ミコたちが町から吉報を持ち帰ってから、二十日ほどが過ぎた。
あれ以来、どういうわけかタケノスケはあまり父娘の元を訪れていない。
たまにやってきても、心ここにあらずといった風である。
だが心浮かれて地に足が着いていない……というわけではなく、どちらかというとなにやら考え事をずっと続けているといった感じだった。
最初のうちは、そんな彼の後ろからとつぜん目かくしをしたり、わき腹をいきなりくすぐったりして、からかっていたミコだったが。
タケノスケのほうも、そのつど笑ったり怒ったふりをしてみせたりと平静をよそおおうとするものの、しばらく目をはなすとまた考え込んでしまう。
例の読み書きの練習も、最近ではすっかりお留守になっていた。
当時のような緊張感はないものの、春先のまだ互いの正体が判らず手探りで付き合っていたころに逆戻りしてしまったかのようで。
絶対手放しで喜ぶとばかり思っていた相手の不可解な様子に、心配になったミコはとうとう父親に相談してみることにした。
「……もしかして、本当は嬉しくないのかな……?」
「そんなことはないだろう?
本人も「嬉しい」って言っていたし。
人間としての生活に強い執着と未練があるらしいってことは、夏の間一緒暮らしていて、よくわかっただろう?」
ペンを走らせる書面から目をはなすことなく、セイイチロウは書斎の入り口で盆をたずさえたままつまらなそうにしている娘に答えた。
季節は晩夏から初秋を経て、すっかり“秋”になっていた。
植物たちはいっせいに冬越しの準備にかかる。
特に滞在一年目である今年のうちにやっておきたいことは、それこそ山ほどあって。
野歩きに出る頻度は以前と変わらないし、そうでなくても夏の間に採取・採集したサンプルやデータなどのまとめ作業がたまっているのである。
そんな具合で、今のセイイチロウにはミコの問いにゆっくり構ってやれる時間がなかなか取れないのであった。
(あるいは、タケノスケにそのあたりを任せきりにしてしまっているところもあるのだが。)
「じゃあなんで、最近来ないんだろう?」
「そうだなぁ……もしかしたら、急になごり惜しくなったのかもしれないな。」
「なごりおしい……? どうして?」
「だって、お前。
タケ君は百年間、ずーっとここで暮らしてきたんだろう。
いわばこの森全体が家みたいなものだったんだ。」
言われて、ミコも思い出した。
この森へ引っ越してくるとき、荷造りしている間はそれほどでもなかったのに、出発直前になって急にそれまで住んでいた家との別れを意識したことを。
「でも、兄ちゃんはいつだってまた来ることができるんでしょう?
出入りが自由になるだけなんだもの。」
「そりゃそうだけど。
でも……人間は鳥のように簡単に空の上に行くことは、できないからねぇ。
飛べなくなったら見えなくなる景色も、たくさんあるんじゃないかな。」
「じゃあ、兄ちゃんはあちこちの景色を見納めに行ってるってこと?」
「そうかもしれない、って話だよ。僕はタケ君じゃないから。
…さ、もういいだろう?」
空になった湯呑みをミコに返すと、セイイチロウは再び文机に向かって書きものを再開した。
仕事のじゃまをするわけにはいかないので、ミコはそのまま書斎のとびらを後ろ手に閉めたのだが。
[そうなのかなぁ……?]
いまいち釈然としない。
多分、セイイチロウの言っていることも少しは合っているんだろう。
でもそれが全てとは、少なくともタケノスケの様子を見ているかぎりでは思えなかった。
多分……他にも何かある。
それが何かはわからないけれど…。
でもどんなに考えても、思い当たることはない。
(やっぱり、飛べなくなるのがもったいないって思ってるのかなぁ。)
ミコにしてみれば、自由に空を飛べるというのはとてもうらやましいことである。
おそらく大半の人間はそう思っているんじゃないだろうか。
とはいえ、タケノスケの苦労話を聞いていると、そんなこととても口に出して言うことはできなかったけれど。
そんなことを考えているうちにまた日が過ぎ。
本当に何の前触れもなく、またふらりとタケノスケが現れたのは、それからまた三日ほど経ってからのことだった。
「はいはい、明日お洗たくするから、着がえてね。」
顔を合わせるなり、食事の前に着替え一式を手渡すと、ミコは反論する間も与えずにタケノスケを書斎に放り込んだ。
……さすがに目の前で着替えられてはちょっと困る。主にミコのほうが。
昼間はともかく、さすがに朝晩は一枚よぶんに着ていないとつらい季節になっていた。
タケノスケに渡したシャツも、厚手の長そでのものになっている。
くつ下もわたしてあるのだが、こちらはどういうわけかタケノスケは嫌がった。
森林ではどんぐりが足元に転がり、人里ではもう稲刈りも終わっている時期だというのに、いまだにはだしのままである。
足が冷たいだろうから、とせっかく用意してやったのになぜはかないのか、と問い詰めたら。
「きゅうくつだから」と返ってきた。
この森で暮らしていた百年間はわら草履(ぞうり)すら無い生活だったし、そもそも郷にいたころから足袋をはくことも好きではなかった、という。
もちろん家の中だけでなく、外を歩くときもかならずはだしのままである。
「別にいいよ、おれは全然寒くないから。」
「見ているほうが寒いんだよう。」
くつ下だけでなく、タケノスケは全体的に薄着を好んだ。
彼の目にはむしろセイイチロウのほうが着ぶくれているように見える、らしい。
セイイチロウは夏場でも長そでの上着を着用している。
森の中を散策していると、するどい葉で切ったり、植物の汁で肌がかぶれたり、虫にかまれたりすることが珍しくない。
それを防ぐためである。
それを差し引いても、ミコもパパのあのいでたちは少し大げさなんじゃないかと思うことがたまにある。
が、それでも兄ちゃんよりはまだ常識の範囲……だと思う。
ともかく、この二人を並んで立たせたら今がどの季節なのか怪しく思えてくるほど、アンバランスなのだった。
(そして自分が最も常識的なんだと、ミコは思っている。)
そして、しばらくして着替えて戻ってきたタケノスケは、やっぱりくつ下をはいていなかった。
「そうは言うけどなぁ、ミコ。
洋服姿もずいぶん板についてきたじゃないか。」
厚手の綿シャツに薄手の毛織物で作られたチョッキ姿で現れたタケノスケを見て、待ちきれずにたくあんをつまんでいたセイイチロウが楽しげにつぶやいた。
「これなら、百年も前の人だなんて、言われなきゃ誰も気づかないよ。」
「くつ下とくつをはくことを、覚えてくれたら、だけどね。」
脱ぎたての、人肌のぬくもりがまだ残っている絣(かすり)の着物を受け取りながら、ミコは軽く眉(まゆ)を寄せた。
タケノスケと同じ時間を過ごしてきたこの着物は、着用者とは異なり繊維(せんい)がだいぶ弱っているので、ごしごしやることができないのである。
デリケートな上にタケノスケの思い出がこもっているこの衣類は、洗うほうも気を使うのだ。
そういう意味でも、ぜひいくらでも替えを用意できる(財布の中身と相談だが……)洋服を身につける習慣になじんでほしいものだ、とミコはつくづく思う。
そうすれば洗たくはもっと楽になるのに。
「……そうまでして、はかなきゃいけないものなのか……?」
「夏場ははだしに雪駄(せった)でもいいけどね。
でも寒い時期ははいてないと、やっぱりおかしいよ。」