2003年ミラノALS/MND国際会議参加、報告第2弾!

当初私の予定とする発表は、テーマを「ピアサポート」とした、約10分間のスピーチでした。

この内容についてのプレゼンテーションは正直諦めていましたが、最終的にはJALSA(日本ALS協会)のご好意によりましてA4の英文チラシ化にして、国際会議加盟41カ国の皆さんに会議当日に配布をさせて頂きました。

内容は以下となります。

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◆【継続された告知をへて。副題、生き甲斐としてのピアサポートを掴む】

1.【はじめに】

私はJALSAメンバーのALS(筋萎縮性側索硬化症)発症者の舩後(46歳)と申します。
私はこの原稿をどなたにでもご理解頂きたく思い、医療関係者の皆さんには当り前にご存知のことについても触れております。
どうか、お許し下さい。

私は、人生もこれからという矢先の42歳でALSに侵されました。
この病気は、現代医学をもってしても、決して治ることはありません。

ふいに発病後、じょじょに筋肉がなえ、全身が麻痺して、平均3年ぐらい後に呼吸が出来なくなる病気です。
この時点で発症者は、呼吸器を装着するか、人生をまっとうするかの、どちらかを選択しています。
まさに究極の選択をせまられる病気と言えます。

喋れない、口から食べる事が出来ない、身動ぎも出来ない、という数々の障害とともに、呼吸器を着けて生き続ける勇気と、これがわが寿命と死を受け入れる勇気。
これは年齢や性格に基づく人生に対する価値感、あるいはその人固有の療養環境で違ってくると思います。

従ってどちらが正しいと言う事ではありませんが、私は呼吸器を着け、生き続けることを選びました。
いえ、選ぶ事が出来ました。
結果としてあらたなる命を得た私は今、清々しく生きています。

そして、ALS発症者として生きる為の目標を持ちました。
それはピアサポート、すなわちALS発症者によるALS等発症者へのサポートです。

2.【告知直後】

振り返ってみると、最初の病院でALSの告知を受けた直後の私は、「絶望」に支配され死を望む気持ちしかありませんでした。
ベッドの上で目をつむり考えることは『寝たきりになって生きる意味がない』、『眠っている間に死にたい』そんなことばかりでした。
やがてその当時の私は『この先誰と会っても意味がない』という感情に支配され、一時社会とのつながりを殆ど断ちました。
今思うと、こんな私がよく生き甲斐を掴めたものと思います。

実は、そこに主治医今井先生(現在、国立療養所西多賀病院、神経内科医長)の、継続された告知とも言うべき指導がありました。
3.【そののち私は(「ピアサポート」の起点)】
そんな私にピアサポートという、生き甲斐を掴むチャンスが巡って来ました。
実はこのピアサポートは、私自身が当初より、生き甲斐にしようと考えていた訳ではありません。
振り返ります事昨年5月、胃ろう手術のために入院した私に、今井先生から「新しくALSの告知を受けたかたに向け、何かアドバイスになることを書き、それをオリエンテーションしてみたらどうか。」との提案を頂きました。

実はその当時、ある複数の理由により、私の家は介護破綻をむかえていました。
つまり私は、その時の入院3ヶ月以内に、今後の静養先を含め、生きかたの方向変換をする必要がありました。
これは最悪、呼吸器の選択が無理、すなわち人生をまっとうすることをあらわします。
そんな折の先生からの、傍から見れば私にとって「幸運」とも言える提案を頂けたのでした。

でもこれは幸運などではなく、まさに私の行く末を占う、告知作業の一環であるのです。

これは私の私見ですが、真の告知とは病気の進行にともない、その都度ALS発症者に理解と受容をもたらすケアを実施し、ひいては生き甲斐を模索せしめるほどの、動機付けを与える説得であると思います。
これは私が、今井先生の背中から学ばせて頂きました、いわば思いとも言うべき私見です。
4.【なぜ生き甲斐と成り得たか】
その時は、「ピアサポート」という言葉さえ知りませんでしたが、それを実践することが他のALS発症者のかたに役立つ事であり、ひいては自分が必要とされることにより、社会の一隅にその存在が認められるのではないかと感じました。つまりそう成り得たなら、ピアサポーターとしてのあらたなる人生の幕開けです。

正に生きかたの方向変換を迫られたギリギリの折に「提案の受諾」という選択をきっかけとし、後は『僅かでも社会に必要とされる限りは、生き甲斐もたされ命与えられる』との信念の元、ただ一直線に期待に胸膨らませ「ピアサポート」に取り組みました。私のような平凡な人間にとって生き甲斐とは余程の時、すなわち生まれ変わる瞬間とも思える時に感じるものかもしれません。

そしてその機会はつかのまで、周りのかた達に手を差し伸べてもらわないと、掴みきれないものでした。
そんなことも今思えばこそで、その時には今井先生からの資料作りなど、課題に対する要求も矢継早で、理屈をコネル余裕など全くありませんでした。

しかし私は、私なりの努力のもと「生き甲斐とすべく」、先生の敷いて下さったレールの上を、一目散と走り抜け咋今へと至りました。

くどいようですが、これこそ継続された告知のもたらした結果と感じます。
そしてつい最近になり、多くの新しいALS発症者のかたに接し判った事があります。

それは、例外なく告知を受けた直後のALS発症者のかたは、前述した、以前の私のような絶望の感情に囚われているということです。あるいは、現実逃
避の感情に支配されているのです。

病気と正面から対峙すること。
其れは並大抵のことではありません。
たった一度の告知で、どこをどれほど理解できるのでしょう。
絶望の淵にあること、それは当り前なのです。でも、そのままでは先にあるのは、ただ死せるのみです。
だから生き抜くためには、適切なメンタルケアをとうして生き甲斐を持つ事が必要なのです。
すなわち継続された告知、真の告知が必要なのです。
5.【生き甲斐としたのち】
今でも私は、平凡で弱い人間である事には変わりはありません。
私達ALS発症者の先頭に立ち、リーダーとしてその力強さを鼓舞出来るような逞しさは微塵もありません。
だからこそ生身の人間として、その苦しみ悩みをより身近に受け止め易くあり、支え合いの提案をする役に適しているのではと、おぼろげに感じております。

実際ピアサポートを開始し、それを続けていくうちに、実感としてこれが他のALS発症者のかたに役に立つこと、すなわち社会に貢献出来ることとの実感をえ、まさしく自分自身の生き甲斐となりました。

これこそ今井先生の指導、すなわち継続された告知のもたらした結果ではないでしょうか。
6.【まとめ】
私は人は追い込まれ追い込まれ、さらに追い込まれたその先からも、這いつくばってのたうちまりこそすれ、生還が可能であることを実体験として学ばせて頂きました。
ただそれには、導いてくれるかたの大いなる力と、支えて下さるかた達の絶え間ない協力とがあり、それを必要と致しました。
あくまでもその結果として、今私はピアサポートを生き甲斐として、ALS発症者の身ならではの人生を謳歌させて頂けるようになりました。

最後にALSを発症した者の立場で申し上げます。
告知とは一度きりの点ではありません。

長く継続され、線となり、その終着にある、病気にたいする理解をみて生き甲斐を求めてこそ、告知は完成されたといえると思います。

そして、私が告知を受ける期間にあたりましては、担当看護師さんから常に心理支援を頂いたことと、ヘルパーさん、保健師さんの応援があったことも、同時に申し上げたく思います。本当に感謝致します。
お礼の言葉もありません。

そして今私が、告知を受けているかたたちの、支えになるべくピアサポートをする役目をになう、そのことに自覚を持ちたく思い新しく「生き甲斐」としての、企画もたちあげました。
それについては次の機会にあらためさせて頂きます。
ありがとうございました。
2003年10月15日(水曜日)
日本ALS発症者、舩後靖彦
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ただこれが、果たして何かしらの役割を担えたかは、今だわかりません。
しかしながら、私自身非常に気に入ってるレポートなので、来る12/13に参加させて頂きます、法政大学にて行なわれます「日本臨床死生学会」に於いても当内容にてスピーチを致します。
さて、引き続きまして報告第3弾となります。

【続く】