熊谷陣屋 芝翫型の熊谷 2003.2.11 |
11日、新橋演舞場で芝翫型、「熊谷陣屋」を見てきました。 「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)より「熊谷陣屋の場」(くまがいじんや) 熊谷が沈んだ様子で帰って来て、しばらく制札を見て物思いにふけっている。陣屋に入ると東国にいるはずの妻、相模が初陣した一人息子の小次郎の身を案じて来ている。熊谷は妻をしかりつけるが、今日小次郎初陣の合戦で、自分は平敦盛を討ったと話す。 すると次の間からこの陣屋に逃げ込んで相模に匿われていた、敦盛の母、藤の方が「我が子の敵」と切りかかってくるが、熊谷に押さえつけられてしまう。実は藤の方は直実と相模の以前の主人で、不義の咎をうけた二人を助けてくれた大恩人。その時身ごもっていたのが敦盛と同い年の小次郎だった。 藤の方に「なぜ敦盛を討ったのか」と問い詰められて、熊谷は合戦の様子を物語る。一度は組み敷いた敦盛を逃がそうとしたが、源氏方の平山季重にとがめられ、やむなく首を討つ羽目になったと。戦場の習いゆえと藤の方は悲しみにくれる。 首実検に備えて熊谷が奥に引っ込み、藤の方が敦盛の形見「青葉の笛」を吹くと、障子に写る敦盛とおぼしき影。しかし障子を開けてみるとそこには敦盛の鎧があるばかりだった。 首実検のために陣屋を出ようとする熊谷を、先程から陣屋にきていた義経が呼び止める。その場で首実検をすると聞いた熊谷は、桜のそばの制札を引き抜き、「この制札のとおり、敦盛の首を討った」と首を差し出す。 その首とは、なんと熊谷の息子小次郎の首。敦盛は実は院の御落胤なので「助けるために自分の子を討て」と制札の謎掛けを解いたのだった。息を詰めて見守る熊谷の前で、義経は「敦盛の首にちがいない。縁の人に名残を惜しませよ。」と温情をかける。 我が子の首を抱いて嘆き悲しむ相模の前を、「義経と直実が敦盛を助けた」ことを頼朝に注進しようと梶原が去っていく。するとどこからか石鑿(いしのみ)が飛んできて梶原は殺される。石のみを投げたのは石屋の弥陀六。じつは昔頼朝や義経を助けた、平家の武将で平弥平兵衛宗清だった。自分が助けさえしなかったら今日の平家の没落は無かったろうにと悔やむ弥陀六。 義経は弥陀六に敦盛が入っている鎧櫃をたくす。熊谷は僧となって(相模とともに)陣屋を後にする。
この義太夫狂言はこのところ團十郎型ばかりで演じられていますが、今回橋之助が初役で演じた芝翫型の熊谷、大変大きく立派でした。 熊谷の衣装は黒のビロードの着付に赤地錦の裃、顔は赤ッ面に芝翫筋と言う赤い筋をいれていて、とても古風ないでたちです。この拵えは人形浄瑠璃のを踏襲しているとのことですが、團十郎型の渋いグリーンとは全く違う趣で す。(初期江戸歌舞伎には赤ッ面の立ち役もあったそうですが、中期以降赤ッ面は敵役に統一されたということです) 熊谷が陣屋に帰ってきて座ると、家来の軍次が長い銀のキセルを煙草盆と一緒にもってきて、熊谷がそのキセルを使いながら演じるのも團十郎型とちがって派手なやり方です。 熊谷が藤の方に詰め寄られるところで、團十郎型はただひたすら恐縮と言った感じですが、こちらは左手の手のひらを開いて藤の方を押しとどめます。そして後ろに下がりながら膝を曲げた形のまま、足を揃えてパッと高く飛び上がって座り平伏するのも面白い型です。 見得も大きくて、「平山見得」など両手を高く上げ三段に片足を踏み出しての大見得です。差し出した首が実は敦盛の首でなくて自分達の子供の首だと知れてしまった後の、「制札の見得」は一度ぽんとついてから左肩にかつぐ型。團十郎型とは違って制札の上下が逆ですが、これも実に堂々とした見得でした。 相模に小次郎の首を渡す時も、團十郎型は縁側に桶の蓋にのせて置くだけですが、熊谷が三段の上に自ら持っていき相模が上がってしばらく二人してその首を一緒に持って思い入れをします。相模が三段を上がって首を受け取る型は昔魁車がやったということですが、この型、まだ洗練されていないようでしたが、情があっていい型だと思いました。 菊之助の相模は初役の上に珍しい型ということでさぞ大変だった事と思います。10年後に又見てみたいと思いました。 そして出家した熊谷は丸坊主ではなくて、髪をぶつっと途中から切った有髪の僧。いつもあんなに短い間にどうして丸坊主にできるんだろうと素朴な疑問を感じるところでした。これも人形浄瑠璃からきたのだとか、総じて芝翫型は原作に忠実なのだそうです。 「十六年は一昔、ああ夢だ、夢だ。」という、團十郎型では花道の引っ込みの時に言われる名台詞は、二重屋体の上で「十六年は一昔。夢であったなぁ」となり、「夢で」は自嘲気味に「あったなぁ」は深い嘆きとともに言われたのが非常に印象に残りました。 最後は全員揃って引っ張りの見得。ですが思ったほど「この見得をする事によって夫婦の愛情が感じられる」と言うわけでもなく、相模はやはり蚊帳の外と言う感がありました。 その他、目立った團十郎型との違いは弥陀六の襦袢。「南無阿弥陀仏」と書き散らしてありました。團十郎型は平家の武将の名前の数々が書いてあります。それと屋体の障子が斜めに配置してあり、そのため義経と四天王が並ぶ場所が広く取れてゴチャゴチャしないのが良かったです。 今回演じられた芝翫型は二代目松緑が演じて以来約40年間演じられていなかったので、音楽も無くなってしまい、いろいろな文献などから断片をつなぎ合わせたので、復活狂言に近かったと竹本葵太夫さんがご自分のホームページに書いていらっしゃいます。 しかしこの型では熊谷が大変古風で堂々としていて、見た後に充実感が残ります。この次見られるのはまた40年後と言う事にならないように、この型にもっと磨きを掛けてほしいものだと思いました。團十郎型の無常観ただよう芝居は見終わった後、私など時として疲労感を感じる事もあるからです。 その他の演目は福助の「鏡獅子」鴈治郎の「曽根崎心中」。 |
この日の大向う |
この日の掛け声は人数も丁度良い程度で、ほとんど屋号だけしか掛かりませんでした。お芝居の流れを壊さない程度に掛かっていて無難でした。 「曽根崎心中」 でお初が徳兵衛に「そのお覚悟が」ポン(キセルを突く音)「聞きたい」と言うとき、キセルの音をきっかけに声が掛かっていました。 |
壁紙&ライン:「和風素材&歌舞伎It's just so so」