魔導の書〜第二章〜
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王宮を目指して、都市の地下に張り巡らされている下水道を歩くアイーシャとエアリー。
いつしか二人ともすっかり口をつぐんでいた。
先程の巨大ネズミとの戦いでの不甲斐なさに、呆れるのを通り越して怒りすら感じていたからだ。
かの大魔導師が眠る地下迷宮において、アイーシャもエアリーも凶悪な魔物と繰り返し戦ってきたはずだった。
それなりに自信はあったはずなのに、あの体たらくである。
アイーシャにしてみれば、盾となって護ってくれるホムラがいないことで、魔導の書に集中できなかった。
またエアリーにしてみれば、ラウドがいないので戦いでケガを負った時にすぐに治療をしてもらえないという不安があった。
常に行動を共にしていた仲間が欠けるというのが、これ程自分たちを不安にさせるとは・・・
しかし、いつまでも落ち込んでなどいられない。
ラウドを奪還するという戦いは、まだ始まってすらいないのだから。
「アイーシャ、道が分かれてる。どっちかな?」
それまでの重い雰囲気を打ち破ろうと、アイーシャへ振り返って笑顔を見せるエアリー。
まさに天真爛漫とも言えるエアリーの明るさに、アイーシャも救われる思いだった。
「ここを右に曲がるともうすぐ王宮みたいだな」
「右だね。よしっ、行こうか」
「ああ」
たったそれだけの会話のやり取りで、ずいぶん気が楽になったと感じるアイーシャだった。
しかし。
「あっ・・・」
思わず声を飲むエアリー。
「どうした?」
「見て。通路が水浸しだよ」
エアリーがランプを掲げてみせるとなるほど、それまで乾いたレンガの通路が見えていたのだが、前方はレンガが見えない程に水が被っていた。
「どうする? このまま強行突破って手もあるけど」
エアリーが水の中に片足を入れてみると、くるぶしの辺りまでが沈んでしまった。
更にもう一歩進むと、今度はすねまで水に浸かってしまう。
「待てエアリー。そのまま進むのは危険だ」
「えっ?」
「水の下がどうなっているか分からない。穴が開いて急に深くなっているかもしれないぞ」
「そうだね」
エアリーが水から引き返す。
「うえへ、びしょ濡れだよ」
気持ち悪そうに靴を振るエアリー。
アイーシャにしても、出来るなら靴やドレスを汚したくはなかった。
水の中を強行突破など、自ら進んでやりたいとも思わない。
「ならどうしよう? 他の道を探してみる」
「いや、ここの先すぐに王宮の敷地に入る。回り道も面倒だな・・・よしっ、あれを試してみよう」
言うやアイーシャは魔導の書を開き、発動式を読み上げていく。
エアリー自身は魔法は使えないが、アイーシャの口から流れる発動式の韻律はある程度耳馴染んでいた。
しかし今アイーシャが読んでいる発動式は、まったく聞き覚えのないものだった。
果たしてアイーシャはどんな魔法を使うつもりなのか・・・
エアリーはじっと魔法が発動するその時を待った。
やがてアイーシャの口から静かに「リトフェイト」という言葉がもれた。
それと同時に。
「あっ、あれ?」
「よし。どうやら成功したらしいな」
困惑するエアリーと、魔法の成果に満足するアイーシャ。
「これ、どうなってるの?」
「浮遊の魔法だ。我々の身体をほんの少しだけ浮かび上がらせた」
「ホントに?」
エアリーはその場でピョンピョンと跳ねてみた。
しかし着地する時の衝撃がまったく感じられない。
じっと立っているだけでもふわふわと落ち着かない、何とも奇妙な感触だった。
「すごいね。魔導の書って何でもできるんだ」
「さすがに万能というわけではないだろうが・・・この魔法はちょっと驚きだな」
アイーシャ自身初めて使う魔法である。
正直成功するかどうか不安でもあったのだが、こうしてうまく行ったとなると、魔法を扱う者としてはしてやったりであった。
「これもひょっとして?」
「ああ。いわゆる『裏の魔法』だ」
リトフェイトは魔導の書の一覧に掲載されていない魔法であった。
それをアイーシャが最近の研究で解析したのである。
「クソジジイめ。何故こんな便利な魔法を一覧に加えなかったんだ?」
アイーシャがクソジジイ呼ばわりするのは、地下迷宮の奥深くで今も眠り続ける大魔導師である。
古代魔法を研究し魔導の書を執筆した人物であった。
実際、アイーシャたちが修業を重ねた地下迷宮には、落とし穴などの罠が仕掛けられている箇所もあったのだ。
もしも浮遊の魔法を使えていたなら、それらの罠を無傷で乗り越えられたはずである。
それを思うと悔しいのだが、過ぎたことを言っても始まらないだろう。
「まあ良いじゃない。今こうして使えるようになったんだからさ」
「そうだな。これで水の上も歩けるようになっているはずだが」
アイーシャがそっと水面に一歩を踏み出す。
するとブーツは水に沈むことなく、水面すれすれのところで浮かんでいた。
「大丈夫みたいだね。それじゃああたいも」
エアリーも水の上へと進み出るが、やはり身体は沈まなかったのだ。
「うわあ、おもしろーい」
「うむ。これはなかなかのものだな」
二人とも水の上を歩くというのは生まれて初めての体験である。
しばらくはその感触を楽しんでいたのだが、今は遊んでいる場合ではない。
「よしエアリー、行こう」
「うん」
二人は水に沈んだ通路を王宮に向けて歩き出した。
通路の水没部分は、それ程長くはないらしい。
ランプの頼りない灯りではあったが、かろうじて向こう側の乾いたレンガも見えていた。
距離にして30メートル程だろうか。
多少は慎重に進んだとしても、数分も掛らずに突破できるだろう。
浮遊している感覚にも慣れ、一歩一歩確実に前へ進む。
しかし水没部分の半分を過ぎ、残り数メートルという所まで来た、その時だった。
「えっ?」
「ナニ!」
まるで階段を踏み外した時のような、足元がつんのめる感触。
踏み出した足が水面で留まらず、そのまま水の中へと突き抜けていったのだった。
次の瞬間。
ザブンと大きな音を立てて、アイーシャとエアリーは水の中へと沈んでしまう。
「ど、どうしたのさ!」
「一体何が・・・?」
幸いなことに、そこはせいぜい腰くらいの深さだった。
これなら溺れる心配もないだろう。
見るとアイーシャのドレスのスカートが水面に浮いて開き、まるで花が咲いたようにふわふわと漂っている。
しかし今はそんなことに気を取られてなんかいられないだろう。
水面を歩いていたはずが突然水の中である。
これにはエアリーはもちろん、アイーシャも呆然とせざるを得なかった。
しばらくしてアイーシャがはたと気付く。
「そうか、持続時間だ。持続時間が短いからクソジジイは一覧に掲載しなかったんだな・・・」
「持続時間? それってすぐに効果が切れちゃうってこと?」
「その通りだ。こんな風に水の上を歩いている時に突然魔法の効果が消失してしまっては、安心して使えないからな。なるほど、これは実用化にはまだまだ研究が必要なわけだな」
ふむふむと、妙なところで感心しているアイーシャだった。
「もう、そんなことは良いから、早く水から出ようよ」
エアリーがランプを振って催促する。
「そうだな。いつまでもこんな所にいても仕方ない」
「うん、もう少しだから頑張ろう。はい、アイーシャ」
エアリーがアイーシャへ、ランプを持つ手とは反対側の手を差しだしてきた。
「何だ、この手は?」
「アイーシャってばそのスカートじゃ歩きにくいでしょ。だから」
「そうか。すまん」
エアリーの手を取るアイーシャ。
そのまま二人で手を取り合って、何とか水没した通路を突破した。
「うえへ、靴とかびしょ濡れだよ。気持ちわる〜」
「まったくだ。酷い目に遭ったな」
靴やスカートなどの衣服はもちろんずぶ濡れ。
そして二人とも口にはしなかったが、下着も濡れてしまいじっとりとした感触が何とも気持ちが悪かったのだ。
替えの下着などもちろん用意などしていない。
このまま我慢するしかないとなると、どうにも気が滅入ってくる。
それでも二人掛かりでアイーシャのスカートを絞り、少しでも水気を落とす。
腰の周りにまとわりついていた重さが取れてようやく一息付いたところで、アイーシャがふと思い出した。
「そういえば、よくランプを水の中に落とさなかったな」
「うん。とっさに手を上げてたよ」
エアリーの反射神経の良さにはつくづく感心させられるアイーシャだった。
「アイーシャは、魔導の書は濡らさなかったの?」
今度はエアリーが聞く。
「ふっ。魔導の書はたとえドラゴンの吐く炎を浴びたとしても焦げ目ひとつ付かないからな。水に濡れたくらいでどうこうなる代物じゃない」
アイーシャが差し出した魔導の書を見ると確かに。
水を被ってはいるもののそれを玉にして弾いていて、書面が濡れるというような事にはなっていなかった。
「へえ。やっぱり凄い本なんだねえ」
「まったくだ。それ故に、まさか浮遊の魔法の効果が途中で切れるとは思わなかったな」
「そうそう。あれはまさかだったよねえ」
アハハと笑うエアリーに釣られて、アイーシャも思わずふっと笑みをこぼすのだった。