魔導の書〜第二章〜
18
スクライルと戦った部屋を抜けるとまたしばらく一本道が続いた。
やがて先頭を行くホムラの前に、広い空間が開けた。
「とうとうここまで来たか」
聞き覚えのあるしわがれた男の声がアイーシャらを迎えた。
黒いローブを纏い、フードとマスクで顔を隠したあの男の姿がそこにあった。
「ビクトル大臣! いや・・・キサマ何者だ?」
アイーシャが誰何の声を上げる。
その声は氷のように冷たく鋭いもので、初めて聞くソニアなどは思わず背筋がぞくりとふるえるほどだった。
何者かが大臣に成り済ましているであろうことは想像が付いていたが、まだその正体については分かっていなかった。
だが、もうこれ以上くだらない詮索など必要ない、この場で敵の正体を暴いたほうが早いだろう。
「良いだろう」
黒いローブの男がフードを脱ぎ、マスクを外した。
「び、ビクトル大臣・・・?」
それは魔物の顔などではなく、予想外にもソニアのよく知るものであった。
ビクトル大臣、その人の顔なのである。
「どうして・・・」
ソニアが大臣に近づこうと一歩を踏み出した、その時である。
大臣の顔がぐにゃりと醜く歪んだかと思うと、その身体から黒い靄のようなものが抜け出したように見えた。
そして。
バタンと大臣の身体が前のめりに倒れ、代わりにその場にいたのは同じように黒いローブを纏ったモノだった。
「きゃあ!」
ソニアが短い悲鳴を上げる。
それは本物のビクトル大臣の死に対してなのか、それとも大臣から抜け出たモノの姿を見たからだろうか。
黒いローブを纏ったモノの頭部は、やはり頭蓋骨が覗いていたのである。
「なるほど、大臣を殺してその身体に乗り移っていたのが、ようやく正体を現したというわけか」
アイーシャが詰まらなそうに吐き捨てた。
「死霊、あるいは死神といったところかな」
姿を現した敵を目の前にしても、ラウドの口調はいつもと変わらない。
しかしその表情には、ありありと怒りの色が滲んでいた。
「私の名はレイスという。君たちの考える死神のようなものと思ってもらって構わない」
大臣から抜け出た黒いローブのモノが名乗った。
「レイスと言ったな? ひとつだけ聞いておこう。今回の事件の目的、それは命の書と聖職者たちの抹殺。それで間違いないか?」
「おおむねその通りだ。命の書が人間の手に渡り、聖職者たちが力を付けることは、我々不死の眷属にとって好ましい事態ではないからな」
「それだけ分かれば十分だ。だが、その目論見はここで御破算にさせてもらうぞ」
レイスとのやり取りを終えたアイーシャが魔導の書を開くと、それに合わせてホムラやエアリーも戦闘態勢に入った。
ホムラは盾となってアイーシャの前に立ち、エアリーは短剣を抜いていつでも飛び出せるように姿勢を低く構える。
ラウドはまだ混乱している様子のソニアを保護し、後方へとさがった。
「待たれよ」
「何を待てと言うのだ? この期に及んで命乞いでもあるまい」
レイスの言葉にアイーシャが応対する。
その鋭い視線は常に油断することなく、レイスを見据えていた。
「お前たちの相手はこの男に務めてもらおう」
レイスが後方を向いて両手を掲げた。
するとそこには、巨大な門のようなものが浮かび上がったのだった。
それを見たホムラが愕然としながら震えた声を発する。
「俺は・・・アレを見たことがあるぜ」
「何だと? 一体何処で・・・そうか」
アイーシャもホムラの言わんとしていることを理解する。
「あれは私たちのいるこの世界と死者の世界とを繋ぐ門だな。ホムラは以前・・・」
「ああ。あの戦いで俺は一度命を落としたんだよな。その時だ」
「そうか・・・」
アイーシャにとっても、かの大魔導師の部屋での激闘の様子は生々しい記憶として鮮明に脳裏にこびり付いていた。
大悪魔が放った大爆発の魔法。
それから身を呈して護ってくれたホムラ。
そして起こったマハマンによる奇跡。
それらは、決して忘れることのできない記憶であった。
「開け、冥界の門」
レイスが厳かに命じると、巨大な門がゆっくりと開いた。
そして門の向こうから歩いてきたのは、鎧を纏った騎士だった。
「お父様!」
鎧の騎士を見たソニアが叫ぶ。
ソニアの言葉を受けて、エアリーとホムラも「あっ」と息を飲んだ。
「あれ、王様だよ。間違いない」
「ああ、だいぶ形相は変わっているが・・・な」
つい一か月程前、エアリーとホムラは騎士の称号を授与された時に、間近に国王に接していたのである。
「そうか、あれがパナソール国王か」
それに対してアイーシャは、遠目でしか王を見てはいなかった。
初めて間近で国王に接する機会が、まさかこのような形になろうとは・・・
「ねえ、どういうこと? なんで王様があんな門の向こうから出てくるのさ?」
「それは、だな・・・」
エアリーに聞かれてもとっさにその答えを導き出せないアイーシャである。
しかし、アイーシャに代わって答えたのは、他ならぬレイスだった。
「ふっ、国王は私自らが命を奪った。死者の肉体と魂を操ることなど、私にとっては簡単なことだからな」
「それで国王を私たちと戦わせる為に死者の世界から連れ出したと言うのか。何処まで悪趣味な奴だ」
「何とでもいいたまえ。私にとっては最高の褒め言葉だよ」
無表情のはずのドクロの顔面が、ニヤリと歪んで見えた。
「さあ国王よ。死者を忌み嫌い自らの生を謳歌するあの者たちが憎いだろう。存分に戦うがよい」
レイスがしわがれた声で屍と変じた国王を促すと、騎士は腰からすぅと剣を引き抜いた。
「お父様わたくしです。ソニアです。どうかお気を確かに。お父様・・・」
ソニアが懸命に亡き父の名を呼び続ける。
しかしその声は届いていないのか、パナソール王は剣を握り締めたまま、じりじりと間合いを詰めて来た。
「お父様ー!」
「いけない、ソニア」
ラウドの腕を振り切り、ソニアが飛び出した。
王とレイスの動きに注意を払っていたアイーシャたちも、ソニアの突然の行動に対応できない。
「お父様、ソニアです」
ソニアがパナソール王の目の前に走り出る。
しかし、目の前にいるのが自分の娘とも判断できないのか、パナソール王は剣を振り上げ、一気に振り下ろした。
「危ない!」
とっさにエアリーが飛び出すも間に合わない。
不浄な輩を退ける銀の十字架は、それを持つ者の信仰心に応じて秘められた聖なる力を発揮するという。
亡き父の変わり果てた姿を目の当たりにして心を乱した状態のソニアでは、十分にその力を引き出せず、加護の恩恵を受けられなかったとしても仕方ないだろう。
王の放った剣はソニアの肩口に食い込み、赤い鮮血がほとばしった。
「ソニアー!」
叫んだのはラウド。
ラウドがこれ程の声を上げたことを、長年の付き合いであるアイーシャですら聞いたことがなかった。
ドサリとその場に倒れたソニアを、エアリーが引きずって連れ戻す。
「見せて」
ラウドはエアリーを押し退けるようにしてソニアの身体を引き寄せると、傷の具合を確認する。
「かなり深いな。ディアルマで間に合うか・・・」
ラウドは命の書の第5ランクの魔法までしか使えない。
最も治療効果の高いディアルマでも、傷を完全に治療できるかは微妙なところだった。
それでもやらなければ、出血多量でソニアの命も危ないかもしれない。
ラウドが命の書を開いた、その時である。
「あっ」
命の書が眩く輝いたかと思うと、そのページが勝手にパラパラとめくれていく。
その光景は、ラウドも何度か目にしていたものだった。
アイーシャが魔導の書に新しい発動式を浮かび上がらせた時と、全く同じ現象なのである。
命の書が示したのは第6ランクの項、そこへ新たな発動式が浮かび上がる。
「こ、これは・・・」
ラウド自身も初めて目にする発動式である。
しかしそれは、治療師であるラウドが心の底から望んでいたものに間違いなかった。
「マディの発動式・・・これならいけるかもしれない」
究極の治療魔法として命の書の一覧にあったマディ。
その効果は大けがの治療や失った血液の増幅、更にはあらゆる毒素の中和など多岐に渡るという。
ラウドは片手でソニアの身体を抱きしめながら、新たな発動式を読み上げ始めた。
もちろん発動式が完成するまでには若干の時間が掛かるはずである。
パナソール王とレイスに対しては、ホムラとエアリーが剣を向け備えていた。
やがて。
「マディ」
発動式を読み終えたラウドが静かにその魔法の名前を告げた。
命の書から放たれた温かで清らかな輝きがソニアの傷付いた身体を照らす。
「ソニア、ソニア・・・」
腕に抱いた可憐な少女の名を呼ぶラウド。
それは単に治療師としてなのか、それとも大切な想い人を腕に抱く一人の男として、なのか・・・
「うっ・・・ラウド?」
ラウドの呼び掛けに答えるように、ゆっくりと目を開くソニア。
ぼんやりと視界に映っている男の名前を口にしていた。
「ソニア、良かった」
「ラウド、わたくしは・・・」
「今は何も考えなくて良いから。傷が完全に癒えるまで、もうしばらくこのままで」
「はい」
ソニアはラウドに身体を預ける。
その華奢な身体を抱き締めるラウドの腕に、わずかながらに力が込められたのだった。