洞くつ入り口はほぼ東を向いているらしく、昼どきともなると日差しはほとんど差し込んでいなかった。
間口が成人男性が二人ならんで楽に歩けるほどある上に、ずいぶん奥まで続いているようで、少なくとも入り口付近からは突き当たっている様子はうかがえない。
そして、表に残されていた道のようなものは、そのまま洞くつの中へと続いていた。
足元は可能なかぎり平らにならされ、障害になりそうな小石や動物のフンなどもていねいに取りのぞかれている。
……夏の間に誰かが来てはき清めていったようだ。
その人工的に整備された通路を、紅い鳥は飛ばずに一歩ずつ歩いて進んでいった。
背後であの豊かな尾羽がさらさらと地面をこすっていくが、今日はそれすらかまおうとしない。
中に入ってしまうと、そこには暗闇が広がっていた。
光源が背後にしかないのだから当然である。
人も鳥も、明るい世界を好む生き物である。
光の少ない世界では思うように動けない。
目がなじむのに時間がかかり思わず足を止めたが、それでも次第に薄暗い世界になれ、再び歩みだす。
もしタケノスケに豊かな語彙(ごい/ボキャブラリー)があったなら、この空間に満ちている空気は、静謐(せいひつ)という言葉が最もしっくりくるように思われた。
例えるなら、黎明(れいめい)の、もやが朝つゆへと変わるときにまとう清浄さ、とでもいったところか。
夜明けの森にも似たようなものはあるが、それでもこの空間に満ちているおごそかさまでは持ち合わせていない。
通路はゆるやかに傾斜(けいしゃ)し、わずかに上っている。
その傾斜を上りきったところに、新たな人工物が現れた。
祭壇、である。
白木造りのうえ三段構えというなかなか立派なものだ。左右対称に素焼きの祭器と供物(くもつ)のなごりが必要最低限並べられている。
やはり定期的に人が訪れている証(あかし)だった。
かがり火をたく台もあるが、火は入っていない。
残り香もほとんど無い。
祭壇の前までやってくると、紅い鳥はようやく足を止めた。
同時に、音もなく台に明かりがともる。
熱を発しない、黄色い光。
それに導かれるように鳥は首を上げ、無感動に祭壇の最上段に目をむける。
その視線の先に、人の形があった。
いや、“人のような”形のもの。
それを何かに例えるなら、若い女性というのが最も近いだろう。
太すぎずさりとて細すぎもしない体躯(たいく)に白い肌、腿(もも)まであるまっすぐなぬれ羽色の黒髪は結わずに背へ流している。
身にまとうは紅葉を模した柄がちりばめられた、緋色の綾衣。
通った鼻筋に、ふっくらとした唇には薄く紅が差されているかのよう。
顔立ちは整っており、十人中九人は美人と答えるであろう風貌をしている。
糸のように細められた奥に宿る瞳もまた、月夜の水面のような輝きがあった。
しかし浮世離れした印象を抱かせるのは、祭壇の最上段にちょこんと腰掛けているその姿に一切重力を感じさせるものがなく、また彼女の体が薄ぼんやりと透けて見えるからであろう。
彼女もまた、高い位置から紅い鳥を見下ろしていた。
【……ご無沙汰しています。】
先に頭を下げたのは鳥のほうだった。
女性のほうは身動きひとつせず、静かに口の端を笑みの形にしただけである。
【……ほんに。】
短く、女性は答えた。
ほほ笑んでいるようにも見えるが、瞳は笑っていない。
【そもじが春分ではのうて、秋分にわらわを訪ねるとは。ほんに、ほんに。】
女性の言葉は耳ではなく、直接紅い鳥の頭に響いてくる。
それもまた、彼女が“ありふれた生き物”とは異なった存在であることを示していた。
人とも動物とも異なる、自然を超えた存在――今彼らがいる霊峰の化身、というのが彼女の正体である。
郷の者なら“山神様”と呼ぶ対象である彼女は、年に二度、昼と夜が等しくなる日に近在の神仙と面会するのがしきたりとなっていた。
【……会同よりも大切な用事でも、あったのかえ? “紅いの”。】
【いえ、そういうわけでは……。】
うつむいたまま、紅い鳥は必死で言葉をさがす。
しかし苦手意識も手伝って、なかなか言葉が見つからない。
……十分に想定していたはずなのに答えられないのは、下手な言い訳など通用しない相手であることを、いやというほど思い知らされているからでもあった。
先の会同が行われた日――春分のころといえば、クマタカに襲われ翼をひどく傷つけられたころである。
会同に参加するどころかねぐらへ帰ることもままならず、昼夜問わずじっと隠れて過ごし、夕暮れを待って父娘の家へ治療に通っていた。
……とは、言えなかった。なぜなら……。
そんな鳥の心情を察しているのかいないのか、山神は笑みを浮かべたまま見下す視線を外さない。
それがまた無言の重圧となって、紅い鳥にのしかかってきていた。
【……まぁよいわ。
半年遅れとはいえ、かように年改まる前に登りおったでな。
違えたわけではない。】
【ありがとうございます。】
うつむいたまま、さらに深く頭を垂れる。
言葉とは裏腹に相手の存在感はますます強くなる一方で、とても面を上げて正視できる雰囲気ではなかった。
【……して。変わりは無いかえ?】
【はい……あ、いえ……。】
【臭いな。人間臭い。】
突然、新しい気配がわいた。
いや、先ほどから居たのであろうが、鳥が気づかないほど気配が消えていたのだろう。
第三者の登場に、安堵するどころか紅い鳥はますます表情をかたくした。
山神の背後から、足音が近づいてくる。
こちらは実体のある重力をともなった足運びで、それは見なくてもわかった。
大きな獣である。
ウシほどもある真っ黒いヤマイヌが一頭、どこからともなく姿を現していた。
山神は相変わらず祭壇に腰掛けた姿勢のままわずかに首だけを動かし、ヤマイヌを視界に入れた。
【それはいたしかたなかろう。
こやつの中身は人間、“まがいもの”ゆえ。
人間臭くて当然よ。】
【いえ、こやつの臭さは今に始まったことではござりませぬ。
さりとて夏に来る修行僧のものとも違う。
……こやつ、人間と接しましたな。】
ヤマイヌから向けられているのは、殺気の一歩手前のものだ。
このヤマイヌが自分に対して好意あるいは厚意というものを一切持っていないということを、タケノスケはよく知っている。
その理由を知ってはいるが……反論しても無駄だということもまた、承知していた。
彼(といってもいいものか)の正体は、幻紅鳥と同じ仙獣である。らしい。
直接聞いたわけではないが、タケノスケが山神を訪ねてくるときは必ずと言っていいほど居合わせているから、多分そうなのだろう。
本来、土地を守護する神と仙人との間に主従関係は無い。
両者は全く別の社会(というものがあればの話だが)の中に存在するものであり、また仙人は本来土地に縛られないものである。
どちらが上、ということはないのだ。
幻紅鳥との約束を取り交わして一年が経ったころ、タケノスケは理由のわからない、強い義務感に襲われた。
この山を訪ねなければならない、という義務感は、どうやら幻紅鳥(タケノスケと約束を交わした相手のほう)の言う“留守居”という役目の中に含まれるもののようで、それ以来否応なくこうして毎年通い続けている。
しかしわけがわからないまま義務感に突き動かされて毎年通ってくるうちに、おぼろげながらその理由がわかってきた。
どうやら本物の幻紅鳥とこの山神との間には、遠い昔に何かしらの約束事が交わされていたらしい。
その内容はいまだにわからないが、少なくとも一方的に幻紅鳥が山神に支配されている、というわけではなさそうだった。
(タケノスケが山神に対して持つ苦手意識は、おそらく個人的な相性によるものなのだろう。)
そして、山神と約束を交わしているのは、本物の幻紅鳥だけではなさそうだ、ということも。
今目の前にいるこの大きなヤマイヌもまた、山神と約束を取り交わした仙獣の一頭らしい、ということは、通い続けている間に両者のやり取りから推測したことだった。
当たらずも遠からず、だろう。
ヤマイヌは、この霊峰を挟んで森のちょうど反対側にあたる地域にすんでいるらしい。
そこは幻紅鳥がすまう森以上に人間の立ち入らない深い山岳地域で、ヤマイヌの人間嫌いもそのあたりに起因しているようだ。
だからここで鉢合わせするそのたびに、こうして【臭い】と言って嫌悪をむき出しにしてくるのである。
毎年会同に参加する仙獣たちの中でも、このヤマイヌはとりわけ人間嫌いで有名だった。