笑い
これには人を幸せにするという効果がある。うけてもうけなくても。
笑いには3通りある。1つは、人が持っている常識にしたがい、こうしたら面白いという潜在的なもの。
これは、たとえば、志村ケンのコント。
彼は尊敬している人の一人だ。
彼の笑いには、常識とは違った人物、流れ、そして、物事をギャグにしている。医者のコントとか。
2つめは、発想の笑い、えっ、何でどこから来たんって思わせる笑い。
ダウンタウンのコント(キャッシー塚本etc)で松っちゃんが見せる笑いは自分の常識を超えてやってくるいわゆる天才だ。
天然ボケもこの系列に入る。天才とあほは何とかってやつ。
3つ目は、これはおもしろいというより、分かるものにとっては面白く、分からないものにとっては面白くなく、むしろ不愉快な気分にさせる笑い。それが、共通認識の笑いだ。
これは、たとえば、同じ境遇ですごしている家族。
ちょっとしたインスピレーションでも面白く感じる。というか伝わってくるものがある。
例えば、兄が、僕がお風呂洗いを拒んでやろうとしないときに一言、「死ぬぞ。」という。これを言われると少し笑ってしまう。
まー、アクセントの仕方とかでも伝わり方は違うんだろうが、この言葉が笑いにつながるには、いくつかの条件を満たさなければならない。
その中には、兄の性格、これまで兄弟のなかで交わされた話し、起こった背景、あと、北斗のケンを読んでいることなどが含まれる。
これらは、友達との間でも、存在する。
僕とプノペの間では、裏ケン、たわみなどのキーワードは笑いに結びつく。
しかし、それが笑いに結びつかない四不像は何がおかしいねんって不愉快になる。
漫才とかでも同世代にはうけるけど、年配にはうけないとかってあるよね。それらも、同じ理由からだ。
ということで、あの人はおもしろいのにあの人はおもしろくないというのは、その人の考え方が分かるかどうか、自分の器はどこまでかに結びつく。逆に、レベルが高いのは、始めの2つの笑いで、誰にでもできるというものではない。
一行目に書いたが、笑いというのは、人を幸せにするものだから、人を傷つける笑い、馬鹿にする笑いなどは笑いとは言えない。
いえないことはないが、言いたくない。笑いとは、もっとすごい、崇高なものである。
だから、人の欠点や特徴のあるところを笑いにするときは、本人が気にするようであればやめてあげよう。
例えば、よくしゃべっていうるときにかむ人とかにそのつど突っ込むとか、
しぐさやアクセントの付けかたがおかしいときに笑いにもっていくときとか、
あっ、全部自分がやってる。
でも、これは、本人別に気にしてないからいいか。
そうだよね、プノンペン?