熊谷陣屋 仁左衛門の熊谷 2005.11.16 W130 | ||||||||||||
9日、歌舞伎座昼の部をみてきました。
「熊谷陣屋」のあらすじはこちらをご覧下さい。 仁左衛門が熊谷を演じるのは、仁左衛門を襲名した平成10年以来初めてのことで、楽しみにしていました。仁左衛門の熊谷は團十郎型を基本にしつつ、ところどころを変えて演じていますが、義太夫狂言らしい豊かな台詞廻しと美しい数々の見得で堪能させ、敦盛の身替りとしてわが子の首を討った熊谷の苦悩が胸に迫ってきます。 熊谷が藤の方に敦盛を討った模様を物語る時、敦盛が言ったことば「心に懸るは母人の御事〜」を言いながらちらっと相模を見たので、これは我が子小次郎が言ったのだとわかりました。 首実験では制札を抜いた後、普通は紙で柄の泥を軽くはたくところをしごいていましたが、これは仁左衛門独自のやり方かと思います。制札の見得では口を開けて舌をたてているのが、普通の團十郎型とはちょっと違うようで、感情の激しさを感じました。 團十郎型では、ただ縁に首桶のふたに乗せて縁に置かれる首を相模は立って受け取りますが、仁左衛門は蓋に乗った首を抱きしめ、階段に一歩足を踏み出して階段の途中まで受け取りにくる相模に右手で渡しながらしばらく二人で泣くところは見た目も美しく情があって良い型だと思いました。ここは芝翫型です。(参考文献:「歌舞伎 型の魅力」渡辺保著) 最後の「十六年は一昔。夢であったなぁ。」というのは本文通りだそうで、東京式の「十六年は一昔。あぁ、夢だ。夢だ。」とは違いました。想像していたよりも、花道の引っ込みにはたっぷりと時間をかけていたと思います。 相模を演じた雀右衛門はさすがに長年手がけた役だけあって、思いがけない悲劇に翻弄される母親をよどみなく感情細やかに演じていました。 梅玉の義経も、申し分なく御曹司らしかったです。堤軍次の愛之助は熊谷に「行け」と言われるのに、相模に引きとめられて困り果てる様子が印象に残りました。 小山内薫作の「息子」は、息子を染五郎、父親を歌六、捕吏を信二郎の三人だけで演じる短いお芝居。昭和63年に息子を当代幸四郎、父親を二代目松緑、捕吏を又五郎というメンバーでやって以来、久しぶりの再演です。 9年前に家を出て上方へ働きに行った息子・金次郎が、お上に追われる身になって親に会いに戻ってきたが、火の番をしている父親には息子だということが判らないまま、そこへやってきた捕吏に追われて息子は再び去っていくという話です。 しかしながらどう考えても、「沼津」などと違って、大人になってから別れた息子の顔が、たった9年で判らなくなるはずがないと思うわけで、その点がどうしても納得できないお芝居でした。 息子も父親も相手を認識しているのかどうかよく判らないので、見ていてすっきりしない気分が残ります。けれども二回目に見た時、父親の方が最初から息子だとわかっていながら、とぼけていたというなら話は別だと思いました。実際最後には父親にも息子だとわかっていて別れを告げたように見えます。 けれどそうだとしたら、父親一人になった時もしらんぷりというのが釈然としません。演じるほうもおそらく難しいのではないかと思います。 中幕は吉右衛門の「雨の五郎」と富十郎の「うかれ坊主」。富十郎の「うかれ坊主」はあたかも超一流の指揮者のように清元をリードしているかのようで、富十郎の持つ天性のリズム感が踊りにもセリフにもあらわれていて、とても楽しい踊りでした。吉右衛門の五郎は豪快ではあったものの、大味に思えました。 最後は幸四郎初役の長兵衛で「文七元結」。女房お兼を鐵之助、娘お久を宗之助、角海老女房お駒を秀太郎、文七を染五郎が演じましたが、今回初めてお久はお兼の実の娘ではないとわかりました。これは円生の落語によるのだとか。 このお芝居には明るい印象を持っていたのですが、序幕の舞台は真っ暗ですが、なんだかずっと照明が暗かったように感じ、目が疲れてしまいました。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||
9日と14日の二日見てきましたが、どちらも声は沢山掛かっていました。会の方もそれぞれ3人ほど見えていたそうです。 特に「熊谷陣屋」はよく知られている時代狂言なので、一般の方も大勢声を掛けていらっしゃいました。くどきに入る相模に「まってました!」「京屋」と両日とも掛かっていましたが、我が子の首を抱きながらの悲しい物語に「まってました」はそぐわないように感じました。 私も14日は3階で観劇しましたので、「平山見得」「制札の見得」で「松嶋屋」。それと最後の花道の引っ込みで、笠で顔を隠した熊谷が足早に立ち去る寸前に「十五代目」と声を掛けました。(^^ゞ 「文七元結」では文七が、去っていった長兵衛の後ろ姿を手を合わせて拝むところに「高麗屋」と掛けました。 |