「しまった。話に気を取られて気付かなかった…」 周囲には、濃い陰気が漂い始めている。一般人なら、無意識の内にここから遠ざかろうとするほどに。 「僕の所為、とか言う気かい?」 「べつにしねぇよ」 既に龍麻の意識は何者かへと向けられていた。 『見ツケタァァ』 しゃがれた女の声。近くの民家の屋根の上からだ。 声の方へ壬生が顔を向けると、月を背負って、何者かがそこにしゃがんでこちらを見下ろしている。 ざんばらな髪に、…妙に暗闇で閃く瞳。 壬生と目が合うと、その何者かは哄いだした。分かりにくかったが、たぶんそうだろう。 『ヤット気ヅイテクレタノネェェ。アタシガズット、アナタヲ見テタコト…』 「ち、しっかり変生済みか」 小さく、龍麻が呟く。 『アナタノ、オ友達…?』 聞こえたのか、それはぎょろりと瞳を動かした。気のせいか、首が動いてなかったようにも見える。 『ナラ一緒ニ殺シテアゲルゥゥ。寂シクナイヨウニィ…』 それが…元は暗殺組の仲間であった鬼が、だん、と屋根を蹴った。 『抱イテアゲルゥゥ…アナタノ血マミレノコノ手デェェッ!』 空中で振り上げられた彼女の手には、鋭い鉤爪が並んでいる。さすがに、まともに当たればひとたまりもないだろう。 「避けろよッ」 「言われなくても…!」 ドガン! と二人の間のアスファルトを砕いて、彼女が着地した。 接近する事で、もう一つわかった事があった。 彼女のこめかみから、一対の角が生えている事に。 「…本当に…」 《鬼》であるならば、救いの術などない、という言葉が脳裏をよぎる。 ――般若。 愛憎の果てに狂って鬼となった、まさにその姿だった。 『逃ガサナイカラァァ』 立ち上がりこそゆるりとしたものだったが、地を蹴ってからは早い。それは、龍麻ですら一瞬追いつけないほどだった。 「くっ!」 振り回される爪を見を捻ってかわすが、同じ様でばらばらの動きをしていた何本かの爪が体を掠める。 そして、わずかに遅れて、龍麻の声が響いた。 「避けろよ!」 ぐ、と壬生の正面…般若の背後で空間が捩れた。圧縮された《氣》によってそうなっているように見える現象―― 「た、龍麻ッ!?」 「円空旋!」 新しい傷を作りながらも無理やり壬生が横に飛ぶのとほぼ同時に、般若の背に龍麻の気弾が炸裂した。 衝撃に、般若が吹き飛ばされる。…回避しなければ、壬生も巻き込まれていたはずだ。 「どういうつもりだい!」 「だから先に言っただろうが!」 言いながら、龍麻が壬生の元に歩み寄る。 吹き飛ばされた先で、般若が身を起こしていた。動きが鈍いのは、かなりのダメージを受けたからだろう。 「来い紅葉。ケリつけるぞ」 龍麻の凄烈な《氣》が壬生のもとに伸ばされている。それに絡めるように、壬生も《氣》を開放した。 「分かったよ」 龍麻が自分を名前で呼ぶ事はそうない。そう言う時、龍麻の普段の威勢はどこかに消えてしまっている。多分、この時の龍麻は…紗夜の言っている“優しくて厳しい”彼なのかもしれない。 「陰たるは、空昇る龍の爪…」 「陽たるは、星閃く龍の牙…」 般若は、沸き上る《氣》の奔流に気付いていないのか、そのまま壬生に近づき、爪を振り上げた。 「表裏の龍の技、見せてあげよう…」 爪が振り下ろされる、まさにその直前。 「秘奥義! 双龍螺旋脚!」 二人の蹴り技と、そして昇り行く《氣》が般若の体を打ち抜く。 二人の耳に、耳障りな悲鳴が響いた。 『ア…アナタァ…ハ、アタシダケ、ノ…モノヨゥ…』 打ち抜かれた《氣》に縛り付けられたかのように、棒立ちのまま、般若はうめいた。 「僕は、誰のものでもない」 静かに壬生はそう告げたが、もはや鬼と化したものには届いてはいなかった。 「ドコニモ…行カセ…ハ…」 それを最後の言葉として、一瞬の閃光を放ち、“彼女”は消えていった。 ふぅ、と龍麻が体から力を抜く。そうすると、がらりと彼の纏う空気が一変した。 「お疲れ」 ぽい、と太清神丹をほおり投げて、龍麻が壬生を労う。 「早くその傷、治せよ」 「珍しく優しいね。どうしたんだい?」 龍麻の様子に、ふと微笑みを浮かべて壬生が訊ねる。 龍麻は微笑みを返すと、告げた。 「もうすぐ、この辺りを覆ってるこの陰気が晴れる」 「?」 「そうすると、遠ざかっていた人とかが戻ってくるな」 「……」 壬生はふと後ろを振り返った。 くだけたアスファルトとその残骸は、般若の攻撃で出来たもの。 その近くで舗装がへこんでいるのは、龍麻の円空旋。 よく見ると、街路樹(と言うか、家の庭に植えている木が外に張り出している部分)の枝があちこち折れているのは…ひょっとして、双流螺旋脚だろうか。 「逃げるぞ」 壬生が事態を把握したのを確認すると、そう締めくくって龍麻は駆け出した。当然ながら、壬生も後に続いていった。全力で走れば、この二人なら逃走は容易いものだった。 「慣れてるね、龍麻」 「何度か、あったからな」 かすかに息が上がる頃、二人は立ち止まっていた。 「そう言えば…結局、あれは誰だったんだい?」 「ん? …ああ」 龍麻は息を整えると。 「今度鳴瀧さんに聞けよ。“自分の決意は揺らいだりしない”ってな」 「そうだね。そうするよ」 ふっ、と壬生は笑った。 …が。 「それはそうと」 「? どうしたんだい、龍麻」 にやり、と龍麻が笑みを浮かべた。 「『僕は誰のものでもない』かぁ…なるほどなぁ…」 「――!」 はっ、と壬生の顔が青褪めてゆく。 「葵、ああ見えて結構、すぐ嫉妬するからなぁ」 「い、いや、あれは言葉の綾というか…い、言う気なのかい、龍麻!?」 それには答えず、くくく、と龍麻が笑う。…それが答えなのかもしれないが。 「忘れてくれ、龍麻! そうでないなら…」 「ん? どうするつもりだ? 勝てるつもりでいるのかよ?」 …終わらない二人であった。 |
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