『そりゃ、あたしたちも何かしら我慢しているよ。
あたしは綱(つな)無しではここから出してもらえないし、嬢ちゃんも旦那さんもいろなものをがまんしているってのはあたしにだってわかるさ。
けど……あんたががまんしているものは、あたしたちのものとはどうも質が違うように見えるんだよ。
……あんたが今しかめ面(つら)しているのも、どうせそのへんが理由なんだろ。』
しかめ面……なんかしていたんだろうか。
『生きていくためには、誰だって何かしらがまんしなくちゃいけない。
もしお前の言うとおりだとして……どうしお前にそんなこと言われなくちゃならないんだ。』
がまんならたくさんしてきた。
大切な家族と別れ、ときに人間としての誇りを失いそうになりながら、それでも約束を守らなければというただその一心だけで、気の遠くなるような時間を、孤独を、ただひたすら耐えてきた。
叫べども、泣きわめこうとも、誰かが声をかけてくれるわけでも触れてくれるわけでもなく、結局は吼(ほ)え疲れて消沈したところに自分自身で折り合いをつけるしかなかった。
そんな、そんな、語っても語り尽くせないほどの月日を、独りで乗り越えるしかなかったものを。
たかだか八歳だというモモコに、わかったような口で、諭(さと)されるなんてのは。
言い返したところで理解などしてもらえないだろうということなど十二分に承知してはいるけれど、しかしそれでもどうにもがまんできるものではなく。
怒りとくやしさと……それからなぜか哀しさとがない交ぜになって、ぐるぐるとタケノスケの内側で渦巻いていく。
『おれの何が、わかるっていうんだ!』
『ああ、わかんないね。』
しかしそんなタケノスケの怒りのオーラなどまったく気にする様子もなく、モモコはしれっと返した。
飼い葉おけの中はいつの間にかほとんど空になっている。
『どうせあんたのがまんなんて、昨日よりも前の、過ぎちまった昔のことさ。
すんじまったことにがまんするなんて、世の中で一番のムダだね。』
『な……んだと……?』
『だってそうじゃないか。
がまんしたところで、済んじまった何かが変わるってのかい?
今の境遇が変わるのかい?
だったらがまんするだけ損じゃないか。』
『損とか得とか、そういうことじゃないだろう!
これは約束なんだ、おれは願いをかなえてもらう代わりに、留守居を引き受けたんだ。
そして願いはかなった、だから……!』
約束の内容などモモコに言ったところで、それこそ無意味だ。
彼女はこの取引には何の関係も無いのだから。
けれど、言い返さずにはいられなかった。
……今までがまんしているとは、思ったことも無かった。
自分がしでかしてしまったこと――ウメキチを生死の境にまで追い込んでしまったことを考えれば、それに見合う“苦労”だと思っていたから。
だから、がまんなんて。
がまんなんて。
だが、そんなタケノスケの心情を嘲笑(ちょうしょう)するかのように、モモコは軽く鼻を鳴らした。
『……あんた、なんかかん違いしてやしないかい?』
その眼差しには、先ほどまでとは異なり、明らかな侮蔑(ぶべつ)の色がある。
『あたしは今まで二回お産をしてきたけど、生んだ仔とはどちらも二年と一緒に居させてはもらえなかった。
そして、息子たちとは死ぬまでもう二度と会うことは無いだろう。
けど、あたしはそれでいいと思ってる。
生き別れた息子たちよりも、今のあたしには嬢ちゃんや旦那さんのほうがずっと大事だからね。
……そういうことさ。』
モモコが飼い葉おけから小屋の脇に設置してある水おけへと移動したため、モモコの顔はタケノスケから見えなくなった。
見えるのは砂色の背中である。
そこにある種の貫禄(かんろく)のようなものが見えて、鳥はわずかに視線をそらせた。
『そして、あんたには嬢ちゃんよりも旦那さんよりも、あんたが言う約束とやらよりも、もっともっと大事なものが、あるんじゃないのかい?』
『そんなことはない。』
即答していた。
『約束よりも、ミコよりも、大事なことなんか、あるもんか。』
『…………そうかい。』
水に口をつけようとしていたのを中断して、モモコは目だけをこちらに向けた。
『さぁ、そろそろ向こうへ行っとくれ。
あたしゃまぶしいのは嫌いなんだ。』
冷ややかに言い放って改めて水おけに口をつけると、それきりモモコはタケノスケには見向きもしなくなった。
頼んでもいないのに一方的に説教されたわけだから、正直言ってタケノスケは面白くない。
面白くはないが、彼女が必ずしも間違ったことを言っているとは、思わなかった。
彼女には彼女がたどってきた人生(?)があり、その中ではきっと正しいことなのだろう。
けれど、それが必ずしもタケノスケの生き方にも副(そ)うものだとは、思えなかったし、思いたくなかった。
だから何か言い返してやろうかとも思ったが……どうにも気のきいた反論が思い浮かばず、仕方なく口をつぐむ。
たかだか八年しか生きていない相手に言い負かされたという事実は癪(しゃく)だったが。
よくよく考えてみればタケノスケ自身には子育ての経験も、自分の意思とは関係なく売買されたり譲渡されたりした経験もなく、そういう意味ではたった八年とはいえ、モモコはそれなりに密の濃い生き方をしてきた……ということなのかもしれない。
……少なくとも、約束した分の時が過ぎ去っていくことだけを、ただひたすらに待ち続けるしかなかった自分とは違って。
ともかくモモコが言うとおり、もうすぐ日が暮れる。
このままだと屋根から飛び降りることになりそうなので、タケノスケは今のうちに地上に降りることにした。