魔導の書

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15

 地下迷宮第10層。
 そこはホムラやエアリーはもちろん、長年地下迷宮に潜り続けたアイーシャやラウドにとっても未知の空間だった。
 通路は右に左にと、何度かの曲折を繰り返していた。
 しかし基本的には枝道のない一本道のようである。
 道に迷う心配がないのは、初めてこの場所を訪れる者にとってはありがたいことだろう。
 そこに満ちているのは静寂、音のない世界。
 まるで生きているモノが存在しないかのような、しんとして重く淀んだ空気だけが漂っていた。
 そんな異質な空間の中に、四人の足音が反響する。
 誰も言葉を発しない。
 いや、発することができないでいた。
 時々ホムラが後ろを振り返り、ラウドと目で意思の疎通を図る。
 ラウドが無言で頷く。
 その意味は「先へ」の一言だった。
 やがて。
 一行はこの階層で初めての扉の前に辿り着いていた。
 ホムラが扉に耳を当て、中の様子をうかがう。
 しかし、特に変わった気配は感じられないように思われた。
 アイーシャが「早く開けろ」と、ホムラを無言のまま睨み付ける。
 最近ではぐっと打ち解けてきたように思えるアイーシャだが、こういうところは変わらない。
 ラウドやエアリーも、特に止めたりはしない。
 ホムラは盾を握り締めてから、バンと扉を開けてその向こうへ飛び込んだ。
 しかし。
「何も・・・いないな」
 ホムラが飛び込んだ部屋の中はもぬけの殻で、魔物の類が襲い掛かってくるような様子はなかったのだ。
 それまで張り詰めていた緊張が解け、パーティ内にホッと安堵の空気が流れる。
「ふぅ、どんな魔物と出くわすか、ドキドキだったよ」
 エアリーの顔がふわりと和らぐ。
 が、それはエアリーだけの感想ではなかったようだ。
 ラウドもホムラも、そして常に冷静なアイーシャでさえも新たな魔物との遭遇を予感して緊張していたのは間違いなかったのだから。
 危険がないことを確認したら、次は部屋の中の調査に当たる。
 第9層でエアリーが落とし穴に吸い込まれたように、下手に動き回ると危険なことは容易に予想できた。
 まずはじっくりと観察する。
「ここにも転移の魔方陣があるな。それも二つ」
 アイーシャがこの階層のスタート地点にあったものと同じ魔方陣を見つけた。
「それは何処に飛ばされるの?」
「今確認する」
 怖々聞いてくるエアリーに、アイーシャは魔方陣を調べ始める。
「なるほど。まずすぐそこの魔方陣は、私たちが第9層から落とされたあの場所に出るようだ」
「へえ。そこに飛ばされれば、地上へも一気に戻れそうだね」
「ああ。探索者にとってはありがたい設備だな。そしてもう一つの魔方陣だが・・・」
「もう一つは?」
「何処に出るか分からぬ」
「ナニそれー!」
 この場には似つかわしくない、素っ頓狂な声を上げるエアリー。
 あまり表情が変わらないアイーシャと違い、エアリーの顔はその時によってくるくると変わる。
 見ていて飽きない、とラウドは微笑んだ。
「何処に出るか分からない。でも逆に言えば、行ってみれば分かるってことじゃないかな」
「うーん、確かに。それなら先へ進んでみようよ」
 ラウドに諭されたエアリーの表情が、今度はパッと輝いた。
「良いのか? 不用心に深入りし過ぎなんじゃ・・・」
「ホムラが心配するのも分かるが・・・ここは進むべきだと私は思う」
「だね。僕も進むべきだと思う」
「そうか。なら俺は付いて行くだけだ」
「何を言うホムラ。ホムラは付いて行くのではない。我々の先頭を切って行ってもらうのだ。何と言ってもホムラは盾なのだからな」
 いつもの冷静かつ落ち着いた態度でアイーシャ。
「あはは。アイーシャってば、うまいこと言うねえ」
「うんうん。今のは気の利いたジョークだったね」
「えっ? 私は別にジョークなど・・・」
 皆の意見に従って付いて行くと言うホムラを、盾だから先頭に立って歩けという。
 アイーシャ自身は冗談のつもりなどなかったのだが、その言い回しは一行の緊張を和らげるのに十分だった。
 もっとも、ジョークのダシにされたホムラだけは「人使いの荒い女だ」とぼやいていたのだが。
「良いから良いから。さっ、行こうよ」
 小さなエアリーが大きなホムラの背中を押す形で、一行は転移の魔方陣へと踏み入ったのだった。

「ここ、どこ?」
 エアリーがキョロキョロと視線を彷徨わせる。
 転移の魔方陣で先ほどまでとは全く別の場所に、文字通り転移させられたのだ。
 見たところ通路の末端のようだが・・・
「アイーシャ、現在地確認できる?」
「それが、さっきから試しているのだが・・・」
 ラウドの問い掛けに困惑の表情で答えるアイーシャ。
 魔導の書を開き、第1ランクに属するデュマピックの魔法の発動式を読み上げる。
「やはりダメだな。どうしても座標が確認できない」
「それじゃあ迷子になっちゃったわけ?」
「落ち着いてエアリー。きっと元の場所に戻れる転移の魔方陣があるはずだから」
「ホント?」
「おそらくはね。この通路を辿った先に新しい部屋があるはずだよ。きっとそこにね」
「それじゃあ早速行ってみよう」
 沈んでみせたり輝いたりと、くるくる変わるエアリーの表情に、ふっと微笑むラウドだった。
 果たしてラウドの言葉通り、通路を進むと程なくして先ほどと同じように扉に突き当たった。
 例によってホムラが慎重に扉を開けるが、その部屋にも特に異常は見られなかった。
 そしてこれもラウドの予想に違わず、スタート地点に戻される魔方陣と、何処か別の場所に飛ばされる魔方陣の二つが確認される。
 一行は迷わず先へ進んだ。
 そのまま三つ目の部屋、四つ目の部屋と、何事もなく通過する。
 そして五番目の部屋の前で。
「んっ? ここには何かいるな・・・」
 扉に耳を当て向うの様子を窺っているホムラがぼそりともらした。
「いよいよ魔物の登場か。腕が鳴るな」
「アイーシャ、魔物がいるってのに喜ばないでよ」
「正直ここまで退屈だったからな。ここは暴れさせてもらうぞ。ホムラ」
「良いか? 開けるぞ」
 アイーシャに目で合図され、ホムラが扉を開ける。
 一行は素早く部屋の中へ飛び込み、魔物との戦闘態勢に入った。
「あれはナニ? 初めて見る奴だよ」
 素早く剣を構えながら、エアリー。
「うん。実は僕も初めてみる魔物だよ」
「私もだ」
 それはラウドとアイーシャにとっても未知の魔物だった。
 青白い肌に赤いツメを持ち、痩せこけた身体に魚の腐ったようなうつろな目がこちらに向けられていた。
 魔物は一体のみ、ぽつんとその場にたたずんでいた。
「どうやら不死の魔物の類のようだね。おそらくバンパイアだ」
「バンパイアって、あのお伽噺とかでよく聞く・・・」
「そう、実在の魔物だったとはねえ」
 伝説とも言える魔物を目の前にして興奮気味のエアリーと、あくまでマイペースなラウド。
「不死の魔物バンパイアとなれば、ここは僕の出番かな。エアリー、手伝ってくれるかな」
「うん良いよ!」
「ずるいぞラウド。私がやると言っただろう」
「魔物は一体、アイーシャの魔法を使うのはもったいないよ」
 アイーシャを制したラウドが一歩踏み出し、魔物と対峙する。
「ちょ、ラウド・・・」
「まあ。ここはラウドに任せてやれ」
 ホムラに肩を抑えられ、アイーシャはおとなしく退いた。
「それじゃあ、いっちょやってみようか。エアリー!」
「ガッテン!」
 ラウドが命じるとエアリーがバンパイア目掛けて飛び出した。
 そのまま長剣を振い、バンパイアに切り掛かる。
「たぁー!」
 しかしバンパイアは見かけとは裏腹な素早い動きで、エアリーの剣を禍々しくも赤く伸びたツメで受け止める。
 そして剣を受けたのとは反対側の手が、逆にエアリーに突き出された。
 エアリーは抜群の反射神経で、身体を捻ってその爪をかわす。
 一方ラウドは、エアリーがバンパイアを引き付けている間にディスペルの準備を始めていた。
「闇の力に操られし不死の魔物よ。今その呪いを解き放たん・・・」
 魔導の書の発動式とはまた異なる、独特な韻律を持った呪いの言葉を紡ぐ。
「ディスペル!」
 最後にラウドが叫ぶと、バンパイアの身体を聖なる光が包み込んだ。
 アイーシャの放つ魔法と違い、この光は生者であるエアリーには全く影響を及ぼさない。
 闇の世界の住人のみを浄化するものだった。
 聖なる光に焼かれたバンパイアは悲鳴を発することもなく、静かに、いや最初から存在などしていなかったかのように、その場から消失していた。
「ディスペル完了。さあ行こうか」
 そしてラウド自身も、何事もなかったかのようにいつもの笑みを見せるのだった。

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