手が使えるようになり、玄関とびらを開けて母屋へ入ろうとしたら。
「タケ君、ちょっと。」
片足を踏み入れたところで、食卓に陣取っていたセイイチロウに呼ばれた。
「はい?」
「すまないが、ちょっと来てくれないか。今すぐ。」
モモコとのやり取りの直後だけに、晴れない気分のまま屋根の下に入ってきたタケノスケだったが。
食卓の行灯(仕立てにしてあるランプ)にうつされた、セイイチロウの妙にうれしそうな様子に、なんだか嫌な予感がして、思わず足が止まる。
……どうしても、先日のやり取り――スザクソウとかいう花の一件――のことを思い出してしまう。
しかしそんなタケノスケの背を押した者がいた。ミコだった。
「ほら、早く早く♪」
こちらもなんだかそわそわと落ち着かない様子で、躊躇(ちゅうちょ)する少年の手をわざわざ引いて父親の前に連れ出した。
「すわって。」
なんだかわからないまま、タケノスケはうながされるまま椅子に腰を下ろした。
そのとなりに、ミコも同じように腰かける。
待ちきれないといった様子で、乗り出すようにしてセイイチロウの顔を見る。
それからタケノスケに満面の笑顔を向けた。
…………その笑みの正体が判らないだけに、なんだか不気味で。
逆にタケノスケの警戒心はますますつのるばかりである。
「タケ君。実はね。」
その様子に気づいているのかいないのか、セイイチロウが取り出したのは、一通の封書だった。
とはいえ、生まれたときから手紙というものに全く縁のなかったタケノスケには、紙を貼り合わせて作った小さな袋、としか認識できなかったが。
「おととい町に出たとき、タエコおばさんから手紙が届いていたんだ。
ああ、タエコおばさんってのは、ウメキチさんの直系の子孫でね。
……君のことが何か伝わっていないか、問い合わせていていたんだ。」
封筒の口を開くと、セイイチロウは中から折りたたまれた数枚の紙を取り出した。
便せんには青黒い万年筆の文字が、三枚にわたってつづられていた。
折られていた紙を広げ、タケノスケの前に差し出す。
しかしそこに記されていた文字は、タケノスケがミコから学んだものがちらほらと見受けられるものの、大半は初めて見るものばかりだった。
それもそのはずで、タケノスケが覚えたのは世の中で日常的に使用されているものの中でもごくごく一部、基礎中の基礎でしかないものばかりだった。
だから目の前に出された紙に記されている内容が何なのか、どんなに凝視(ぎょうし)したところで、タケノスケにはほとんどといっていいくらい理解できなかった。
「はぁ……。」
「その前に……ウメキチさんのことを少し説明しておこうか。
君がいなくなってから曽祖父さんがどんな人生を送ったのかが、ここに書いてあるんだよ。」
とくん、と心臓が妙に大きく脈うったのを、タケノスケは感じた。
幻紅鳥が救ってくれた命で生きた、ウメキチの時間。
見届けてやることができなかった、弟の生き様。
……自分が送ることができなかった、ごく平凡な人間としての一生。
それが、この三枚の紙切れの中に記されているのだと。
タケノスケがいっこうに便せんに手を伸ばそうとしないことに、父娘は顔を見合わせた。
「タエコおばさんが調べてくれたところによると……。」
九死に一生を得たウメキチは、しばらくは兄の帰りを信じて郷で過ごしていたらしい。
しかし失そうした兄と同じ歳になったころ、町へ働きに出たという。
姉が嫁ぎ、長兄ショウタロウも嫁取りをしたのが直接のきっかけだった。
町へ出たウメキチは、ある織物問屋に住み込みで働くことになった。
温和な性格で勤勉な上に次兄に似て手先が器用だったウメキチは周囲にかわいがられ、次第に大きな仕事を任されるようになっていった。
「仕事に必要だから」と読み書き計算を教えてもらったのも、そのころのことだという。
店主の紹介で良縁に恵まれて家庭を持ったが、農民の出ということもあり独立せずに、最後まで一従業員として勤めあげた。
しかし引退してからも故郷に帰ることはなく、そのまま家族のいる町で余生を送った……とのことだった。
「そうですか……。」
目を閉じ、じっとセイイチロウの説明に耳をかたむけていたタケノスケだったが。
ほう、と静かに息を吐き出すと、それだけつぶやいた。
郷とこの森での暮らししか知らないタケノスケには、ウメキチが出て行ったという町での生活など想像もつかない。
けれどセイイチロウの口ぶりからだと、ウメキチの一生は可も不可もない、といったところらしかった。
飛びぬけて偉くなったわけでも大きな富を得たわけでもないが、大きな災厄に襲われることも誰かの巻きぞえでひどい目にあわされることもなく、ひ孫(セイイチロウ)の顔を見て一生を終えられたというのは、きっとささやかで、けれどとても大きな幸いだったのではないだろうか。
そして今、タケノスケの目の前には、ウメキチの血を引くセイイチロウとミコがいる。
「ありがとうございました。
ここまで調べてもらって、本当に何とお礼を言ったらいいのか……。」
「待ってよ兄ちゃん、まだ続きがあるの。」
改めて頭を下げようとしたタケノスケのシャツのそでを、ミコがあわてて引っぱった。
その目はきらきらと輝いている。
彼女にとっての本題は、どうやらここから先のようだ。
だが自分では語ろうとせず、そのままうながすように父親へと視線を向けた。