ご近所の名所旧跡 …のページ


○ 松阪は山間部台地の縄文遺跡・水田の地下からあちこち発掘される弥生時代の遺跡に始まる
  長い歴史を持ち、我が家のご近所の宝塚古墳からは日本最大の『舟形埴輪』が発掘されています。
  また、旧市内の城下町は戦災などの被害を受けておらず旧跡が多く存在します。

○ 地理的には伊勢湾の海岸平野から紀伊半島の屋根 台高山地まで変化に富んだ地形であり、
  各所に隠れた名所と呼ばれる所があります。

○ このページでは私の独断と偏見で選んだ『名所・旧跡』を暇に任せて紹介したいと思いますが、
  いつ更新されるかも、またいつ完結するのかも予想出来ませんので気長にお付き合い下さい。

○ 当面は下の地図、私の日々の生活圏内から始めたいと思いますが、この地図は2004年11月
  現在のものです。
  水色の部分が現松阪市域で、間もなく周辺郡部と合併して水色の境界線が消えることになります。


  @八雲神社    A庚申さん    B宝塚古墳群    C本居宣長奥墓    D伊勢おはらい町



 @ 八雲八柱神社


 まずは手始めに我が家から徒歩25歩の場所にある
 『宮さん』からです。

 村の鎮守の神様で、私が子供の頃近所の子供たちと
 日が暮れるまで遊んだ場所です。




 祀られている神様は右の石碑の通り。

 この他1段上がった山の上に『浅間さん』 『山ノ神』

 『埴安媛乃命(はにやすひめのみこと)』と、神仏混交
 時代の名残りの 『大日如来』
 『行の行者さん』など
 が祀られています。




 A 庚申さん


 宮さんから徒歩20歩、村の入り口に建つ庚申塚です。
 これまた昔の子供たちが、宮さんでの遊びの合間に
 お供えのお菓子を頂くところでした。

 以前は土と石垣の祠でしたが、いつの間にかコンクリ
 ートで固められてました。

 松阪近辺では『ナギの庚申さん』の名で知られており、
 長寿と健康にご利益があるとかでお参りの人が絶え
 ません。
 


 こちら、ナギの庚申さんの名のもとになったナギの大木
 の洞に祀られているのは実はお地蔵さんです。

 私が子供の頃にはすでにこの姿で、この木の樹齢が
 どの位なのかは誰も知りません。


 こちらが庚申さん。
 格子に付けられているのは赤い布で作ったさるです。

 松阪の人ならご存知、猿はじきのさるです。
 飛騨のさるぼぼにもよく似てますね。
 最近作る人が少なくなったのか、奉納される数が少ない
 みたいです。




B 宝塚古墳群


 我が家から西に3km程の所に国指定の史跡宝塚
 古墳があります。

 数年前、日本最大の舟形埴輪が出土したことで記憶
 しておられる方も多いと思います。

 私が小学生の頃は低学年の遠足コースでしたが、
 今は住宅地の中に残された公園として整備が進んで
 います。

  
写真は拡大できます。

 詳しい情報は松阪市のホームページ


 上の写真の小高い丘の頂上にある宝塚1号墳です。
 右が後円部、左が前方部になります。

 全長100mを超える前方後円墳は伊勢地方最大で、
 大和朝廷との密接な繋がりが考えられるようです。

 写真は最近復元された『造り出し』と呼ばれる部分で
 何らかの祭祀に使われた場所とされています。
 葺き石や円筒埴輪の様子がよく判ります。
 
 

 こちらは1号墳と道路を隔てて隣接する2号墳です。

 『帆立貝式古墳』という型式ですが、残念ながら前方
 部は道路によって削られています。


 宝塚に連なる台地状の丘陵には他にも各地に古墳が
 残されており、昭和初期までは80基を越す古墳群を
 なしていたといわれる宝塚も、現在は開発により破壊
 された結果3基を残すのみとなっています。



 古墳ついでに、こちらは我が町に残る三重県指定の史跡
 『久保古墳』です。

 我が家からも見える木の生い茂った丘ですが、直径50メ
 ートルの二段式円墳で、伊勢地方で最大・最古の円墳と
 されています。

 宝塚古墳の時代より古く、4世紀頃の豪族の墓のようです。

 直径23cmの『三角縁神獣鏡』が出土しています。




C 本居宣長奥墓(おくつき)


 歴史の教科書でもお馴染みの国学者本居宣長の墓は
 松阪市内の樹敬寺とここ奥墓の二か所にあります。

 場所は宝塚古墳の南、山室(やまむろ)の山中です。

 宣長は神道式の墓を望んだらしく、死の前年に自らの
 葬式次第や墓の構造・場所まで指示していたそうです。

 参道は、林道脇の駐車場から杉や桧のうっそうと茂る
 谷を登るため、写真が見ずらいですがご容赦下さい。

 また、お出かけの際はしっかりした靴をご用意下さい。
 


  石段の参道をしばらく登ると、妙楽寺の境内に出て
  視界が広がります。

  周囲に人家はまったく無く今は無住の寺ですが、
  整備されており静かな山寺です。

  奥墓への参道はここから本格的に始まります。 
  昼なお暗い樹林の中を15〜20分の山登りです。

  なお、先日の豪雨で途中の道が崩壊している箇所が
  あるので、要注意です。


 
  参道は次第に山道になってきます。
  このあたりは市によって『ちとせの森』遊歩道として
  整備されており見所も多いので、手頃なハイキング
  コースとしてもおすすめです。

  ちなみにこの谷をちょろちょろと流れる川が、我が家の
  前を流れる『金剛川』の源流に当たります。
  


  山頂はまばらな樹林ですが、明るく広々とした所です。
 
  この墓は宣長本人によって、死の半年前に作られた
  もので、正面の『本居宣長之奥墓』の文字は自筆です。
  
  墓石の後ろの塚に宣長は眠っており、その上には彼
  の遺言どおり山桜が植えられています。
  斜めに伸びた幹が山桜なのですが、これは明治30年
  頃に植えられた2代目とか。非常に背が高く花を見る
  には双眼鏡がいるそうです。

  『敷島の大和心を人問わば 朝日に匂ふ 山桜花』

  
     写真は拡大できます。


  近くに立つ説明看板です。拡大できますのでクリック
  してください。

  私が小学校の遠足で来たとき見たのは、右の写真の
  様な墓でしたが、平成13年に、造られた当時の姿に
  復元されたようです。
 
  改正墳墓図というのは、宣長が作った奥墓の設計図 
  です。
         
写真は拡大できます。


  立派な石段や石垣は明治時代、ここに『山室山神社』
  が造られた頃に付け加えられたものだそうです。
  上の写真と比べてみてください。

  私が小学校の遠足で来た頃は、背後の高台から
  松阪の市街が見渡せたように思うのですが、今は
  木が茂ってしまったのでしょうか。
  宣長の時代には、遠く富士山まで見えたことがある
  そうです。



D 伊勢おはらい町



  隠れていない名所かもしれませんが、伊勢神宮の
  門前の古い歴史を持った町で、地元の人やマイカー
  での参拝者には、浦田駐車場から続くこの通りはお
  馴染みの風景です。

  観光バスやタクシーは神宮前・宇治橋の駐車場に
  直行することが多いようですが、時間が許す限り
  伊勢の名産や食べ物屋さんが軒を並べるこの通りの
  散策をお勧めします。

         写真は拡大できます。
  


  町並みは、新しい建物も違和感無く整備されており
  落ち着いたたたずまいです。

  こちらは某銀行の建物。


  公共の建物も同じく白木造りで統一されています。

  郵便局です。


  伊勢名物といえば、こちら『赤福』が全国区でしょう。

  創業は宝永四年、メニューは『赤福』餅のみ。 ・・・
  ですが、地元の人は毎月初めの限定品 『朔日餅』
  (ついたちもち) を楽しみにしています。

  この他伊勢名物としては、伊勢うどん・生姜糖・さめ
  のたれ・・などがあります。

  赤福の隣の薬屋さん(写真奥)も古くからの隠れた
  『伊勢土産』でしょう。

  
 
  昔、伊勢参宮が徒歩だった時代、日持ちのしない
  食べ物よりも和漢薬を求める人が多かったようです。

  軽くて帰りの道中の安心にもなる、『萬金丹』 『百毒
  下し』 が有名ですが、こちらでは他に『御岳百草丸』
  奈良大峰名物『陀羅尼助丸』 などの懐かしい薬も
  扱っています。

  また、子供向けの『伊勢玩具』もいまや隠れた名産
  品かも知れません。

  


  赤福の裏には清流『五十鈴川』が流れています。
  初詣など混雑時にこの川岸の道は価値があります。

  橋を渡った対岸は、『神宮司庁宇治工作所』と神宮
  神域の森です。
  宇治工作所内の銀杏並木は、地元でも隠れた名所
  のようですが、私は入ったことがありません。

  神路山を越えて朝熊山『金剛証寺』へ参詣する
  古い登山道はここから始まります。
 


  赤福の正面には、10年ほど前赤福によって整備
  された 『おかげ横丁』があります。

  こちらははメインの建物、芝居小屋 『おかげ座』です。
  内部は、『おかげまいり』を紹介するテーマ館になって
  います。

  江戸時代末期、日本の人口の5分の1が伊勢の地に
  押し寄せたといわれる 『おかげ参り』 を詳しく知る 
  ことが出来ます。
 


  そしておはらい町の通りは、伊勢神宮宇治橋の
  大鳥居前の広場になります。

  ここから先はあまりにも有名な場所ですので、
  他の紹介をご利用下さい。

  
  


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