「貴人」五幕



「しまった。話に気を取られて気付かなかった…」
 周囲には、濃い陰気が漂い始めている。一般人なら、無意識の内にここから遠ざかろうとするほどに。
「僕の所為、とか言う気かい?」
「べつにしねぇよ」
 既に龍麻の意識は何者かへと向けられていた。
『見ツケタァァ』
 しゃがれた女の声。近くの民家の屋根の上からだ。
 声の方へ壬生が顔を向けると、月を背負って、何者かがそこにしゃがんでこちらを見下ろしている。
 ざんばらな髪に、…妙に暗闇で閃く瞳。
 壬生と目が合うと、その何者かは哄いだした。分かりにくかったが、たぶんそうだろう。
『ヤット気ヅイテクレタノネェェ。アタシガズット、アナタヲ見テタコト…』
「ち、しっかり変生済みか」
 小さく、龍麻が呟く。
『アナタノ、オ友達…?』
 聞こえたのか、それはぎょろりと瞳を動かした。気のせいか、首が動いてなかったようにも見える。
『ナラ一緒ニ殺シテアゲルゥゥ。寂シクナイヨウニィ…』
 それが…元は暗殺組の仲間であった鬼が、だん、と屋根を蹴った。
『抱イテアゲルゥゥ…アナタノ血マミレノコノ手デェェッ!』
 空中で振り上げられた彼女の手には、鋭い鉤爪が並んでいる。さすがに、まともに当たればひとたまりもないだろう。
「避けろよッ」
「言われなくても…!」
 ドガン! と二人の間のアスファルトを砕いて、彼女が着地した。
 接近する事で、もう一つわかった事があった。
 彼女のこめかみから、一対の角が生えている事に。
「…本当に…」
 《鬼》であるならば、救いの術などない、という言葉が脳裏をよぎる。
 ――般若。
 愛憎の果てに狂って鬼となった、まさにその姿だった。

『逃ガサナイカラァァ』
 立ち上がりこそゆるりとしたものだったが、地を蹴ってからは早い。それは、龍麻ですら一瞬追いつけないほどだった。
「くっ!」
 振り回される爪を見を捻ってかわすが、同じ様でばらばらの動きをしていた何本かの爪が体を掠める。
 そして、わずかに遅れて、龍麻の声が響いた。
「避けろよ!」
 ぐ、と壬生の正面…般若の背後で空間が捩れた。圧縮された《氣》によってそうなっているように見える現象――
「た、龍麻ッ!?」
「円空旋!」
 新しい傷を作りながらも無理やり壬生が横に飛ぶのとほぼ同時に、般若の背に龍麻の気弾が炸裂した。
 衝撃に、般若が吹き飛ばされる。…回避しなければ、壬生も巻き込まれていたはずだ。
「どういうつもりだい!」
「だから先に言っただろうが!」
 言いながら、龍麻が壬生の元に歩み寄る。
 吹き飛ばされた先で、般若が身を起こしていた。動きが鈍いのは、かなりのダメージを受けたからだろう。
「来い紅葉。ケリつけるぞ」
 龍麻の凄烈な《氣》が壬生のもとに伸ばされている。それに絡めるように、壬生も《氣》を開放した。
「分かったよ」
 龍麻が自分を名前で呼ぶ事はそうない。そう言う時、龍麻の普段の威勢はどこかに消えてしまっている。多分、この時の龍麻は…紗夜の言っている“優しくて厳しい”彼なのかもしれない。
「陰たるは、空昇る龍の爪…」
「陽たるは、星閃く龍の牙…」
 般若は、沸き上る《氣》の奔流に気付いていないのか、そのまま壬生に近づき、爪を振り上げた。
「表裏の龍の技、見せてあげよう…」
 爪が振り下ろされる、まさにその直前。
「秘奥義! 双龍螺旋脚!」
 二人の蹴り技と、そして昇り行く《氣》が般若の体を打ち抜く。
 二人の耳に、耳障りな悲鳴が響いた。

『ア…アナタァ…ハ、アタシダケ、ノ…モノヨゥ…』
 打ち抜かれた《氣》に縛り付けられたかのように、棒立ちのまま、般若はうめいた。
「僕は、誰のものでもない」
 静かに壬生はそう告げたが、もはや鬼と化したものには届いてはいなかった。
「ドコニモ…行カセ…ハ…」
 それを最後の言葉として、一瞬の閃光を放ち、“彼女”は消えていった。
 ふぅ、と龍麻が体から力を抜く。そうすると、がらりと彼の纏う空気が一変した。
「お疲れ」
 ぽい、と太清神丹をほおり投げて、龍麻が壬生を労う。
「早くその傷、治せよ」
「珍しく優しいね。どうしたんだい?」
 龍麻の様子に、ふと微笑みを浮かべて壬生が訊ねる。
 龍麻は微笑みを返すと、告げた。
「もうすぐ、この辺りを覆ってるこの陰気が晴れる」
「?」
「そうすると、遠ざかっていた人とかが戻ってくるな」
「……」
 壬生はふと後ろを振り返った。
 くだけたアスファルトとその残骸は、般若の攻撃で出来たもの。
 その近くで舗装がへこんでいるのは、龍麻の円空旋。
 よく見ると、街路樹(と言うか、家の庭に植えている木が外に張り出している部分)の枝があちこち折れているのは…ひょっとして、双流螺旋脚だろうか。
「逃げるぞ」
 壬生が事態を把握したのを確認すると、そう締めくくって龍麻は駆け出した。当然ながら、壬生も後に続いていった。全力で走れば、この二人なら逃走は容易いものだった。
「慣れてるね、龍麻」
「何度か、あったからな」

 かすかに息が上がる頃、二人は立ち止まっていた。
「そう言えば…結局、あれは誰だったんだい?」
「ん? …ああ」
 龍麻は息を整えると。
「今度鳴瀧さんに聞けよ。“自分の決意は揺らいだりしない”ってな」
「そうだね。そうするよ」
 ふっ、と壬生は笑った。
 …が。
「それはそうと」
「? どうしたんだい、龍麻」
 にやり、と龍麻が笑みを浮かべた。
「『僕は誰のものでもない』かぁ…なるほどなぁ…」
「――!」
 はっ、と壬生の顔が青褪めてゆく。
「葵、ああ見えて結構、すぐ嫉妬するからなぁ」
「い、いや、あれは言葉の綾というか…い、言う気なのかい、龍麻!?」
 それには答えず、くくく、と龍麻が笑う。…それが答えなのかもしれないが。
「忘れてくれ、龍麻! そうでないなら…」
「ん? どうするつもりだ? 勝てるつもりでいるのかよ?」
 …終わらない二人であった。


終幕