魔導の書
9
地下迷宮から戻ったアイーシャたちは、酒場でテーブルを囲んでいた。
店の中はそれ程混んではいなかったが、寺院直属の魔導師とその一行の来店となれば、店主は店の奥の一番良い席を即座に用意してくれた。
日々、地下迷宮から何らかのお宝を持ち帰り、またバックに寺院という大きなスポンサーが付いているアイーシャたちは、金払いという点では店にとってもありがたい客だったのだ。
しかし、アイスドールと呼ばれるアイーシャの気性は、この店に出入りする者なら誰でも知っている。
他の客たちはできるだけ一行から離れた席に座り、なるべくなら関わらないようにと知らぬ顔をしていた。
地下迷宮でのミスで落ち込んでいるアイーシャにとっては、むしろ放っておいてくれたほうがありがたい。
そんな中。
「ささ、嫌なことがあったら飲んで忘れようよ」
「エアリー、君はもう飲める年なんだっけ?」
「うん、あたい16だって言ったでしょ」
エセルナートでは、飲酒は16歳からと決まっていた。
もっとも、そんな決まりを律儀に守っている者などほとんどいないのだが。
「16になればお酒もタバコもオッケーなのさ。それに結婚だってできるんだよ。あたいももう立派な大人だよ」
「なるほど。そう言えばそうだったね。それじゃあ問題ないか」
「そうそう。だからじゃんじゃん飲もうよ。マスター、こっちにお酒持って来てー!」
妙に明るく振る舞うエアリーと、それに調子を合せるラウド。
特にエアリーは少しでもアイーシャを元気付けようと、いつも以上にはしゃいでみせていた。
「んっ! このお肉おいしいじゃない。ホラ、アイーシャも食べてみなよ」
「ああ、食べている。確かにうまいな」
「ホムラも食べる。大きな身体してんだから、もっと食べないと。明日から持たないよ」
「分かってるって。食うよ。今食うから」
エアリーにせっつかれて肉を口に運ぶ。
食べてみればなるほど、上質の肉を使っているらしく味はなかなかのものだった。
確かにエアリーの言う通り、酒を飲みうまい物を食べれば、それなりに気分転換にはなるものだが・・・
それで今日のことをすっかり忘れてしまえるかと言えば、とてもそうは思えないアイーシャだった。
あまり気乗りはしなかったが、いつまでも落ち込んでいる情けない姿を晒し続けるのもアイーシャのプライドが許さない。
何とか自分をコントロールし、冷静さを取りつくろいながらも酒を飲み、出された料理を食べる。
エアリーやラウドが話し掛けてくれば、適当に話を合わせたり相槌を打つぐらいのことはする。
しかしホムラとはできるだけ顔を合わせないようにしていたのだった。
何故か気まずく思われたからだ。
それはホムラにしても同じだったようで、決してアイーシャのほうを見ようとはしなかったのだが。
しばしの時間を酒場で過ごし、適度に酔い腹も膨れたところでお開きになる。
まだ宵の口ではあったが、これから二次会とばかりに他所へハシゴする気にもならない。
一行は真っ直ぐに寺院への帰路についた。
その道すがら、アイーシャも表面上は何事もなかったかのように振る舞っていたのだった。
寺院へ戻れば、あとは各自部屋に戻って寝るだけである。
「皆、今日はすまなかったな。疲れたから私はもう休ませてもらう」
素っ気なく挨拶の言葉を残すと、いち早くアイーシャが寺院奥にある自分の部屋に消え、パタンとドアが閉められる音が響いた。
「うん、あたいももう寝るよ。お休みー」
「それじゃあ、今日は解散ということで」
「ああ」
エアリーとラウドも自室へと消えた。
残ったホムラはしばしその場でたたずんでいたのだが・・・
やがて意を決すると、アイーシャの部屋の前へと向かった。
静かにドアを叩く。
「まだ起きてるか?」
「・・・」
しばらく待っても中からの返事はなかった。
ホムラが諦めて自分の部屋へ行こうと踵を返し始めたところで
「鍵は開いている。用があるなら入れば良いだろう」
いつもよりも更に低い声が、微かに部屋の中から聞こえて来た。
「良いのか? 開けるぞ」
そう断ってから、静かにドアノブを回すホムラ。
アイーシャの寝室へ入るのは初めてだった。
ゆっくりとした動作で室内へ移動し、音を立てないように注意しながら後ろ手にドアを閉める。
寺院がアイーシャに与えているその部屋は、ホムラが寝泊まりしている部屋よりもずっと広かった。
部屋の中央にはテーブルセット、品の良いティーセットなどが並べられた棚、そして奥のほうには天蓋付きのベッドなど。
調度品などもかなり良質なものが揃えられているように思えた。
それだけで、寺院側のアイーシャに対する扱いの良さが伺えるだろう。
灯りもなく暖も取っていない部屋の中は、しんと冷え切っている。
アイーシャはベッドで寝ているでもなく、ただ大きな窓の前に置かれた一人掛けのソファに座っていた。
窓から差し込む冬の月明かりが、アイーシャを青白く照らす。
逆光になっていて表情までは読み取れなかったが、ホムラはその神秘的な姿に息を飲む思いだった。
氷の人形、アイスドール。
青く煌めくアイーシャの姿は冷たく、そして美しいものだった。
アイーシャがわずかに首を動かすと、窓から差し込む月明かりがアイーシャの青い瞳を浮かび上がらせた。
それはまるで、月の女神がこの地に降り立ったかのような神々しささえ感じられる。
「どうかしたか?」
「あ、いや・・・」
初めに口を開いたのはアイーシャ。
しかしアイーシャの神秘的な姿に見とれていたホムラは満足な返事ができなかった。
「夜這いでもしに来たのか? あいにく今はそんな気分ではない。
女を抱きたければ他を当たってくれ。金を払えば抱かせてくれる女など、街中にゴロゴロしているはずだ」
月の女神だなんて一瞬でも思った自分がバカだったと、興醒めさせるアイーシャの言葉である。
「誰が夜這いに来たって言った。そんなことはしねえよ」
「そうか、それは残念だ。自分で言うのも何だが、私は自分の容姿についてはかなりの自信を持っているぞ。
胸だって、特大という程ではないが、それなりにあるつもりだ」
「お前は俺に襲われたいのか、襲われたくないのか、どっちなんだ?」
「ふっ、ホムラに私を襲う度胸など、最初からないだろう」
「けっ、言ってろ」
ホムラにも、それがアイーシャなりの冗談だと分かっていたので、それ以上は言わないことにする。
いや、この場合は冗談ではなく虚勢と言うべきだろうか。
アイーシャはそうやって強がっていないと、自分を保てないのではないか・・・
「いや分かっている。私を笑いに来たんだろう?
当然だ。今までホムラにあれだけ偉そうなことを言っていたのに、今日のザマだったからな」
自嘲気味に、アイーシャの口元がふっと歪んだ。
「俺がアイーシャを笑えるわけがないだろう。散々無様なところを晒したのは俺のほうだ」
「そうだったな。地下迷宮での初めての戦いの時に、ホムラはコボルドの流した血に足を滑らせて見事にこけたんだったな。今思い出してもあれは傑作だった」
「あの時はアイーシャが助けてくれたんだったな。そしてその後も何度も助けられた」
「余計なお節介だと思っていたんだろう?」
「そんなことはない。アイーシャが助けてくれなかったら、俺なんぞはとっくの昔に死んでいたさ。だからお前は命の恩人だ」
「命の恩人? 笑わせる。その命の恩人とやらが、ホムラを危険な目に巻き込んでいる元凶なのだからな」
「寺院の『剣士募集』の告知に応募したのは俺の意志だ」
「まさかこんな女の面倒を見させられるとは思ってなかっただろう?」
「それはそうだな。だか、悪くない仕事だと思っている」
今までもホムラとアイーシャは何度も口喧嘩になった。
しかしそれはいつも、アイーシャがホムラを罵り、ホムラがそれに言い返すというパターンがほとんどだった。
しかし今回はどこか違う。
アイーシャが自分自身を責め、ホムラがそれを否定している。
アイーシャの心の中に何が起こったのか、ホムラはそれを知りたいと思った。
「なあ、あの時何があったんだ? 何を考えた?」
「・・・」
「話せよ。そろそろお互い腹を割って話しても良い頃じゃねえか?」
「あの時というのは、ガスドラゴンと戦った時のことだな?」
「ああ、そうだ」
「私が魔法をしくじった・・・」
「何か理由があったんだろ?」
「それを聞いたら、きっとホムラは私を軽蔑するだろう」
「俺が軽蔑する? お前をか」
「そうしたらもう私の相手をするのに嫌気が差して、寺院から出て行くかもしれない」
「それは話を聞いてみないと分からないだろう」
「どうしても、話せと?」
「ああ、どうしてもだ」
「分かった。私も覚悟を決めよう。あの時私が思ったことを正直に話す」
ホムラは無言のまま頷き、アイーシャが話し始めるのを静かに待った。
「私は・・・ホムラを信じられなかったのだ・・・」
アイーシャがゆっくりと語り始めた。