『 あなたという ヒト 』

  - この笑顔でいつまできみをはぐらかせるでしょうか ー
・・・ もう限界だわ。

窓に向かって吐いた溜息と一緒に 涙がひとすじ頬をつたい落ちた。

泣いたって・・・ 無駄なの。 無駄なのよね・・・

落ちた雫は足元に ぽつんと水玉を描いた。 それもたったひとつだけ。
ガラスにぼんやりと映った顔は余計に歪んで見え ・・・ 醜かった。


いつも微笑んでいなさい、と母は言った。
そうすれば 幸せが自然にお前の許に集まってきますよ、と。
お前の笑顔が皆に幸せを運ぶよ、と父は笑った。
どんなに辛くても疲れていてもお前の微笑が励ましになる、と。
苦しいときほど笑いなさい、と先生は言った。
笑顔はあなたを助け、沢山の人々を幸せにしますよ、と。


だから。
・・・ だからいつも わたしは微笑んできたのに。
だから。
・・・ だからどんな状況でも 微笑は消さなかったのに。


もう、限界だわ ・・・。


彼女は 強化ガラスに額を押し付けひくく呻き続けた。
窓の外の空は次第にその色を濃くし、夜の帳が地をおおい始めていた。

降って湧いた災難に巻き込まれ、なにもかも奪われ拘束されて。
それでも 望みだけは捨てなかった。
それでも 微笑だけは忘れなかった。
いつか 必ず幸せになりたかったから。
いつか きっと愛するヒトに巡り逢えると信じていたから。


だから
・・・ あなたに巡り会ったとき わたしはこころからの笑みを浮かべたのに。
だから
・・・ あなたの手を取って 真剣な想いを微笑みつつ告げたのに。


・・・ もう 限界だわ ・・・


そうね、あなたも微笑んでくれたわね。
ちょっと照れたみたいな初々しい・稚くて・力強い笑みだったわ。
そして
あなたは。 どんどんわたしの中で大きな存在になっていったわ。
そして
わたしは。 だんだんとあなたの中に居場所を見つけたって思ったわ。


・・・ なのに。


黄昏から夜への時間が大好きだった。
紺碧の空が陽の色彩に染まり、やがてその色合いを失ってゆく。夜の気配は 濃い闇とともに深まり、やがて天上には数多の星々が姿を現す・・・
そんな光景を 毎日飽きずに眺めていたものだ。
そして夜は いつも安らぎと癒しをもたらしてくれていた。

・・・ そう、あなたと巡り逢うまでは。

今日も夕焼けが綺麗だったわ。
今夜も星々は 華麗に河を作って天上を流れているわ。

いま。 あなたは ・・・ 誰とこの空をながめているの。
いま。 あなたは ・・・ 誰の肩を抱き唇を求めているの

あなたは ・・・ この夜、誰の中に情熱を注ぐの。


あの女性 ( ひと ) を ・・・ 見たわ。

・・・ 綺麗なヒトね。

一途な瞳をして あなたのことばかりずっと見つめていたわ。
あなたを とても愛しているのね。

可愛い・・・ヒトね。

華奢な肩を震わせて 全身であなたを追っていたわ。
あなたが すべてなのね。

いま、あなたは。 あのヒトの隣にいるの。
いま、あなたは。 あのたおやかな身体を抱いているの。

あなたは ・・・ 今夜、あのヒトのものになるの。



こんな場所でこんな想いに身を焦がすことになるとは 思ってもみなかった。
長い悪夢の日々のあと、 ようやく解き放たれた。
持っていたものは なにもかも失ってしまったけれど
ずっと・・・ こころに秘めていた希望と笑顔だけは まだちゃんと持っている、と思った。
この二つがあれば またきっと幸せになれる・・・と信じていた。


・・・ そう。 あの男性 ( ひと ) に 逢うまでは。


貴方は ・・・ 素晴らしく魅惑的なヒトね。
貴方は ・・・ 全てが私を惹きつけるわ。

もう ・・・ 限界だわ。

ねえ? 熱い想いに順番なんて無いのよ。
ねえ? 愛は早いモノ勝ちじゃあないのよ。

一度だけじゃ ・・・ いやだわ。
わたし。
永遠にあなたを ・・・ わたし。


  ・・・ 私 。  貴方が ほ ・ し ・ い ・・・



薄紫の裳裾を翻し、彼女は部屋を出ていった。
 − あのオトコと逢うために。


 ・・・・・・・

言葉にもならない吐息が宙に舞って ・・・ 散った。
それはきっと粉々に砕け散って 自分の足元に堆く溜まっているのだろう。

・・・ いまに、わたし。 埋もれて息が詰まってしまうわ。

彼女は そしてまた。 細く長い吐息を散らばせた。

口に出して、言葉に出来れば少しは楽になるかもしれない。
それを聞くのが 自分だけだったとしても、 少しは気が紛れるだろう。

  − でも・・・。

この想いを この苦しみを この哀しみを 言葉という形にしたら
それはたちまち現実となって 自分に襲い掛かってくる・・・ かもしれない。
ココロの中に もやもやと立ち篭める靄に留めておいた方がいいのだろうか。

  − ・・・ でも。

向かい合った特殊ガラスには 白い顔がぼんやりと浮かびあがる。
表情の無い ・・・ いや、表情を殺した・精彩のない・顔。
意識して作った笑顔は まさにツクリモノで不気味ですらあった。

・・・ あなたは ズルイわ。

いつも、いつも そう。 
さんざんヒトの心を乱しておいて、 どんどんヒトの心に踏み入っておいてすい・・・っと身を引くのね。

・・・ あなたは 酷いわ。

ずっと、ずっと そう。
たくさんの想いと 溢れる涙と。 持ちきれない気持ちをもっと重くしておいてふ・・・と背を向けるのよ。

そうね、決めたのはわたし。 決心したのはわたし自身。
そうよ、わたしは自分の意志でココにいるのよ。
そうね。 あなたは止めたわ。 あなたは忠告したわね。
そうよ、あなたは ・・・ このコトがわかっていたの・・・・?


そう、自分で決めてここまで来たのだ。
あのまま・・・ 居残る選択肢も確かにあった。

・・・でも。

こつんとガラス窓のおでこを付けて、彼女はまた深く溜息を吐く。
一瞬曇ったガラスには、嫉妬に歪んだ・見難い女の顔が浮かぶ。

でも・・・。
あなたは ・・・ ひどいわ。
平凡な日々に埋もれていたわたしを 引っ張り出し
ええ、着いてゆく決心をしたのは わたし自身だけど・・・
だって あなたの真摯な瞳には有無をいわせなにチカラがあったわ。
ちいさくても築きあげていた幸せを 捨て
愛する家族や親しい人々の手を振り払ってしまった

ええ、選んだのは わたし自身だけど・・・
だって あなたの熱い声音には逆らえない響きがあったわ。

・・・ それでいて、最後には<来るな>とまで言ったわね。
ええ。 わかってるわ。
ココまでついて来たのは わたし自身の意志よ。

・・・でも。
ううん ・・・ だから。
わたし。 わたし 判らないわ わたし 信じられないわ
・・・ あなた ・・・ どこへゆくの。
あなた ・・・ 誰の許へ出かけるの。


曇ったガラスは どんどんもっと曇っていって
なにも写らなくなってしまった。


・・・ねえ。 これって。 わたしの心ね。
ねえ・・・ これって。 わたしの愛ね。

見えないわ・・・ 判らないわ・・・ 自分自身も見えないわ。
わたしの望んでいるものは なに。
あなたに望んでいることは なに。

あなたは ・・・ ずるいわ。
こんなにもわたしの心を わしづかみにしておいて
こんなにもあなたに 惹き付けておいて

 − きみは きみの 望む道を選んだ

そんな言葉が聞こえるのよ。
そんな声が あなたの背中から聞こえるのよ。

そうね、わたし。
いままで、 今この瞬間まで 仲間の一員でいようと思ってた。
たった今まで、 個人の感情で動くのはよくないと思ってた。
あなたが ソレを望んでいると思ったから。
あなたが そんなヒトを好きなのだと思ったから。


   ・・・ でも。

もう ・・・ やめたわ。 ・・・ もう やめる。
わたし。
・・・ そうよ、 わたし。 ・・・ わたしは ・・・ 
ずっとあなたの側にいたいの。 あなた全部がわたしの側にいてほしいの・・・
そう、いつも、いつも ずぅ・・・っと。
だって。


 ・・・ わたし、 あなたが欲しい。



黄色いマフラ−をかすかに揺らせ、 彼女は部屋を出て行った。
 − あのオトコの後を追うために。
・・・ ああ、また。

空を見上げ、無意識に見慣れた星を捜そうとした自分に彼は薄い笑みを浮かべた。
今更ながらに まったく違う世界にいるのだという事実をかみ締めた。
子供の時分から夜空を眺めるのが好きだった。
好き・・・というより彼の唯一の楽しみだったのかもしれない。
夜空は ・・・ たとえ見える星は数えるほどでも ・・・自由だった。
なにもかも、そう、自分自身の感情からも解放され、彼はいろいろな想いを
飛ばしたものだ。

空に溶け込んだ、と思ったこともあったよな。

あのまま 燃え尽きてしまっていたら。
こんな夜空を見上げていると、ふとそんな思いに駆られてしまう。

・・・ そうしたら ・・・ ?

彼は吐息をつき、頭をふった。
マイナス思考は ・・・ やめるんだ。
もう一度大きく息を吸い 空を見上げた。
未知の夜空だったが ・・・ 素晴らしかった。
幾千もの星々は煌く河をつくり、それは何本にもわかれ
天上を縦横に流れている。
そんな背景を背負って 色違いの月が追いかけっこをし、夜空を過ぎってゆく。

綺麗だな・・・。

彼の歩みは自然と遅くなり、気がつけば呆然と夜空の下に佇んでいた。
行く手には石造りの堂々たる宮殿が ある。
まだ手を加えている部分もみられるが ほとんどの窓には灯がともっている。
背後には流麗な宇宙船が ある。
しろくまろやかな曲線をえがく船体は いましずかにその翼を休めている。

宮殿の灯りは あの女性( ひと )の瞳の煌きを
宇宙船のシェイプは あの女性( ひと )の肢体の美を
ごく、当たり前のように彼のこころに思い浮かばせた。

・・・ 綺麗だな。

彼は自分のつぶやきに 苦い笑いをもらした。
なにが、 どちらが 綺麗なのか。
自分でも自分のこころが 本心が よくわからない。
どちらにもウソはない、と思う。
・・・でも どちらも真実か、と問われたら自分は頷くことができるだろうか。

遊びじゃない。 真剣なんだ。

それは ・・・ 誰に、 どちらのオンナに言ったのか。
彼の堂々巡りに近い思いは 宮殿を間近に見上げるときまで続いた。


・・・あ・・・ !

前方から 薄紫の影がゆらゆらと近づいてきた。

あ・・・・・ ?

背後から 黄色いマフラ−を夜風に靡かせ軽やかな足音が聞こえた。



   「  ・・・・ やあ。 」



彼は。 真ん中に立ち左右へ蕩ける笑みをこぼした。


「 ・・・ どうしたの。 」
「 ・・・ え ・・・ ? 」
眠っていると思った隣から ひくく問いかけられ彼はぴくり、と首をめぐらした。
横には いつもと同じにたおやかな肢体が寄り添っている。

「 眠れないの? 」
「 いや ・・・ あ、ああ。 なんとなく・・・。 」
彼は身体の向きを変え、彼女の肩に腕を回した。
「 食後の ・・・ コ−ヒ−を飲みすぎたかな。 なんだか目が冴えて・・・さ 」
「 ・・・ そう ・・・ ? 」
くしゃり、と自分の髪を愛撫する彼の手をそのままに、彼女は寝室の窓を見上げた。


 ・・・ カ−テンを引き忘れたわ。


押し上げ式の細長い窓からは 満天の星空が覗かれた。
南仏のこの地方でも 冬の星座はそれは見事に天を埋め尽くす。

わかってる。 星の綺麗な夜・・・・ あなたは必ず眠れないのよ。

彼の要望もあり、この地に二人きりのささやかな新居を設けた。

あの時。
海端の地で、一緒に行こうと言ってくれた彼は
約束通りに彼女の国で共棲みを始めた。
彼の表向きの職業にも その地は便利だったのかもしれない。
仕事柄、所謂人気はあったが、彼が帰ってくるのは必ず彼女の許であり、
いま、彼は完全に彼女だけのモノになっていた。

・・・ 幸せな日々。 

そう信じていた。 そう信じたかった。
毎夜 重ねる愛の時間にのめり込み、呑み込まれ・・・ 全てを忘れた。
これでもう 彼はどこへも行かない、と思っていた。


「 ・・・ 今夜も星が綺麗ね ・・・ 」
「 え? 」
ぴくり、と彼女の髪を愛撫する手が止まった。
「 え・・・ なに? 」
「 ・・・ なんでもない。 なんでも・・・・ 」
「 ・・・ そうかい ・・・ 」
するすると彼の手が髪から首へ頬へ 胸へと降りてきた。
「 ・・・ もう ・・・ 」
「 いいじゃないか ・・・ ね ・・・? 」
「 ・・・ 仕様の無いひと。 」
ひくく含み笑いをすると彼女は身を起こした。
「 ・・・ なら、今度は こっちがいいわ。 」
「 ・・・ ふふふ ・・・ きみだって ・・・ 」

なにも・・・気づいてはいないフリをしたまま
彼に覆いかぶさり、完全に窓への視線を遮った。
星空は白い身体に隔てられ・・・ そして 彼の意識からも消えていった。


いつの頃からだろう。
彼女は  ・・・・ 気がついていた。
それは本能、いや一種の触覚に近かった。

星空の綺麗な夜、彼の意識は、彼のこころは・・・ ココになかった。
降るような星が煌く夜、彼はよくぼんやりと彼方を見つめていた。

  ・・・・ どこへ ・・・ 行くの。
  わたしは ココよ。

ぴたりと寄り添いつつも、そんな言葉が口から零れそうになる。
だめよ。 だめ。
どこへも 行かせない。 だれにも 渡さない。 絶対に はなさない。

夜空の奥に 星々の彼方に そのひとの面影を結ばせたくはなかった。
とうに過ぎたことだ。 忘れた・・・ はずのことだ。

そうよ。 あのヒトは ・・・ 死んだわ。
あなたの腕の中で 息絶えたじゃない。 
もう ・・・ どこにもいない、いないのよ。

その面影を その思い出を その感触を
すべて消し去って欲しくて。
すべて忘れ去って欲しくて。



彼女は。 ゆっくりと彼に覆いかぶさると 艶然とした笑みを彼に注いだ。
・・・ふと、瞳に一筋の光だ当たった・・・ 
ような気がした。

 − ・・・ なんだ? どこかのサ−チライトか・・・

彼はゆっくりと首をめぐらした。
ぴたりと寄り添っている温かな身体にそっと腕をまわしながら・・・

 星が 見えた。

ちょうど彼のベッドから見上げられる窓に カ−テンが降ろされていない。
夜空に煌く星々からの一条のひかりが 目に入ったのだろう。

「 ・・・ どうしたの。 」
「 ・・・ え ・・・ 」
案の定、隣から低い声が問いかけてきた。
なじんだ匂いがふわり、と彼にまとわりついた。
なぜか一瞬、ほんの瞬きをする間だったが彼は鬱陶しいと感じた。
いや、それは ・・・ 彼自身ではなく彼の中に棲む他の声だったかもしれない。
 
 星に ・・・ 呼ばれた

眠れないのか、と聞く彼女の問いを曖昧に応え 彼はその身体を抱き寄せた。
柔らかな亜麻色の髪からいつもの香りがにおいたつ。
触れ合う肌からもう自分のものになった温気が立ち込める。

あのヒトは どうだったか。

ほとんど切れ切れになった記憶の糸をたぐってみるが星の瞬きよりもはかないそれは いつも途中でぷつりと途切れてしまう。
この地に来てから、彼女と棲むようになってから
何回そんな夜を過しただろうか・・・。

自分は確かに 願った。
自分は心から 望んだ。
自分は ・・・ 真実、愛した、愛していた、と思う。

圧倒的な力に満ちた星々の中で 
大いなる意志のもとで
自分は ・・・・。

あのヒトの 復活を 祈った。

 − いつか ・・・ 巡り会えたら

彼はこころの中に吐息を封じ込める。
再びあの瞳に見つめられたら・・・
その時 自分どうするだろうか。
その場で 自分はどちらの手を取るのだろう。


・・・ わからない。


きっと最後のその瞬間まで 
自分の心は揺れ動くだろう。


彼が差し伸べた腕に
白く細い手が 絡み付いてきた。
彼が落とした熱い口付けに
白磁の肌はほのかに、そして確実に燃え立ってゆく。

 − このオンナを ・・・ 愛している

そう、たしかに。 今は。
目の前の肢体を自分は愛でている。
口付けを繰り返す唇は、愛撫し続ける指は確実は悦びを伝える。
じきに ・・・ このオンナと共に昂まり合い
もろともに芳しい奈落の底へと堕ちてゆくだろう・・・


・・・ でも。


もし。 再びめぐりあったら。
あのすこしつめたいしなやかな手を取る自分の姿が脳裏をよぎる。
彼は ぱさり、と頭をふった。

「 ・・・あ・・・ああ ・・・ 
 あ ・ い ・・してるわ・・・! 」
掠れた悲鳴をあげ、彼女は白い咽喉を仰け反らせた。
「 ・・・・・・・・ 」
そう。 いまは。
このオンナの中に ・・・ 果てる ・・・!



彼は身悶えする彼女をしっかりと抱きとめ、泰然と微笑んでその姿を見上げた。



 この笑顔でいつまであなたをはぐらかせるのでしょうか

*******   Fin.  *******
Last updated:  03,07,2006.                    index
         ***    言い訳   ***
・・・・ 申すまでもございませんが・・・ 超銀です〜(^_^;)