嵐が過ぎ去ったあとは、いつもすばらしく良い天気になる。
さすがに翌日は後片付けに追われたが、翌々日には予定通り、ミコとセイイチロウはいつものように街へ買出しに出かけた。
嵐の影響で山道が通れなくなっているかもしれないという懸念(けねん)はあったけれど、約束があるとかでこれ以上延期はできないからというのが理由だった。
心配だったが、それでもタケノスケはいつもと同じように、森の外れまで二人を見送った。
そしてこのあとはたいてい、森の中で時間をつぶし、彼らが帰ってくるのを待つわけだが。
[……さすがに今度は、すっぽかすわけにいかないよなぁ……。]
森の緑の天井……林冠からひょっこり頭を出している岩場の上までやってくると、タケノスケは森の北側に連なる山々に目を向けた。
日光が直接当たるので岩場はすっかり乾いていたけれど、風に飛ばされた木の葉や小枝が散乱していて、あらためて先日の嵐の威力を思い知る。
……ああ、やはりミコたちの家に泊まっていって正解だった。
無理に帰ろうとしていたら、風にあおられて飛ばされて、どこかにぶつかって痛い思いをしていたにちがいない。
タケノスケの視線の先――森の北側の山地もまた、嵐の影響を大いに受けていることだろう。
それでも遠目に見たかぎりでも、山はいつものように泰然と構えていて、土砂くずれの形跡ひとつ見当たらない。
[……これが格の差ってやつなのか。]
そう考えると、空の色とは裏腹に、タケノスケの心はずんと重くなる。
彼の心中にだけ再び嵐が戻ってきたかのような気分だ。
しかし、後回しにすることはできない。
[ええい、嫌なことはさっさとすませるに限る!]
無理やり気分を鼓舞すると、紅い鳥は翼を広げ大空に舞い上がった。
秋らしい、どこまでもどこまでも青く高い、空。
嵐に吹き飛ばされた雲が少しずつ戻ってきているが、白いすじ雲は不安をいだかせるものではなく。
天候が回復したとはいえ、上空にはまだ強い風が残っている。
それをつかまえると、大きな仙鳥の体も楽に高みに運ぶことができる。
高く高く、普段は上らない、クマタカたちが活動する高度よりも、もっと上へ。
[ああ、やっぱりこの高さのほうが飛びやすいや……。]
こういうときでもなければここまで上ってくる用事も無いのだから、ある意味皮肉なのだが。
高みに来れば遠目もきく。
三回ほど旋回してざっと森全体の様子を観察し、大きな異常が見当たらないことを確認すると、タケノスケは風に逆らわないよう気をつけながら、首を北へ――森に隣接する山脈へと向けたのだった。
特別に許された日とはいえ、やはり森を出たとたんに体が重くなった。
毎度のこととわかってはいたけれど、それでもやはり不可視の境界を越えるのにはそれなりの勇気をようした。
気を抜くと萎(な)えそうになる気分を羽ばたくごとに鼓舞しながら、紅い鳥は山肌にそって斜面を回りこんでいく。
そうやって二つほど山を越えたところに、ようやく目的地が見えてきた。
周囲の峰峰からぽっかりと頭ひとつ飛び出している頂(いただき)。
吸い込まれるように、だが気力を振りしぼりながら、紅い鳥はその頂を目指して高度をさらに上げた。
このあたりまで来ると秋は一足も二足も先に進んでいるようで、眼下にちらりほらりと紅葉へと移りつつある木々が目に留まるようになってきた。
[一昨日(おととい)の風で、木の実が吹き飛ばされたかもしれないな。]
熟して重くなった実ほど、枝から落ちやすい。
この山にすむ生き物は冬じたくも森より早く始めているだろうから、さぞや困っていることだろう。
帰ったらそのへんも見回っておかないといけないかな、と頭のすみでちらりと考えながらも、先を急ぐ。
途中で休けいしようかとも考えなくはなかったが、一度翼を休めたら再び飛び立つのが億劫(おっくう)になるのは明白なので、ひたすら前だけを向いていた。
やがて、眼下に見える木々がしだいにまばらになってきた。
背の高い木はほとんど見当たらず、低木があちこちにかたまって生育している。
同時にごつごつとした山肌が、緑のすき間からのぞき見える。
岩と土とが混在した大地には、草花が張り付くようにして日の光を浴びていた。
ここまで飛ぶのを手伝ってくれた平地からの上昇気流も、ずいぶんと温度が下がって、羽毛越しでも冷たいと感じるようになっている。
……この高度ではもう“晩秋”に差し掛かっているのかもしれない。
気がつくと、日はずいぶん高くなっていた。
ミコたちは朝食をとってから出かけたから、別れたのも早朝というわけではない。
しかしそれでもそろそろ昼時に近いのは間違いなさそうだ。
重くなった体を引きずって(?)普段なれない高みにまで上ってきたわけだから、さすがに息が上がってきた。
幻紅鳥が渡り鳥でないことを、タケノスケはちょっぴり感謝した。
右手前方に、大きくせり出した一枚岩が見えてきた。
人間なら道具無しでは絶対に登れないような、ほぼ垂直に切り立つ岩の横を通り抜けると、対象的になだらかな斜面が姿をあらわす。
その斜面のほぼ真ん中あたりに、大きな穴がぽっかりと口を開けていた。
穴そのものは天然のもののようだが、入り口には草を編んで作った綱が左右に張られ、そこからいくつもの白い布片が規則正しくつり下げられて風にゆれていた。
また洞くつの入り口の前からは、明らかに踏み固められたと思しき道のようなものがのびている。
人の手が入っていることは明らかだが、人はおろか生き物の気配も感じられない。
……誰もいないようだ。
つかまえていた風を解き放つように一度旋回してから、紅い鳥は洞くつの前に舞いおりた。
とたんにずっしりとした疲労感を覚える。
森から出るといつもこうだ。
いや、“今日”“この場所”だからこの程度ですんでいるのであって、それ以外の条件ならばまるで見えない壁でもあるかのように、森からふみ出す気にすらならないのである。
ともあれ。
[やっとついた……。]
乱れた呼吸を整えるように、紅い鳥は大きく息をすい、はき出した。
空気も下界よりは若干うすいのかもしれない。
落ち着くと、今度は大まかに羽づくろいをする。
水浴びはしてこれなかったけど、嵐でぬれて泥状になったところに降りないように気をつけていたから、風にあおられて乱れたところ以外は取り立てて見苦しい部分はない……と思う。
それもひと段落すると、改めて紅い鳥は洞くつへと向き直った。
穴の左右には石碑(ひ)のようなものがひとつずつすえ付けられており、それぞれ表面には文字がいくつか彫られている。
しかし何と書かれているのかは、文盲だったタケノスケには大して意味の無いものだった。
今年になって多少読み書きができるようになったが、それでも覚えたのはごくかんたんな文字だけなので、やはりここに記されている文字を読み取ることはできなかった。
ひょうひょうという音を立てて吹きぬけていく山風に、飾り付けられている布片が休むことなくはためいている。
それらは、ここが取りも直さず神聖な場所であることを示していた。
[……さぁて、行くか…………。]
もう一度長嘆息して腹をくくると、紅い鳥はゆっくりと洞くつへ足を踏み入れた。