「無線ヲタ」をめざして アマチュア無線は生涯つづけるつもりです。

個人のアマチュア無線の歴史と感想を記載しました。多少批判的な意見もありますが個人的な感想です。

1973年
昭和48年 
当時 インスタントコーヒーのテレビCMでアマチュア無線局が「そちらの香りが匂ってきますよ」と一言言うCMを見て私も無線がやりたいと思ったのである。確かCMにはコリンズかドレークのRIGが使われていた気がする。そこで通信教育講座に入り勉強することになった。小学生の私にはちんぷんかんぷんで内容があまり理解できなかった。親に連れられて蒲田にある電子工学院(今は名前が違う)まで受験しに行ったのだが見事「不合格」。人生初めての挫折感を経験する。 
 1974年
昭和49年
 だがここであきらめてはいけない。何事も継続が大切である。大きな本屋で電話級ハムの問題集と教科書(グレーの表紙)を買って主に問題集の答えを暗記する方法で内容は理解できないところがたくさんあったが小学生高学年なので日本語は読めたので丸暗記に徹した。合格したらRIGを買ってくれると親と約束していたので少し気合いが入った。年に2回しかない試験だったので一度落ちると半年勉強しなければならなかった。蒲田まで一人で行き、2度目の挑戦で「合格」した。このとき「なんだ、簡単じゃないか、何でこの前落ちたのか不思議な気がした。」 ここで通信教育の教科書を理解しようとするよりも丸暗記でOKだと気づいた。人生丸暗記も大切なことに気がつく。
1975年
昭和50年 
 早速 秋葉原の万世橋近くにあった九十九電機(今はない)でトリオのTS520Xと、ルソー(今はない)のLA154(21MHZモノバンド4エレ八木)とローテーター他諸々を購入した。アンテナのエレメントはねじ式ではなくアルミをへこませて固定させる方法だったので一度エレメントの長さを間違えると二度と使えないという、今考えると恐ろしいアンテナであった。2階の屋根の上にルーフタワーを上げた。TS520は真空管式のRIGのためプレート電圧等の調整、スタンディングの調整でスイッチを入れてから変調を出すまで数分必要であった。また、当時、合格してから従事者免許が手元に来るまでなんと半年かかっていた。今考えると超ムカツク事である。公務員の親方日の丸の仕事ぶりに腹が立つ。従事者免許が来てからすぐに局免を申請してもさらに3ヶ月以上待たないと局免が来ないのである。その間クラブ局のコールサインを借りてとりあえず開局したのである。このころはサンスポットの最低時期だったのかDXはほとんど聞こえずEスポによる国内QSOを楽しんでいた。たまに韓国やフィリピンやUSSRが聞こえるくらいだった。やっとコールが来たときは免許を取ってから1年近くたっていた。
1976年
昭和51年 
 ナショナルから発売された50MHZ機RJX601というハンディー機(ハンディーとはいってもばかでかい)を購入し高いところに上って東京や神奈川の局と交信し楽しんでいた気がする。もちろんHFも楽しんでおり、この年に電信級の免許を取得した。
 1977年
昭和52年
当時CQ誌の「売ります、買います」欄に載っていた中古の自立タワーを、親を説得して買ってもらい庭に立てた。25メーターのタワーは上から見ると非常に高く感じ、ふるえながらアンテナを設置した記憶がある。アンテナはTET(つぶれた)社製の2エレメントHB9CV 28メガモノバンドである。それと同社製の21MHZのスイスクワッドアンテナを上げた。この会社のアンテナは非常に飛びが良かった。お気に入りの会社であったが、なぜつぶれてしまったのだろう?。 
 1978年
昭和53年
 千葉の高台に位置するロケーションに加え30Mの地上高は10Wでも十分にDXが楽しめた。段々サンスポット数も多くなって来た時期でもあり英語も学校で習っており、英語をしゃべるのが楽しみであった。DXをやるために英語を勉強していたような気がする。DXで使う色々なフレーズ、イディオム、センテンスを紙に書いて冊子にしてRIGの前に置いていた。また必死で聞き取ろうとすると知らぬ間にヒヤリング力も養われた。DXで英語力の基礎を身につけたと今確信している。
 1979年
昭和54年
 朝早く起きて、学校へ行く前にアメリカ方面へビームを向けて28MHZのSSBでCQを出すとアメリカからパイルアップ。アメリカのノビス級(4級ハムのような資格)の局がわんさか出ていたが、当時28MHZでDXをやるJA局は少なかった。遅刻ぎりぎりまで楽しんで、急いで学校に行っていた。部活を終え、夜の7時ごろ家に着くとすぐにスイッチを入れヨーロッパ方面へ向けてCWでCQを出す。USSRとEUからパイルを受ける。フェードアウトするまでひたすらトンツー。ただ、SSBは10WではEU方面はかなり厳しかった。この時期にDXをやられていた局なら誰でも体験しているのではないだろうか。「I am sorry , I have to go QRT」 一度は言ってみたいフレーズでしょ。USSRの局はソ連製のRIGしか使用していなかったので独特の変調を発していた。CWもまた同じで、すぐにソ連だとわかった。今は日本製を使っている局が多くこのころの変調を出す局がいなくなったのは少し寂しい。またソ連のQSLカードは金太郎飴のように同じで、レーニンだかスターリンだかわからないが、彼らの肖像にソ連の赤い国旗のデザインが多くコールサインだけスタンプで,QTHもろくに記載されていないのが半分以上であった気がする。
 1980年
昭和55年
 学校で使っていた地図帳でDX局の位置を必ず確認しDX局に地理的なことを質問しまくった。その甲斐あって今では職場一の「地理おたく」として名を馳せている。たとえば「ああ、ロードハウ島ね、オーストラリアとニュージーランドの間にある島でしょ。」と何気なく言う。するとなんだこいつスゲーな、という顔で私を見るのである。「ああ、マヨット島ね、モザンビークとマダガスカル島の間にあるやつね。」と簡単に言う。なんで知っているの、とよく聞かれるが「地理を勉強したからさ」とだけ答えている。今までの積み重ねで世界地理に関しては職場1の「地理おたく」に成り上がった。
 1981年
昭和56年
 段々無線をやる時間がとれなくなりQRT状態なっていく。長い人生必ず、こういう時期があるものである。
 1982年
昭和57年
 実家から離れていたので無線ができない状態であった。が得意の暗記手法で2級アマチュア無線技師の資格を取得。色のついた問題集を徹底的に暗記した。すべて記述式問題であったので今の1級よりむ難しいと思うよ。記述式で取った2級を500W制限にしてくれないかと思う
 1983年
昭和58年
 実家を離れるため心配なのでタワーを完全におろしてアンテナをはずしJARLにも入会せず完全QRT。
 1984年
昭和59年
 このころは「合コン」に夢中で遊びまくっていた。もちろん勉強も一応やったけど。体育会の○○部であったので授業はあまり出席できなかったが「合コン」だけはほとんど皆勤であった。あれは 忘れもしない初めての「合コン」での出来事。女の子に「趣味は何?」と聞かれたとき「サーフィンとアマチュア無線」と答えた。するとその子は「やだー、もしかして盗聴とかしてるのー?、やらしー」 女の子は「アマチュア無線=盗聴」ぐらいの感覚でしか見ていないことに気づき、それ以来「合コン」では無線の話は一度もしたことがない。いや、いまでも若い女性がいる飲み会では絶対無線の話はしないようにしている。結論から言うとアマチュア無線は若い女性から見るとただの「オタク」やろうだとしか思われていないのだ。
 1985年
昭和60年
 何が「キングオブホビー」だっ。人前で堂々といえない趣味なんて寂しい限りである。が、男で無線をやっているやつとは、みょーにすぐ意気投合するのはなぜだろう。お互いに「おたく系」の血がながれている人種として見ているのかもしれない。
 1986年
昭和61年
 若い女性にとって趣味が「パソコン」の人よりも「アマチュア無線」の方が「危ない人」らしいのである。
 1987年
昭和62年
しかし私は無線が好きなのである。だから外ではあまり話をしないがQRT状態であっても電車の中からタワーを発見すると「こいつHFのトライバンダーでばりばりDXやっているな」とか、「7MHZのロータリーダイポール新しいじゃん」とか自然と条件反射的に見てしまう。 
 1988年
昭和63年
 この時期、仕事で千葉県勝浦市のリゾートマンションに住むことになった。がけの上に立っているマンションは海が一望でき休日の朝、窓から海のコンディションを確認し、サーフィン、ウインドサーフィンに熱中していた。近くに御宿や鴨川といった日本で有名な海があり、冬でも暖かかったが2月、3月は水も冷たく海に出る回数が減った。
 1989年
平成元年
 そこで思いついたのが無線であった。段々「無線オタクの血」が騒ぎ出したのである。ロケーションもよくアンテナが設置できればかなり飛ぶのではないかと思い実家にあるTS520Xを100wに改造して、アンテナをベランダに設置した。21.28.50MHZの2エレHB9CV(JACOM社製)。もちろん回すスペースはないので南南西へ向けたままである。がコンディションが悪い時期でありDXはあまりできなかった。
 1990年
平成2年
 仕事が忙しいこともあって夜の10時頃に、たまにCQDXを出す程度であった。たまに南アフリカだけオープンした。南アと勝浦の相性がとてもよく南アの局が何度もCQを出しているのをなぜ日本の局は呼ばないのかと不思議に思っていたことが何度もあった。日本の「ファーイースト」は、まさに勝浦市なので、おそらく勝浦エリアしかオープンしていなっかたのだろう。
 1991年
平成3年
 JARL発行のコールブックに電話番号を載せてしまったら全国のアマチュア無線家から7MHZに出てくれといった電話が数多く入った。話によると勝浦固定の局は当時ほとんどでていなっかたようでJCCハンターにとっては欲しい局であったようだ。そこでDPを休みの日にこっそりと張ってサービスをすることにした。幸いここのマンションは常に住んでいる住民は5世帯程度しかなく後は会社の保養施設や個人のセカンドハウスとして利用されていたのでQRVするときだけ黙ってこっそりとアンテナを張ってQRT時に片付けていた。
 1992年
平成4年
 7MHZは「周波数チェック」をしてもなかなか空きがなく苦労した。しょうがないから出ている局を呼んで周波数を譲ってくれるのを期待してQSOをしたりした。そういう局は、まれであった。仕方ないので多少かぶっていても強引にCQをだしたりもした。ものすごいパイルを毎回受けた。7MHZはいつもQRMがひどくQSOが疲れるのである。いやがらせのビートなどもすさまじく私には合わないバンドであると実感した。7MHZをメインで運用している人は私の感覚からすると驚きで感心します。そこで電話のかかってきた局だけスケジュールを組んでサービスをすることにしたのである。私には28MHZののんびりした雰囲気が一番合っているのである。
 1993年
平成5年
この年から転勤で千葉市に住むことになりモービルにTM441Sを積み430MHZにだけ出るようになった。この時期だと思ったが、職場の無線仲間からJARLの永久会員が20万に上がるのでその前に永久会員になるよう進められ,永久会員になった。これで生涯払わなくてすむと安心していたら制度が廃止になりJARLに「うそつき、金返せ」と言いたい。いい加減な経営をしているからだよ。経営責任をとるやつが誰もいないし、おかしなことである。素朴な疑問なんだけどJARLの偉い人は、よく海外のHAMのイベントに行っているけど自腹なのですか?JARL再建のための提案をひとつ。JARLニュースはすべてweb上に流し廃止する。これだけで黒字でしょ。印刷業者とのしがらみがあるのか知らないけど実行してみてはどう?それができないのであればカード転送会社を独立させてJARLと別にする。そうなればとっととみんなJARLを退会してカード転送だけをお願いするでしょう。理事さんの仕事って何?JARLの理事に対して契約違反の裁判ってできないの?誰か詳しい人教えてくれない?何百人集めれば裁判の費用も折半ですのでやる価値あるのでは? 
 1994年
平成6年
 またサンスポット数が増えるころにHFのアンテナをあげようと思い久しぶりにCQ誌を買ってリグ、アンテナを研究した。勝浦のマンションはバブルの頃、借金で購入したのであるが、今は貸家として人に貸している。購入価格の3分の1以下の価値しかないマンションであるが、最近借り手も少なくなり1年間空き屋の時もある。そういうときはポータブル運用で勝浦に出かけてQRVするときもある。たまに行くと新鮮である。特に7MHZは勝浦に住んでいるときは、いつもビートをかぶせられるのであまり出なかったが移動だとQRVする気になるのである。
 1995年
平成7年
 タワーは実家を離れるとき降ろしてしまって使えないので実家(千葉市花見川区)の屋根にルーフタワーをあげるしかないと思い計画を練った。ボーナスが出た時、とうとう買ってしまった。購入機種はTS690SAT、今はなき秋葉原のトミヒサという店で買った。私が過去に買った店はすべてつぶれたので疫病神かもしれない。次はロケットで買っちゃおうかな。アンテナはミニマルチのHX52A、14.18,21,24、28にQRVできる変な形のアンテナである。これは通信販売で購入した。
 1996年
平成8年
 690は520に比べるととても使い勝手がよくスタンディングもボタンひとつで自動調整、パワーも申し分なく出るし小型で軽い。さすがケンウッド。HX52Aは14MHZはまったくだめだが、それ以外はなかなよしっていう感じ。特に18MHZは飛びがいい気がする。18MHZに出るのが初めてなので比較するものがないが18MHZはなかなか気に入っている。がどのバンドもインターフェアが大きな問題である。LPF CMFなどで対策しても、どうしても電話の子機、やCDアンプにインターフェアが入るのである。今でも悩んでいる。受信側にコアを入れたりしても完全には除去できない。何かいい対策があったらどなたか教えてください。
 1997年
平成9年
 私はワッチが苦手でいつもCQを出している。一時間ずっとCQの連呼のときもある。「CQ AND STANDING-BY」のあとワッチする瞬間がとても楽しみなのである。
 1998年
平成10年
 珍局から呼ばれたときの胸の高まりが好きなのである。私の記憶では、アフリカの「コートジボアール」、「マリ」、「ザンビア」から呼ばれたのが一番かな。
 1999年
平成11年
インターネット、携帯電話が普及している現在、局数もかなり減っているような気がする。430MHZも空きチャンネルだらけ。車についているアンテナを見かけるのもまれになってきている。 
 2000年
平成12年
 ただHFでの移動局は以前よりかなり増えている気がする。また、平日の日中からQRVしている年配者らしき局長さんも多くなってきているようだ。平日、仕事を休んでペディション局を追いかけても結構パイルになりそうな気がする。
 2001年
平成13年
 アマチュア無線をやっている人はおそらく100%コンピュータを持っているであろう。「PCおたく」と人種的にダブルところがあるような気がする。私もHPを作っているぐらいだからPCは扱える。最近秋葉原は「電気おたく」ではなく「アニメおたく」が増殖しているような気がする。地方の皆さん久しぶりに秋葉原に来て人間観察をしてみてはどうですか。自称「無線おたく」の私から見ると少しカラーの違う人間が増えてきているので違和感を感じます。
最近
デジタルデバイドという言葉があるようにPCができなければ仕事ができないこの時世、アマチュア無線をやっているせいかPCも抵抗感なくスムースに扱えているようだ。
 2002年
平成14年
 パケットクラスターは便利ではあるがすぐにパイルになってしまいパイルになると1KW局には太刀打ちできず、「ジャパーーーーン」とわめいても無駄で「やーめた」になってしまう。CQを見つけて「ラッキー」という優越感が得られにくくなった。ワッチの苦手な私にはメリットのほうが大きいがワッチ派の局には天敵かも。
 2003年
平成15年
 サンスポットの下降期のこの時期にとりあえず1級の免許を取った。これでパワーだけ「ジャパーン」に対抗できる。昔の記述式の2級のほうが難しかったような気がする。いまだにリアクタンスとインピーダンスの区別がつかない私でも暗記で取れてしまうなんて・・・。こんな簡単な試験で1KWが許可されるなんていい世の中だ。落成検査をパスするためのインターフェア対策グッズをヤフーオークションで集めたのだがACラインフィルター(RFインクワイアリー製)を9500円で落札したところ通電しないではないか。中をあけてみると真っ黒にこげていた。JA1のOMさんだから信用して購入したが見事にやられてしまった。同じ無線仲間でも悪いやつはいるものである。文句を言おうと思ったがこれで家に火でもつけられたら馬鹿らしいので泣き寝入りすることにした。無線をやっている人間は必ずしもいいやつとは限らない。
 2004年
平成16年
 サンスポットの低い時期ではあるが3月末に熱海市の山中へ移動してポータブル運用をした。アンテナはサガ電子工業の釣竿型Vダイポール リグはTS690SAT(一応50W運用)。標高400M近いので南米が59プラスでがんがん入ってくる。そこで14MHZで得意のCQを連発したところ南米と数十局交信、珍局でVP8(フォークランド諸島)2局、ZD7(セントヘレナ島)から呼ばれたのだ。しかもラバースタンプではなく1局20分ぐらいのラグチューQSO。これこそがDXの醍醐味という感じかな。QSOを終えた後は珍しい局なのに誰一人呼んでこない。珍局のシグナルは54〜55であったのでおそらく他局は聞こえないのだと思われる。勝浦市に住んでいるときも似たような現象を何度も経験したのでナローエリアオープンであったのだろう。勝浦や熱海は日本の中でもファーイーストなので地球の裏側に一番近いのか相性が非常にいいようだ。
 2005年
平成17年
 家のリフォームのため屋根のアンテナをおろし完全QRT状態となる。クラスターを見ているといかに悪いコンデションかよくわかる。次のサイクルまで休憩中。リフォームと言ってもかなりの大規模である。そこでこれを機に無線環境もグレードアップしようと計画中である。

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無線を通じて勉強になったことを赤色で記してあります。
今後も赤色が増えることを期待しています。皆さんよろしく。
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