ミコとセイイチロウが森に帰ってきたのは、予定よりも一日遅れてのことだった。
何でも、途中がけ崩れが起きそうなところがあり、行きも帰りも大きく迂回せねばならなかったらしい。
「というわけなんだ。ごめんね兄ちゃん。」
いつものように紅い鳥が森の入り口に出迎えに来てくれなかったのはそのためだと思っているミコは、タケノスケを見つけるなりそう言って謝罪した。
実際は、タケノスケのほうが父娘の家から足が遠のいていたのだけれど。
山神の前で、ヤマイヌに対して思わず言い返してしまった自分の、あの言葉が、妙な形でタケノスケ自身の心に楔(くさび)のように食い込んだままになっていた。
もちろんミコたちはそんなことは一切知らない。
そんなことはわかっているけれど、どうにも二人と顔を合わせるのが気まずくて。
だから、彼らの様子がいつもと少し違うということに気づく余裕も無かったのである。
「大急ぎでごはん作るね。」
モモコの世話を手早くすませると、荷下ろしもそこそこに、ミコはいそいそと炊事場に向かった。
日暮れにはまだ間がある。
先ほど水場で米を洗っていたから、かまどに火が入るのはもう少し後だろう。
セイイチロウもまた、どういうわけか帰ってくるなり書斎に入ってそれきりなので姿は見えず。
気まずさと手持ちぶさたから、タケノスケはふらふらと別棟になっている物置へとやってきた。
物置ではあるが、父娘は少し改造して、ロバのモモコを入れる小屋として使っている。
案の定小屋の前では一仕事終えたモモコが、人間より一足早くのんびりと夕食にありついていた。
『あんたの口に合うものは、ここには無いよ。』
視界のすみに紅いものを認めると、モモコは顔をあげることもせず、無愛想に先手を取った。
青草を食むぼりぼという音がやけに大きく耳に届く。
『……別に食べ物を横取りしに来たわけじゃないよ。』
ただでさえ消沈しているところに、考えたこともないようなことを言われて、さすがにタケノスケはむっとした。
モモコは八歳(自称)である。バリバリの働きざかりだ。
タケノスケが昔住んでいた郷は貧しい山間の集落で、馬もロバもいなかった。
田畑の仕事と肥料をとるためのウシが、比較的裕福な二軒に一頭づついただけである。
初めてモモコを見たとき、そんな理由で物めずらしさが先に立ち、穴が開きそうなほど彼女を見物したのを、モモコのほうはよぉく覚えていた。
だからこの空飛ぶ紅いものに対してモモコは、邪険にはしないが、進んで関わろうともしない。
積極的にケンカを売ってくるチャップや、アニキと叫んでどこまでもついてくるタローの事を考えると、彼女の対応は実に無愛想といえた。
けれども今日は、モモコのそんな平坦さが少しばかりありがたく感じられた。
気を張ったり使ったりしなくていい相手というのも、やはり必要らしい。
モモコが寝泊りしている小屋の屋根に舞いおりると、タケノスケは軽く首をふった。
『なぁ……町にいる間、お前は何をしているんだい?』
『何も。』
咀嚼(そしゃく)を中断することなく、モモコは器用に答えた。
『人間たちを町へ連れて行って、ここへ連れて帰ってくる。
それがあたしの仕事さ。
それ以外のことは知らないね。』
『一緒に町に行っているのに?』
『町ってのは人間がたくさんいるから町というのであって、あたしの仲間がいるってもんでもないからね。
まぁ運がよければ会うことも、たまにはあるけど。』
面倒くさそうではあるが、ちゃんと返事が返ってくる。今日はきげんが良いようだ。
『町に行っても、お前の仲間はいないのか。』
『聞いたところじゃ、昔は顔なじみができるほどいたらしいけどね。
今はだめさ。
みんなオートバイとか自動車だとかいう、油くさい鉄のかたまりみたいなのに取って代わられちまってさ。
あたしも何度ぶつかりそうになったかわかりゃしないよ。』
そこでようやく面を上げると、モモコは勢いよく鼻を鳴らした。
鼻づらに乗っていた青草の切れはしが、鼻息に飛ばされて宙におどり出る。
『なのにあのオートバイってやつは、ぶつかりそうになっても“ごめんなさい”の一言も無い。
礼儀知らずもいいところさ。
人間ってのはあんなののどこが良いんだろうねまったく!』
前言撤回。
機嫌が良いどころか……話しているうちに怒りがぶり返したように見えるあたり、さては昨日あたりそういう目にあったのだろう。
『あんなやつらに比べたら、あんたのほうがよっぽどマシってもんさ!』
……相当腹にすえかねたようだ。
むしろモモコのほうが愚痴(ぐち)をぶつける相手を求めていたのかもしれない。
とはいえタケノスケのほうも、それで自身も気分をまぎらわすことができるのなら、むしろ歓迎だった。
もっとも彼には“おおとばい”だの“ジドウシャ”だの言われても、それが一体何なのかすらさっぱりわからないのだが。
そしてその正体不明のものと比較されて上で、それでもモモコにとっては『マシ』というレベルでしかないのか、と考えるとなんかちょっと複雑ではあるけれど。
それでも山神や“玄(くろ)いの”ことヤマイヌとのやり取りのことを思えば、モモコの言にはまだ温かさがある。
『……そりゃどうも……。』
『……あんた、人間の町に行きたいのかい?』
ふと、モモコがこちらに首を向けた。
といっても幻紅鳥同様ロバの目は顔の側面についているので、横顔を向けられた、というのが正しい表現なのかもしれないが。
思いもよらなかった反問に、タケノスケは一瞬めんくらった。
三度ほどまばたきをし、こちらは無意識にモモコから視線を外した。
『…………どう……なのかな……。』
『人間ってのは、群れで生活する生き物だからね。
仲間が大勢いる場所があるのなら、そこに行って加わりたいって思うのが自然さね。
あたしもそうだし……あんただって“仲間”がいるからここに通ってくるんじゃないのかい?』
『それは……セイイチロウさんたちがここに居てもいいって言ってくれたから……。』
『ほら、やっぱり仲間が目当てなんじゃないか。』
さも当然といったように、モモコは食事を再開した。
町から帰ってきた日の飼葉には、ミコはいつもニンジンやイモを多めに入れてくれるのだ。
『行きたいなら行けばいいじゃないか。
あんたはあたしみたいにつながれているわけでも、あのばかリスみたいにかごに入れられているわけでもない。
道が悪いからといって遠回りしなくてもいい便利なものまでもってるってのに、何をぐだぐだ言っているんだか。』
『…………それができるんなら……。』
とっくにやっているさ!という言葉は、かろうじて飲み込んだ。
言葉にしてもどうしようもないことだし、タケノスケの事情などモモコには知るよしもない。
いやそれ以前に興味も無いんだろうが。
『まったく、形(なり)は派手だってのに中身はうっとおしいったら。』
面倒くさそうに、モモコは首を振った。
いつの間にか彼女の周りには羽虫が集まってきている。
彼女の耳が神経質に動いているのは、どうやら一匹飛び込んだかららしい。
つながれている柱に左の耳を数度こすりつけると、雌ロバは軽くため息をつき、それからまた改めて鳥を見やった。
『……前々から思っていたんだけど。
あんた……結局どうしたいのさ?』
『どう……って?』
屋根の上から小屋の前にいるモモコを見下ろしながら、タケノスケはたずねた。
……胸が軽く痛んだのは、なぜだろう……?
先日からこっち、心がずっと不安定だったこともあって、モモコの問いは変な形で彼の心に突き刺さった。
『おや、あたしが何も知らないとでも思っているのかい。
ここに居てもね、“人間小屋(※母屋のことらしい)”でのあんたと嬢ちゃんのやり取りくらいは聞こえるんだよ。
…あんた、ずうっと何かをがまんしているね。』
長いまつげが密に並んでいるモモコの目が、軽く細められた。
小ばかにしたような、しかし気にかけているようにも見えるその眼差しは、なぜか山神から向けられたそれと似ているような気がした。