義経千本桜 現れた全貌 2007.3.12 W180 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
歌舞伎座で上演されている通し狂言「義経千本桜」の昼の部を2日と9日に、夜の部を7日に見てきました。
「義経千本桜」のあらすじ(それぞれの場をクリックしてください) 義経は頼朝からの上使に、自害した卿の君の首を差し出し自らの潔白を証明しようとするが、弁慶が鎌倉方の侍を殺してしまったため、全ての努力は無駄に終わる。義経は都を明け渡すことで兄に恭順の意を示そうと、都をあとにする。―― ここは都のはずれにある伏見稲荷の鳥居前。都を落ち延びようとする義経一行が参拝にやってきたところへ、義経の愛妾・静御前が後を追ってくる。だが家来たちはこれからの道中は女には危険だから都へ残るようにと静御前を説得する。 その後から武蔵坊弁慶も追いかけてくるが、義経は先日の失態をゆるそうとせず、弁慶を手討にすると言う。しかし弁慶が義経を思えばこそしたことなので、どうか許してほしいと願い、他の家来や静御前も義経に許しを請うので、義経は弁慶を許し、旅に同道することにする。 だが静御前の同じ願いに義経は耳をかさず、迎えを待てと言い、形見にせよと禁裏から拝領した初音の鼓を渡す。納得できない静御前を亀井たちは鼓の調べ緒で側の梅の木に縛りつけ、境内へと入っていく。 そこへ頼朝の家来・笹目の忠太たちがやってきて、静御前を捕らえ初音の鼓を持ち去ろうとする。すると義経の家臣・佐藤四郎兵衛忠信がどこからか姿を現し、忠太たちを散々にやっつけて忠太を踏み殺す。 境内から出てきた義経は、静御前を救ってくれた忠信に自らの姓名・源九郎と着長(きせなが)を与え、万一の時には自分の身替りとなって敵をあざむくよう言う。 そうして義経はわずかな家来を連れて、九州へ旅立つため、大物浦へと急ぐ。残された静御前は形見の鼓を抱え都へと戻っていく。その後を佐藤忠信がついていくのだが、その姿にはどことなく怪しいところがあるのだった。 五幕目 初めは否定する覚範もついにそれを認める。義経に勝負を挑む教経だが、義経は今日のところは自分の身替りとなって死んだ佐藤継信の追善のために教信を助けようという。それを聞いた教信は又の日の再会を約束して、去っていくのだった。 竹田出雲、三好松洛、並木千柳の三人の作者による三大義太夫狂言の一つ「義経千本桜」は、人形浄瑠璃として誕生し1747年に初演。通し上演は4年ぶりのことで、全体によく練り上げられた舞台です。どの場も最近見たばかりですが、私としては大詰の「奥庭の場」を初めて見られたのは収穫でした。 「奥庭」では横川禅師覚範を幸四郎が勤めましたが、大きさと不気味な凄みがあって適役だと思います。教経の登場で義経が謀反の疑いをかけられる原因の一つとなった贋首の三武将がそろい、初めて千本桜の全貌が見えたように感じました。 菊五郎の狐忠信は「鳥居前」では荒事を、「吉野山」では花道の出で独特の世界を作っていた芝翫の静御前を相手に、若々しく颯爽とした二枚目ぶりを見せました。 この場では仁左衛門がいわゆるご馳走で逸見藤太を演じましたが、糸にのって聞かせる台詞が耳に心地よく、役者づくしの台詞も珍しかったですが、「鳥居前」の笹目忠太とほとんど同じ台詞で同じことを演るのは、なんとかならないのかと思いました。 「川連法眼館」での菊五郎の佐藤忠信は、花道を登場して七三あたりで義経の姿をみたとたん、いかにも安心したという表情になり主人の身を案じてやってきたのだということがよくわかる忠信でした。 源九郎狐となってからは、立廻りで悪僧の背中に飛び乗るのに失敗したり、膝で回転するところが上手く行かなかったり、かなり大変そうではありましたが、膝をついて片手片足をあげる狐の見得などは、ホ〜ッと見とれてしまうくらい鮮やか。狐言葉にもとっぴな感じが少なく、しみじみと台詞を聞かせていました。 梅玉は薄幸の武将・義経をとても自然に演じていました。「奥庭」で義経が覚範にむかって「教経待て!」と声を掛けるところは、「熊谷陣屋」で同じく義経が弥陀六にむかって「弥兵衛宗清待て!」というのと状況もそっくりなのが面白く思いました。(一谷嫩軍記は義経千本桜の4年後に書かれています) 「渡海屋」と「大物浦」で銀平実は新中納言知盛を演じた幸四郎、厚司に番傘をさして花道を出てきたところは、なかなか風格のある銀平でした。ただ口の中で物を言っているように聞こえ、幽霊装束の知盛になってからも台詞が冴えないのが気になりましたが、後ろ向きに飛び込む入水は見事でした。 藤十郎のお柳は義経の家来たちに夫自慢を言って聞かせる場面では、かいがいしい世話女房の雰囲気がでていてさすがに上手いなぁと思いました。本来なら自分で大切に抱くはずの安徳帝を全て黒衣にまかせてしまったのは、仕方がないといえ見た目も悪く乳母としての心構えが薄く感じられましたが、9日に見た時はかなり改善されていました。 安徳帝を演じた子役の原口智照が、この場の緊張を一身に背負って「仇に思うな」の長い台詞を音が下がることなくきっぱりと言えたのは上出来でした。 相模五郎を演じた歌六は前半の滑稽な魚づくしの台詞を客席にしっかりわからせるためか、念を押すようにゆっくり言っていましたが、もっとさらっと言ったほうがシャレがきくのではと思いました。後半の御注進ではうってかわって手負いの武者を力強く演じていました。 「木の実」「すし屋」では仁左衛門が三年ぶりに権太を演じました。上方言葉を自由自在に駆使し、可笑しい場面はおもいっきり笑わせく、悲しい場面では涙を流し、あの長丁場をだれることなく演じて、この芝居の魅力を十二分に引き出していました。 仁左衛門のやり方はかなりの部分が延若型を基本としていて、モドリになって全てを打ち明ける前に、本心をあちこちで垣間見せるのですが、それによって面白さが損なわれるということは全くありません。 女房小せんに秀太郎、妹お里に孝太郎、敵方梶原に我當と、仁左衛門の芝居のめざすものを熟知している方たちに支えられているのも、好演の大きな要因だと思います。竹三郎のお米とのかみあわせもぴったりで、3年前よりさらに完成された仁左衛門の権太でした。 時蔵の弥助は、花道を鮓桶の天秤をかついでよろよろと出てくるところに品の良い柔らかさがあり、維盛となって二重に上る時も変わり様がくっきりとしていて見事でした。左團次の弥左衛門はどうしてもひょうきんな持ち味が出てしまい、あまりこの役に合っているようには思えませんでした。 ところで「木の実」で茶屋の二つの床几の上に、可愛らしい招き猫と手拭でほっかぶりした茶色の姫達磨のようなものが一つずつおいてあるのが目を引き、何だろうと思いましたが煙草盆でした。前に二度仁左衛門の権太を見た時は見かけなかったものです。 小金吾を演じた扇雀は、必死に主人の若葉の内侍を探す「御台様いの〜」という声に若々しい魅力がありません。激しい小金吾の立廻りは女形の多い人には大変だろうと思いますが、一生懸命演じていました。「木の実」で権太に切りつけようと、足を前後に割って、口に刀の柄おおいを咥え、刀に手をかけたところを権太が左足で止めるところは若衆らしくて良い形だったと思います。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初日昼は会の方たちも10人近く見えていて、とても賑やかでした。一般の方たちも声を掛けられていましたが、「高麗屋」のファンの方なのでしょうか、とても高いお声の方がいらして気合の入りまくった声を頻繁に掛けていらしゃいました。 碇知盛にはたくさんツケ入りの見得がありますが、この方は皆さんが見得が極まったときに掛けようと息を呑んで見つめていらっしゃる時、いつも一足早く掛けてしまわれ、そのため全員早くなりちょうど良い時には何もない状態になってしまったのは残念でした。 たくさんいらっしゃるとどうしても早くなりがちですが、なにがなんでも人より早くかけようとするのは野暮というもの。それに碇知盛のような重厚なお芝居には、間さえあれば掛けるのではなく掛けるべき時を選択していただきたいものだと思います。 7日の夜も掛け声の多い日で、会の方も6人ほど見えていたとか。この日はおおよそまっとうな声ばかりで、安心してお芝居に集中できました。 ただ四の切で腰元たちが庭に忠信をさがしにくるところでは、一人ひとり順番に名前で声が掛かっていたのが気になりました。これは役者さんによっては「出席とられているみたい」と思われることもあると伺っています。 しかしいつもは台詞のないこの場の腰元たちに今月はそれぞれ台詞があったので、もしかしたらそのためによる大向こうさんのお遊びだったのかも・・・と想像しています。^^; 9日昼もたくさん声が掛かり、会の方は6人で名古屋からも見えていたそうです。「渡海屋」でお柳の長台詞が始まる時に、たくさんの「山城屋」にまじって「まってました!」と声が掛かっていました。 |
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歌舞伎座三月公演演目メモ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「義経千本桜」 ●昼の部 鳥居前、渡海屋、大物浦、道行初音の旅 ●夜の部 木の実、小金吾討死、すし屋、川連法眼館、奥庭 菊五郎、福助、梅玉、左團次、幸四郎、藤十郎、芝翫、仁左衛門、秀十郎、東蔵、扇雀、 時蔵、孝太郎、我當、彦三郎、田之助 |