家の物は・白漆喰仕立てで・鉄の輪をあしらうのが・通例だが、
豪商・木内家(大黒屋)の文庫蔵と、隣接する・この「梅権」の文庫蔵とは、鬼瓦も巨大だが、
箱棟には・白漆喰仕立ての上に(前面・表面に。)・本瓦の・半円形の・青海波をあしらうと言う、贅沢さの極みであった。

那珂湊(水戸湊)の豪商達の、建築や土蔵や、夏祭りや、墓所に関しての、この見栄の張り方は、
水戸城下を凌ぐ勢いであった(献金額も、水戸城下や、水戸太田=常陸太田の、何倍もの巨額であった。)。
明治30年頃に、三町目仲通り(廻船問屋。)から、
元町へ移転・新築して、
呉服商へ商売替えした、「梅権」呉服店(照沼家。)。
お稲荷様は持って行き、蔵は大谷石の物を建てた。

これは、1977=S52・8月の御祭礼で、元町が年番で、
祭典事務所になった際の物。

下の写真は、1981=S56・8月の夏祭り時の物。

この建物も、現在は無く、現代的住宅に新築後である。
現存する、文庫蔵。夏の姿。珍しく雪が降った日の、冬の姿。
1977=昭和52年1月23日は、平野部・海岸部なので・滅多に雪が降る事の無い・那珂湊が、珍しく・うっすらと雪景色に。
高校の卒業試験と、大学受験とを、目前に控えながらも、ガリ勉して居る・同級生達とは・全く別の行動を取り、
ひたすら郷土愛に燃えて、撮影会に歩き廻る、呑気な私であった。


湊御殿山公園(水戸徳川家の・お浜御殿跡地。)から望む、当時は・瓦屋根だらけの、那珂湊の市街地の・雪景色。
南主水町、「柏屋」さん(斉藤家。)。
明治中期の建築。
醤油醸造業のち、銘菓「水戸の梅」の「あさ川」那珂湊店に(水戸の本店ビルより、風格があり。)。

母屋は現役。
裏手の醤油醸造蔵6棟+倉庫数棟は、取り壊して、月決め駐車場化。
御殿山中腹の、時の鐘。
幕末〜維新時の物。
御殿町、「大丸屋」(大曽根家。)本店(乾物商。干し芋の総元締め。)横の路地と、支店(米穀商。)。
明治30年の建築。
一町目・本通り、廻船問屋「油作」(油屋・乾作衛門。)の、
江戸時代後期建築の・文庫蔵。

母屋・離れは、「おさわぎ」後に新築。

文庫蔵・離れは、長谷家(煙草製造業。)が、
母屋は、「大利本店」(宮崎家。)が、買取後。
一町目・本通り(1977=S52,1,23,少積雪。)。

手前から、廻船問屋「油作」(油屋・乾作衛門。文庫蔵は江戸後期。建物は幕末〜維新時。のち、「大利本店」の新宅に。)。

海産物問屋・刻み昆布製造業の元締め「大利本店」(大黒屋・宮崎利七。)。文庫蔵は江戸後期。母屋一階は・「おさわぎ」にも残った・江戸後期、表二階は・明治初期、
裏二階(和洋折衷。)は・大正期。

「佐野屋支店」(佐野屋呉服店・川上鶴之助。明治20年代の作。のち、結城より移転して来た・製糸業だった、飯島漁業に。)。

二軒おいて、二町目・本通り、「佐野屋本店」(川上弥介。明治10年の作。)、煙草製造業者のトップ、のち金物店に。

そのまた向こうは、「油利」(元・廻船問屋、油屋・乾利八。幕末〜維新時。)、などと、
焼け残った豪商宅(店舗・母屋・離れ。庭。門。)と土蔵とが、ずらりと居並ぶ、壮観な風景。

今現在は、格子戸&木の雨戸&飾りガラス窓&障子をアルミサッシに、木目の町屋造りや・土蔵造りを・新建材やトタン張りに、財力の象徴である・鬼瓦や箱棟を・平屋根にしてしまって、
土蔵も壊して・駐車場にしてしまって、本通りの左右に4〜5軒ずつのみが残る程度で、
連続した街並みは既に無く、飛び飛びの「歯抜け状態」になってしまった。


一町目・本通り、「大利本店」(宮崎利七家。海産物問屋・刻み昆布製造業の元締め。大工場は、別所、小川町に。)。

文庫蔵は、江戸後期の物。
店舗・母屋・離れは、幕末・明治・大正の物。
この数年前に・既に表面を格子戸造りからアルミサッシに変えてしまい、黒塗りの土蔵造りの上に新建材を貼ってしまい、
左手の門の・さらに左手にあった・白塗りの土蔵6棟中5棟を壊して・駐車場にしてしまった、
旧「佐野屋支店」(川上鶴之助家。呉服店。)。のち、大塚家(飯島漁業。)が所有。

明治20年代の建築(店舗・母屋・離れ、庭、門、土蔵群、共に。)。
現在は、空き地、広大な月決め駐車場に。
ここまで巨大な土蔵造り店舗は、川越にも無かったのに、残念無念。
巨大な鬼瓦、威圧感のある箱棟、防火壁の「うだつ」。
二町目・本通り、「佐野屋本店」(川上弥介家。煙草製造業者の、トップ。のち、金物商に。)。

明治10年の建築。
この時点では、完璧に旧態を保って居たが、土蔵だけは、鬼瓦・箱棟を平屋根にしてしまい、トタンで覆ってしまった後の姿。

その後(平成10年代。)、母屋の格子戸をアルミサッシに、母屋と門の鬼瓦・箱棟を平屋根に変えてしまい、
さらに東日本大震災(2011=H23。)により、土蔵は全壊・消失。
二町目・本通り、「佐野屋本店」の正面、
野上家(塩の元締め。)。

幕末〜明治初期の作。
土蔵は、平成になってから壊してしまい、
母屋の鬼瓦・箱棟も、平成十年代末に、平屋根に。
二町目・仲通り、三町目・仲通り角地の「梅権」の斜め前、
専属の抱え芸者多数を有した・木造三階建ての・料亭「芸多満楼」(矢吹家。)。
明治期の建築。
二町目・本通り〜仲通りにかけて、
三町目の・「梅権」と「大黒屋総本家」(木内家。)の向かい側。

明治16年の建築。
旧「仙台屋」(高岡平衛門。海産物問屋。)、
のち、大正初期からは、「大利支店」(宮崎家。)。
水門町、「糀屋」(湯浅家。酒糀製造業。)。
幕末〜維新時の建築。
三町目・仲通り、旧「梅権」(照沼家。)、「湊商業銀行」後、
「藤本外科医院」の、文庫蔵(天保8年の、棟札。)。
三町目・本通り〜仲通り、
水戸藩随一の豪商・御用商人、
木内兵七家(大黒屋・総本家。)の、
母屋(大正期。)、文庫蔵(享保の大火後の物。天保期の絵地図にも鮮明に描かれて居る。)、
大土蔵(文庫蔵と同時。)=現「ふるさと懐古館」。
木内家・母屋。正面玄関。大正末期説と、昭和8年説とあり。 木内家・文庫蔵(江戸時代後期、享保以降の作。)。非公開。
三町目、木内家(大黒屋・木内兵七家。)・文庫蔵(上蔵。)。
江戸時代後期(享保の大火後の作。天保年間の絵地図に、既に描かれて居る。那珂湊では、現存する・最古の土蔵。)。


その古さ・立派さ・丈夫さ・規模など、茨城県内に現存する土蔵群では、ぶっちぎりの首位で、関東地方でもトップクラス。
木内家・大土蔵(下蔵。材木蔵。出入り口3つ。文庫蔵と同時の作。既に天保年間の絵地図に、鮮明に描かれて居る。)。
現「ふるさと懐古館」。

これよりやや小型の・新蔵(天保の絵地図にも登場。出入り口2つ。)は、1947=S22の大火により、惜しくも焼失。

これらとは別に、海産物などの倉庫は、仲通り〜下通り〜浜通りにかけて、二列ずつ存在した。

その古さ・立派さ・丈夫さ・規模など、茨城県内に現存する土蔵群では、ぶっちぎりの首位で、関東地方でもトップクラス。
三町目の本家だけでも、8〜10棟もあった、豪商・木内家の土蔵群は、明治・大正・昭和初期には・主要な4棟のみとなり、
さらに1947=S22の大火により・2棟を残すのみとなった訳だが、
最も古くて・立派で・貴重で・主要な2棟が残ってくれたのは、奇跡的な・幸運・強運である。


その古さ・立派さ・丈夫さ・規模など、茨城県内に現存する土蔵群では、ぶっちぎりの首位で、関東地方でもトップクラス。
1980=S55,8月。
早大4年生の、夏の里帰り時の、古民家群を背景に、自分の姿も入れて見た(古民家と人間とのサイズとが判るように。)物。

湊御殿山公園から、市街地を望む。
御殿町、「大丸屋」の路地にて(水戸黄門様ゆかりの、大井戸前。)。
だいぶ土蔵も古民家も減って行き、、
格子戸をアルミサッシに変えてしまい、上質の木目の壁面や土蔵造りの塗り壁の上から新建材で覆ってしまったりの古民家が多くなってしまったものの、
まだまだ本体の軒数は残って居た当時である。


一町目本通り、「大利本店」〜「佐野屋支店」前にて。

身長173cmの私に比べて、これらの古建築物群が、いかに巨大で・立派で・重厚で・圧倒的な存在感があったかの、証明写真である。
土蔵の鬼瓦を縮小化し・箱棟を平屋根にし・白壁をトタンで覆ってしまったのが残念だが、
総構えと、母屋・門などは、明治10年の建築当時のままの姿を完全に保って居た当時の、
二町目本通りの、「佐野屋本店」前にて。
南主水町、「柏屋」(「あさ川」)前にて。
醤油醸造蔵6棟中、半分を壊して駐車場化しても、まだ蔵や樽が残って居た頃。
三町目、豪商・木内家の、土蔵群の前庭にて。

那珂川対岸の、祝町遊郭(元禄8年に、徳川光圀公=水戸黄門様が、水戸城下・下町・藤柄町より、移設。)の名残りの前にて。
まだ「常陸那珂流通港湾」の工事が始まる以前の、白砂青松の・弓なりの・美しい・阿字ヶ浦海岸にて。
磯崎漁港にて。
磯崎〜平磯間の、岩礁地帯(国の天然記念物、中生代白亜紀層。)にて。
磯崎の丘の上の、酒列磯前神社(懸魚の・リスと葡萄の彫刻は、左甚五郎作。)拝殿前にて。

大洗磯前神社と、同格で、一対をなす、格調高い・古い神社。




















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