魔導の書

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10

 春になって湖を覆った氷が溶けるように、アイーシャはゆっくりと話し始めた。
「私はホムラを信じられなかったのだ」
 それに対してホムラは無言でアイーシャの言葉を待つ。
「あの時、ガスドラゴンとの戦いの時、ひょっとしたらホムラが私の前から逃げるのではないかと思った。
 私を見捨てるかもしれない。いや、わざとではないにしろ、とっさに身体が反応して相手の攻撃を避けるのではないかと。
 そうなれば、無防備の私は死ぬだろうなあ、と・・・」
「それで?」
「普段の私ならそんなことは考えなかったはずだ。魔導の書を扱う時は格段の集中を要するからな。おそらく・・・エアリーと出会ったせいだろう」
「エアリー?」
「ああ、エアリーと会って、姉のウェインのことを思い出したからだ。
 エアリーはまだあどけない顔をしているが、ふとした時に見せる表情や仕種がウェインにそっくりなことがある。
 それを見る度にドキリとさせられたりしてな」
「エアリーの姉貴って確か・・・」
「ああ、私と同じ魔導師だった。地下迷宮で共に戦った仲だ。だが・・・」
「死んだ、んだよな」
「そうだ。ドラゴンのブレスに焼かれた。盾として護るはずだった剣士が攻撃を避けてな」
「その時のことを思い出した。そして俺も同じように逃げると思った」
「そうだな。ほんの一瞬だったが、そう思ったことは否定しない。ホムラよ、私はお前を信じられなかったのだ」
「そんなのは今更だろう。そもそも俺だってアイーシャを本当に信用していたかと聞かれると返事に困る」
「それもそうだ。普段の私の言動を見ていれば、とても信用なんてできないだろうからな」
「だろう、だからお互い様ってことでだな・・・」
「そうじゃない・・・そうじゃないんだ・・・」
 アイーシャが大きく首を横に振った。
「私が本当に混乱したのは、きっと別の理由だ。
 そうだ、そうなのだ。私は死ぬのが怖かったんだ」
「死ぬのが怖い・・・それは人間なら誰でも持っている感情だろう」
「そうかもしれない。だが私はホムラに何と言ったか覚えているか?」
「それはいつの話だよ」
「エアリーに襲われた時だ。あの時私はホムラの頬を引っ叩いた」
「ああ、あの時か・・・あの時アイーシャは・・・」
「私はこう言ったのだ。『我々が地下迷宮で戦う目的は魔導の書だ』とな」
「そうだった。『アイーシャが死んでしまったら意味がない。だから俺に盾になって護れ』とかなんとか」
「うむ、その通りだ」
「それは・・・その通りなんだろ? 実際地下迷宮で魔物相手に戦うのは魔導の書のためだし、その魔導の書を扱うアイーシャが死んだら全てが終わりだ」
「それはそうだ。だが違う」
「何が違う?」
「私は今まで『魔導の書のために私を護れ』と言ってきた。でも本当は、私自身が死ぬのが怖かったから護って欲しかったのだ」
「あー・・・」
 ホムラにもそこでようやくアイーシャの言わんとしていることが分かってきた。
 魔導の書がどうのというのは表向きの理由に過ぎなかったのだ。
 アイーシャ自身今まで気付いていなかったのかもしれないが、本心では死を恐れていた。
 だから盾であるホムラに前に立っていてもらいたかったのか、と。
「なるほどな・・・それは、情けない話だな」
「そうだ、私はそんな情けない人間なのだ。どうだ、軽蔑したか?」
「違うよ。情けないのは俺のほうだ」
「ホムラが、何故?」
「魔導師だか何だか知らねえけどな、アイーシャは女で俺は男だ。そうだろ?」
「何を今さら・・・」
「男なら女の前に立って護ってやらなきゃならない。護るべき女を不安にさせるようじゃ、男として情けないだろ」
「ふっ。ホムラ、私を口説きに来たのか?」
 アイーシャがわずかに口元を緩める。
「話は最後まで聞け。俺はな、騎士に憧れていたんだ」
「騎士とは大きく出たな」
「なあアイーシャ、剣士と騎士の違いは何だか分かるか?」
「剣を持って賊や魔物と戦うのが剣士、騎士はそこに王などから称号を貰わなければならない、といったところか」
「まあそんなところだな。だが俺は、護るべきものがあるかどうかだと思っている。
 たとえば、女王陛下に忠誠を誓うナイト、とかな」
「顔に似合わず意外とロマンチストなのだな、ホムラは」
 アイーシャがクスリと笑う。
「うるせえよ。でだ、俺の家が貴族だってのは知ってたよな」
「ああ。確か田舎で没落した貴族の、それも三男坊だったな」
「そうだ。家柄だけで食っていけるわけじゃない。しかし親や兄貴たちも『家の名に恥じることのないように』とかぬかしやがる。
 ハッキリ言ってプレッシャーだった。それがうっとおしくなって、ある日家を出てきた」
「なんだ、ホムラは家出の坊ちゃんだったのか」
「まあな。子供の頃から剣術はやっていたから、それで何とか身を立てようとした。
 ある街で盗賊相手の警護団に入ったり、また別の街で金持ちの用心棒のようなことをしたり・・・いろいろやったな」
「それで、この街にやって来たのだな」
「ああ、寺院の前で『剣士募集』ってあったからな。真っ先に飛び付いた。そしてアイーシャ、いきなりお前に罵られたってわけだ」
「別に罵ったわけではない。私はただ『盾の役割』について教えようと・・・」
「それだよ」
「な、何がだ?」
「お前がいつも言っている『盾』だ。初めのうちは何を言ってるんだこの女は、とか思っていたが・・・
 よく考えてみれば、それこそ俺が目指す騎士としての姿じゃないか」
「なるほどな。護るべきものを背負って戦うのが騎士なら、魔導師の前に立つ盾はまさしく騎士と言えるだろう」
 話が見えたとばかりに静かに頷くアイーシャ。
「だから、だな。護るべき者、この場合はアイーシャのことだよな。お前を不安にさせているようじゃあ、俺もまだまだ騎士には程遠いなと。
 それは騎士としてだけじゃなく、男としても情けない話だと思わないか?」
「そんなことはない。ホムラは決して逃げなかった。ドラゴンを見たのは生まれて初めてなのだろう? 普通の人間ならそれだけで腰を抜かすぞ」
「おっ珍しいじゃねえか。アイーシャが人を褒めるなんてな」
「茶化すな。人がせっかく褒めてやっているのだ。素直に褒められていろ」
「なあアイーシャ、お前も日々プレッシャーと戦っていたんだろ? 次々と仲間の魔導師が離脱していって、ついにはお前が最後の一人だ。
 自分の身に何かあったらって、それは不安にもなるし、寺院のお偉いさんからはせっつかれるんだろうし」
 だからこそ、なのだろう。
 アイーシャはあまりにも多くの人間の死を目の当たりにしてきたはずだ。
 その度に情に流されていては、自分を保つことができなかったのだ。
 常に冷静かつ冷酷に。
 人の死すらも割り切って、事務的に処理していかなければならなかったのだと、ホムラにもようやく合点が行った。
 氷のように、冷たい心で。
 アイーシャは日々の恐怖やプレッシャーと戦っていたのだ。
「ホムラも同じか。貴族としての家柄の、家族からのプレッシャー」
「そんなところだ。だから・・・何となくお前の気持ちは分かる、かな」
「ふん、それくらいのことで女心を分かったようなことを言うな」
「相変わらず口の減らない女だぜ」
 お互いに憎まれ口を叩くアイーシャとホムラ。
 しかしそれはいがみ合っているからではなく、同じ境遇を持つ者同士として通じ合うものがある故、だろう。
 ホムラはそこでアイーシャの前へ歩み寄り、その場にひざまづいた。
「アイーシャ、俺はこれから絶対に逃げたりしない。盾としてお前の前に立ってお前を護ることを約束しよう」
「魔導師に忠誠を誓う騎士のつもりか? ホムラ、あまりにもキザだぞ」
 くすくすと笑うアイーシャ。
「お前なあ、人が真面目にやってるんだぞ」
「分かった。ならば私もそれに応えよう」
 アイーシャはすっとソファから立ち上がる。
「ホムラが私の前にいてくれるなら、私は魔導の書に集中する。いや、してみせる。必ずやその力を引き出してみせよう」
「魔導師様の仰せのままに」
 立った姿勢からホムラを見下ろすアイーシャと、低い姿勢からアイーシャを見上げるホムラ。
 二人の視線が交錯し、そしてお互いに微笑み合った。
 窓の外の月明かりだけが、二人をそっと見守っていた。

 翌日、一行は再び地下迷宮の第4層で魔物と戦っていた。
「ワーベアが7匹か。数が多いな。マカニトで一気に蹴散らそう。ホムラ、頼む」
「任せろ!」
 ホムラが盾を構えアイーシャの前に立ちはだかると、アイーシャは魔導の書を広げ発動式を読み上げる。
 一番近くにいたワーベアが丸太のような腕を振り上げ、ガツンとホムラに叩き付ける。
「クッ!」
 しかしホムラの身体は揺るぎもしない。ワーベアの一撃を完全に受け止めていた。
 そこへ。
「マカニト!」
 完璧な発動式によって引き起こされたマカニトの魔法が、7匹のワーベア全てを一瞬にして塵にしてしまったのだ。
「ふう。あっけないな」
「どうしたのアイーシャ? 今日は絶好調じゃない」
 何しろ昨日の今日である。
 アイーシャの変わりように、エアリーも目を丸くして驚いていた。
「別に、何もない。それよりラウドよ、今日の私は絶好調だ。このまま次の魔物と戦うぞ」
「了解。それじゃあ次、行こうか」
「ああ」
 銀色の髪をなびかせて、次なる戦いに向かうアイーシャだった。

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