魔導の書

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「ガスドラゴンとは・・・初っ端からとんでもない奴に当たったものだねえ」
 緊迫した雰囲気には不似合いな、ラウドののんびりとした感想である。
 それも魔導師としてのアイーシャの腕を信じているからこそ、であろう。
 実際のところ、ラウドとアイーシャは過去に幾度となくこのドラゴンに遭遇していた。
 しかし、その度にアイーシャが確実に仕留めていたのだ。
 この程度の魔物では動じるはずもない、と言ったところか。
 それに対して
「ガスドラゴンって・・・あれってドラゴンなの?」
「ああそうだよ。この階層では一番の強敵かな」
「ひえー!」
 目の前に突然現れた巨大な生き物の正体を知り、驚愕するエアリーだった。
 全身を覆う緑色の鱗。
 トカゲ類などを思わせる顔にドラゴン特有の角。
 そして背中には巨大な翼を持つ。
 体内にため込んだ毒ガスをブレスとして吐き出すことから、ガスドラゴンと呼ばれている。
 地下迷宮の中層辺りでは、群を抜いての強敵であることは間違いないだろう。
「あれが・・・ドラゴンか」
 エアリーだけでない。
 ホムラにしても初めて目にするドラゴンに、全身ががすくむ思いだった。
「相手がガスドラゴンとなれば、剣だけで倒すのは無理だ。奴は私の獲物だな」
 エアリーやホムラを尻目に、静かな闘志を燃やすアイーシャ。
「そうだね、ここはアイーシャに任せるよ。ホムラは盾を構えてアイーシャの前へ。できるよね?」
「ああ」
 ラウドの指示に頷くホムラ。
 ついにその時が来たのだ。
 アイーシャの前に立ち、「盾」としての役割を果たさなければならない。
 今までも浅い階層での戦いで、何度か盾で魔物の攻撃を受け止める訓練はしていた。
 しかし今回の敵はドラゴンである。
 生半可な攻撃でないことは、容易に想像できた。
 もしも自分が持ち堪えられなかったら・・・
 ホムラの全身を恐怖が支配する。
「エアリーはうまく立ち回って奴の気を引いて。あとはアイーシャ、頼んだよ」
「うん」
「任せろ」
「それじゃあ、戦闘開始!」
 ラウドの号令で、一行はガスドラゴンへと立ち向かって行った。
 まずはホムラが盾を構え、アイーシャの前に立つ。
「これで良いか?」
「ああ。そのまま動くなよ。何があっても私を護れ。それがホムラの役目だ」
「けっ、分かってるよ。あとは頼んだぜ」
 相変わらず傲慢な女だ、とは思ったがそんなことは口にすべきでないことは、この数日の付き合いだけでも痛いほど思い知らされていた。
 エアリーはガスドラゴンの目の前で飛んだり跳ねたり、巧みに動き回ってうまく気を引いている。
 ガスドラゴンが右の前脚を振り上げ、エアリーへと叩き付ける。
 エアリーはそれをギリギリまで引き付けてから、さっと横へ跳んでかわす。
 次は長い尻尾が横薙ぎに振り回される。
 それに対しても反応良く上へ跳ぶエアリー。
(少しでも時間を稼がなきゃ・・・)
 巨大なドラゴン相手に臆することなく対峙するエアリーだった。
 このままガスドラゴンがそちらに気を取られていてくれれば、と思うホムラだったが、そうは問屋が卸さないだろう。
 ゴクリと唾を飲み下し、やがて来るであろう攻撃に備える。
 アイーシャはすでに魔導の書を開き、精神を集中させ始めていた。
 こうなったらもうアイーシャは無防備だ。
 それを護るのがホムラの役目なのである。
 やがてエアリーの相手に飽きたのか、ガスドラゴンが大きく口を開け、周囲の空気を吸い込み始めた。
「マズイ、ブレスが来る!」
 叫んだのはラウド、その声でパーティのメンバーの緊張の度合いは最高潮に達していた。
 素早く回避の体勢を取るエアリー。
 盾を持つ手を握り直すホムラ。
 万一の場合に備えて、治療の薬に手を掛けるラウド。
 アイーシャは黙々と魔導の書に記された発動式を読み上げていた。
「来る!」
 アイーシャの魔法が発動するよりも早く、ガスドラゴンがブレスを吐き出した。
 迫りくる灼熱の炎がアイーシャの視界の隅をかすめる。
 その時、アイーシャの心にわずかな乱れが生じたのだった。
(ひょっとしたらホムラが逃げるのではないか・・・)
 それはエアリーが呼び覚ました悪夢の記憶であった。
 かつてのアイーシャの仲間でありエアリーの姉であるウェインは、前に立つ剣士がドラゴンのブレスを避けたためにその命を落としてしまった。
 ウェインの面影を残すエアリーとの出会いが、アイーシャにその時の記憶を思い起こさせたのだ。
 自分もまた同じ目に遭うのではないか、と・・・
 アイーシャはホムラに初めて会った時から、「盾として私の前に立っていろ」と話してきた。
 しかし、強大な魔物が繰り出す攻撃を前にして、その場にただ立っていることがいかに難しいか・・・
 アイーシャはそれも十分理解していたのだ。
 誰だって敵に襲われたら、反射的に回避行動を取るだろう。
 エアリーがアイーシャたちを襲撃した時のホムラの行動が正にそれだった。
 それが分かっていたからこそ、あれだけホムラに口うるさく言っていたのだ。
 もしも今、ホムラが自分の前から逃げ出してしまったらどうなるだろうか?
 言うまでもない、ガスドラゴンの吐いたブレスは確実にアイーシャを飲み込んでしまうだろう。
 そうなれば待っているのは確実な死だ。
 結局は自分が怖かったから、にすぎなかったのだ。
 アイーシャの脳裏にそのような思考が一気に駆け抜けた。
 その思いの正体は「不信」と「恐れ」である。
 自分はまだホムラを完全に信用したわけではない。
 そして、死ぬのが怖い、と。
 心の乱れはすなわち、精神の乱れである。
 それは魔法の成否に直結するものであった。
「うおぉぉぉ!」
 ホムラの叫び声ではっと我に返るアイーシャ。
 物思いに囚われた時間は、ほんの1秒にも満たない刹那の瞬間だけだったはずだ。
 その間に直撃したブレスを、盾を構えたホムラが受け止め懸命に堪えていた。
「アイーシャ、魔法はまだか?」
 さすがの巨漢を誇るホムラも、ドラゴンのブレスを防ぎきるのは容易なことではない。
 一刻も早くガスドラゴンを仕留めてもらいたいというのは正直なところだろう。
 そのホムラの期待に応えるように、アイーシャが魔法を発動させる。
「ダ、ダルト!」
 魔導の書第4ランクに属する魔法、ダルト。
 冷気を操り敵を凍りつかせてしまう、アイスドールと呼ばれるアイーシャの最も得意とする魔法であった。
 しかし。
「ああ、冷気の勢いが弱い! あれじゃあダメだ」
 ラウドが叫ぶ。
 その言葉通り、アイーシャの放ったダルトの魔法はいつもの威力が全く見られなかった。
 本来ならこの一発でガスドラゴンを仕留められるはずなのだが・・・
 冷気の嵐はガスドラゴンの皮膚をわずかに凍り付かせただけで、霧のように消失してしまった。
「クソっ」
 アイーシャも自らの魔法の失敗に舌打ちをする。
 分かっていたのだ。
 集中が切れた瞬間に、発動式をわずかにミスしていたことを。
 あまりのふがいなさに、自分で自分が嫌になる。
「エアリー!」
「分かってる!」
 ラウドの指示にエアリーが飛ぶ。
 失敗したとはいえ、ダルトである程度のダメージは負っているはずだ。
 その動きも緩慢なものになっていた。
 ガスドラゴンに対して、エアリーが切り掛かった。
「てえぃ!」
 鋭く放たれた一刀が、ガスドラゴンの首筋の周囲を煌めいて駆け抜ける。
 そして・・・
 急所を切り裂かれたガスドラゴンが、その場にずんと崩れ落ちたのだった。
「ふぅ」
 ガスドラゴンが屍と化したことを確認した後、ラウドが大きく息を吐いた。
 それと同時に、パーティに満ちていた緊張感が、潮が引くように静まっていく。
「エアリー、よくやってくれたね」
「えへへ、あたいの実力、大したもんでしょ」
「ホムラも盾としてちゃんとアイーシャの前に立っていられた」
「ああ」
 ラウド、エアリー、ホムラの三人でお互いの健闘を称え合う。
 しかしアイーシャだけはその輪には加わることなく、じっと押し黙ったままだった。
「アイーシャ、さっきは何か変だったよ。どうかしたの?」
「すまなかった・・・」
 心配してアイーシャの顔を覗き込むエアリーにも、そう答えるだけである。
「どうした、あ? お前らしくねえぞアイーシャ。いつもの高慢ちきな態度はどうした?」
 あえて挑発するような口調でホムラ。
 これで少しでも言い返してくれれば、この沈んだ空気も払拭できるだろう、との読みだったのだが・・・
「すまなかったなホムラ。さっきのは私のミスだ」
「おいおい、本当にどうしたんだよ? そんなんじゃこっちだって調子が狂うだろうが」
「・・・」
 アイーシャはじっと口をつぐんでしまい、もう言葉を発しようとはしなかった。
「そうだね、誰だって調子の悪い時っていうのはあるものだよ。今日はもう引き揚げよう」
「分かった」
 ラウドの提案にホムラが同意する。
「うんそうだね、そうしよう。アイーシャもそれで良いよね?」
「・・・」
「大丈夫、大丈夫。地上に戻っておいしいものでも食べれば気分転換なんてすぐできるから。さあ、帰りましょう」
 陽気な声でアイーシャを励ますエアリーの存在が、ラウドにはこの上なくありがたく感じられた。

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