ホークウインド戦記
〜約束の空〜

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 城塞都市を見下ろす小高い丘は、昨夜降り積もった新雪に覆われ白く輝いていた。
 そんな丘の斜面にまばらに生えた雑木林の中を、一人の男が一陣の風のように駆け抜けていく。
 男の名前はハヤテといった。
 ハヤテとは、彼が生まれたホウライの言葉で疾風、つまりは強くそして速く走る風を意味する。
 忍びの者として鍛えられたハヤテの身体は、その名の如く風のように軽やかに、そして力強く躍動していた。
 闇に溶け込むかのような漆黒の忍び装束を纏ってはいるが、今は忍び覆面は被っておらず、その素顔を陽光の下に曝している。
 短く刈り上げられた黒い髪と、何処までも深く黒い瞳はホウライ出身の人間の特徴でもあった。
 ハヤテが走り抜けた雪原には足跡一つ残らない。彼の足取りはそれ程までに軽くしなやかだった。
 いざ敵との戦いともなれば、己の気配を断つ為に長時間呼吸を止める事など雑作も無い程の肺活量を持つ忍者にとっては、この程度の疾駆で呼吸を乱す事も無い。
 凛と澄み渡った冬の朝の冷たい外気が、少しほてった頬に心地良く突き刺さる。
 と。
 ハヤテの右手、丘の斜面の山手側から突然襲い来る横合いの風。
 鋭く唸る風の正体は熟練の手の者が振るう刀身による剣圧、主に侍が刀に自らの気を乗せて放つ居合いと呼ばれる気の刃だった。
 斬!
 しかしハヤテは身体をわずかに捻っただけでそれをかわす。
 二の矢三の矢と迫り来る、剣が生み出す風の刃をハヤテはことごとく見切ってかわしていく。
 やがて。
 それまで木立の影に姿を隠していた襲撃者は、今まさに空中から獲物を捕らえんと急降下する猛禽類のようにハヤテに跳び掛かってきた。
 しかしハヤテは慌てない。
 腰に差してあった忍者刀を抜き、彼にとってはすでに見慣れた太刀筋に対して忍者刀を合わせてそのまま軽く受け流す。
 姿を見せた襲撃者はハヤテの睨んだ通り侍だった。しかも女である。
 その者は全身に漲らせた殺気を隠す事無く放ちながら、自らの手にある刀を繰り出してきた。
 女侍の上段からの一振りをハヤテは下から丁寧にすくい上げる。
 次はハヤテが横から攻めるのを、女侍は正確に受け止めていた。
 そのまま二度、三度、ギンっギンっとお互いの刃が交錯する。
 相手を手強いとみた女侍は、右手に構えた太刀でハヤテの攻撃を凌ぎつつ、左手で腰に差してある脇差を逆手で抜き、そのまま一気にハヤテの身体を薙ぐ。
 しかし殺気を振り撒いている故に女侍の攻撃を読むのは容易い。
 ハヤテは軽く後方に飛んで女侍の放った脇差の一閃をひらりとかわした。
 自然、両者の身体が離れる。
 そのまま睨み合うこと数瞬。
「お見事ですね」
 殺気が消えると同時に女が両の刀を収める。
「本身で斬り掛かるなんて、鷹奈(たかな)は相変わらずムチャをする」
「いえ、ハヤテならきっといつものようにかわしきれると信じていましたから」
 女侍、鷹奈の表情がふわりとほぐれる。
 ハヤテに襲い掛かった瞬間の憤怒の形相が嘘のような、温かく柔らかな笑顔がそこにあった。

 ハヤテと鷹奈は共に城塞都市に暮らしている。
 仲間と共にパーティを組み、地下深くまで伸びる迷宮を探索し、そこに巣食う魔物を打ち倒す。
 それが彼らの日常だった。
 一般には冒険者と呼ばれている。
 ヒューマンであるハヤテは忍者、そしてエルフである鷹奈は侍。
 年齢は共に二十代の半ば。
 二人がこの都市で出逢い、行動を共にするようになってからもう五年以上の月日が流れていた。
 ハヤテと鷹奈は、共に切磋琢磨しお互いの腕を磨きあったライバルであり、また迷宮探索においては誰よりも深く信じ合い、お互いの生死を預けられる程の仲間でもあった。
 そんな二人の間にパーティの仲間として以上に男女としての特別な感情が芽生えたのは自然の成り行きだったろう。
 ヒューマンとエルフという種族の違い。
 そして悪の戒律に属するハヤテと中立の戒律に属する鷹奈。
 しかしそのような些細な事は、二人にとっては何の問題にもならなかった。
 ハヤテは誰よりも鷹奈を愛していたし、鷹奈もまた同じ気持ちだった。
 時にはお互いに強く求め合い、身体を重ねて深く愛し合った事も一度や二度ではなかった。
 二人はお互いがお互いを掛け替えの無い大切な存在であると信じて疑わなかった。
 いつまでも一緒にいられる、と。
 だがその為には生き残らなければならない。
 地下迷宮へ下りたきり、二度と地上へ戻って来れなかった者は後を絶たない。
 獰猛な獣。
 動きを止める事の無い骸。
 そして異世界から召喚された悪魔達。
 人間の力をはるかに凌駕する魔物の群れを相手にして生き残るのは並大抵の事ではなかった。
 しかしハヤテと鷹奈は生き残っている。
 共に行動した仲間の何人かは魔物との戦いの中で儚くも命を散らしていったが、冒険者として抜群の技量を誇る二人は昨日までの戦いに生き残り、そして今日もまた新たな戦いに赴かんとしていた。

「いつもの朝の鍛錬ですか」
「鍛錬なんて程のものじゃない。少し身体を温めておきたくてな」
「その心掛け、立派です」
 侍の家系に生まれ育った鷹奈である。
 子供の頃から武芸だけでなく躾なども厳しく仕込まれた鷹奈は、恋人に対しても丁寧な言葉使いを崩さない。
 ハヤテにとってはそんな鷹奈の生真面目さもまた可愛らしく思えるのだった。
 もっとも、直接本人にそんな事を言えば、拗ねて機嫌を損ねるのは目に見えて明らかなのだが。
 侍用の袖鎧、腰にはジャパンと呼ばれる侍のみが扱える長刀。
 美しく伸びた薄いブラウンの長い髪は、動きやすいように後頭部で縛ってまとめられている。その先端が冬の風になびいて流されていた。
 降り積もったばかりで誰も足を踏み入れていない雪原のように白くなめらかな肌。
 切れ長の目に髪よりも若干濃いブラウンの瞳が美しく煌めいている。
 耳の先端が尖っているのが、鷹奈がエルフである事を雄弁に物語っていた。
「春も近いとは言え朝はまだ冷えます。しっかりと身体を温めておかないといざという時に動けませんからね」
「そうだな」
「早く温かくなって欲しいものです。ああ、春が待ち遠しい」
「地下迷宮の中じゃ季節なんて関係ないだろ」
「ハヤテ、そのようなつまらない物言いをするものではありませんよ。気分の問題です。それに、春になればこの丘にも色とりどりの花が咲くではないですか」
「花、か」
「ええそうです。今からとても楽しみですね。でも私が一番見てみたい花は、いつかハヤテが話してくれた、ホウライが春になると咲くという・・・」
「桜の事か?」
「はい。とても美しい花なんでしょうね。いつかこの目でと思います」
「そう言えば約束していたっけ。いつか二人でホウライへ行って一緒に桜を見ようって」
「はい、約束していました」
 それはかつて二人が交わした何気ない約束の一つだった。
 侍や忍者発祥の地、ホウライ。
 鷹奈は是非ともその地を訪れ、本場の侍達に混じって己を磨きたいと考えていた。
 またホウライはハヤテの生まれ故郷でもあった。
 となれば、ホウライという土地に対する憧れは募るばかり。
 そしてホウライが春になると、まるで息を合わせたように一斉に咲き乱れるという美しき花。
 桜。
 鷹奈はまだ見ぬその花に思いを馳せ、いつかハヤテと一緒に桜を愛でる事を夢に描いていた。
「もうすぐ迷宮探索も終わる。そうしたら二人でホウライへ行こう。この春には間に合わないかも知れないけど、桜は毎年咲くんだ。いつか一緒に見られるだろう」
「はい。その日が来るのを心待ちにしています」
 すっと鷹奈は東の空へ視線を向ける。
 雪がやんだ朝の冬空はどこまでも蒼く澄み渡っていた。
 鷹奈の想いは既に遥かホウライの地へと飛んでいたのだった。
 しかし、ハヤテと鷹奈にはまだこの城塞都市でやる事が残っていた。
「よし、行くか。そろそろみんなが待ってるはずだ」
「はい」
 ハヤテと鷹奈は城塞都市へと戻るべく、雪の丘を下って行った。
 また今日も地下迷宮での戦いが始まる。

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