夕食が終わっても、どういうわけかタケノスケはいつものようにノートと鉛筆を引っ張り出してこなかった。
食器が下げられた食卓の上には、湯飲みが三つ。
行灯と同じ時期に買ってきたタケノスケ用の湯飲みは、早く冷めるからと磁器をあつらえてくれた。
食後のお茶が冷めるのを待っている……というわけでもないのだろうが、しばらくぼんやりと考え事をしているようだったが。
「ミコ。」
「うん?」
「あれ、どれくらいたまったかな? たのんどいたやつ。」
「あれ、って?」
「ほら、納豆の……。」
ああ……とつぶやくと、ミコは洗い物をしていた手を止めて、部屋の片隅からアルミ製の箱を持ってきた。
箱といってもけっこうな大きさがある。
ふたに印刷されている文字から、もとはせんべいの詰め合わせが入っていたようだ。
「兄ちゃんに言われたとおり、洗ってよく乾かしてからしまったから、においはしないと思うけど……。」
箱の中から出てきたのは、納豆を包んであった稲わらだった。それも箱いっぱいの量である。
一本手にとって具合を確かめているタケノスケのとなりで、ミコが「いっぱい食べたよねぇ……」としみじみとつぶやいた。
「うん、これならいいと思う。」
立ち上がると、タケノスケは昼間自分が座っていた小タンスに向かい、下から二番目の引き出しから何か取り出した。
太さのちがう木の枝が二本……いずれもそう大きくなく、手首からひじ程度の長さしかない。
ゴザを借りてきて床に敷き、その上にタケノスケはいつもの正座ではなくあぐらをかいて座った。
傍らにわらの入った箱、正面に二本の丸太。
「なぁに?」
やっと洗い物を終えたミコがやってくる。
少女が見ている前で、タケノスケは太いほうの丸太にわらをのせ、手にしたもう一本の丸太で軽くたたき始めた。
とんとんとん……というかわいた音が雨音にまじって土間にひびく。
「うん、こんなもんかな。」
しばらくして手を止めると、タケノスケは今しがたたたいたわらの感触を指先で確かめてつぶやいた。
ごわごわと硬かったわら束が、くってりと柔らかくなっている。
「たたくと柔らかくなるんだ?」
「筋がほぐれるんだよ。」
言いながら、新しいわら束を取り出し、またとんとんやり始める。
「……小さいころはさ、冬になると一日中こんなことやっていたりしたよ。」
「そうなの?」
「冬のあいだは田や畑の仕事はあんまりないし、雪がどっさりつもったら郷から出ることもできなくなるし。」
規則正しいリズムを刻みながら、タケノスケはぽつりぽつりとそんなことを語りだした。
「……うちは機(はた)織り機なんてなかったから、姉さんは二件先のおばさんの家までならいに行ってた。
兄さんは……親父から竹細工の作り方を教わっていたから、毎年稲刈りが終わると自分で採りにいって、冬の間中いろいろ作ってたっけ。
で、これがおれとウメのしごとだったんだ。」
「……わらをたたくのが??」
ミコが相変わらず手元を不思議そうに見ているのに気づき、タケノスケは小さく笑った。
「たたいておわりじゃないよ。
というより、これはまだ下ごしらえでしかないんだから。」
そんな話をしている間に、箱の中のわらは半分近くがたたき終わり、柔らかくなっていた。
「ねぇ、わたしもやっていい?」
「いいけど……けがするなよ?」
「だーいジョウブ、兄ちゃんにだってできるんだから。」
どういう意味だ? と言いたげなタケノスケの手からすりこぎサイズの丸太を受け取ると、ミコは早速とんとんやり始めた。
が。
「あ、あれ?」
「思ったよりむずかしいだろ? 本当は木づちを使うんだよ。
だからミコには…。」
熟練者の余裕からか、少年に少しばかり優越感が含まれる笑みが浮かぶ。
それがなんだかちょっとくやしくて、ムキになってミコは手を動かし続けた。
「おい、あんまり強くたたきすぎると切れちゃうから!」
あわててタケノスケがと止めたほどである。
そうこうしているうちに、箱の中のものよりもたたいて柔らかくなったわらのほうが多くなってきた。
「ねぇ、兄ちゃん?」
さすがにこのころになると、ミコもあきてきたようである。
何より、棒を持つ手がくたびれてきた。
「柔らかくするのはいいけど、これどうするの?」
「うん? まぁこれくらいあれば……。」
いたずら小僧のような笑みを浮かべると、タケノスケはたたき終えたわらを数本手に取った。
それを、両手のひらで挟むように持つ。
その状態でしばらく考え込んでいたが。
不意に合わせた手のひらをこすり合わせるような仕草をした。
同時に、はさまれていたわらがくるりと踊る。
そして。
「……ああ、良かった。おぼえてた。」
先ほどまでとは違う、なつかしそうな表情が少年の面(おもて)に浮かんだ。
くるりくるりと踊るわらが、タケノスケの手のひらの中で見る間にひとつになっていく。
「あっ、兄ちゃん縄(なわ)つくれるんだ!?」
目を丸くしたミコが、めずらしそうにタケノスケの手元をのぞきこんできた。
その間にも、わらから縄へと姿を変えたものは、継ぎ足されてどんどん長くなっていく。
「……うーん、短いからどうしても太くなっちゃうなぁ……。」
納豆を包んだわらは、端をとじたあと余分な穂先の部分を切り落としてしまう。
強度の問題があるからつなぎ目を短くすることもできないとあって、彼にとっては少しばかり不本意なようである。
けれど、たとえ不恰好だろうとなんだろうと、タケノスケが編むそれは“わら縄”には違いなく。
そういう技術があることも、田舎に行けば今でもわら製品が日常生活で使われているということも、ミコも知っていたけれど。
しかし、実際に作る場面を目の当たりにするのは初めてのことだった。
タケノスケは別段何でもないことのように言うけれど、ミコの目には兄ちゃんの手のひらの中で起きていることは、まるで魔法か何かと同じくらい不思議な光景に映った。
ためしに自分も同じようにわらを両手にはさんで転がしてみた。
が。
「あ、あれ???」
四本のわらは、くるくると同じ方向に回転しただけで、縄どころかからみ合う気配すらない。
「なんでー?」
「ただ転がしたってだめさ。」
明らかに面白がった風に応じながらも、タケノスケは手を休めない。
縄はすでに彼の肩はばの倍くらいの長さになっている。
「こんなもんかな。」
長さを確かめると、少年はそれまでかいていたあぐらをほどき、今度は両足を投げ出して座りなおした。
「ええと……どうだったかな……たしか……。」
つぶやきながら両足の親指に、なった縄をまるであやとりのように引っかけていく。
「道具を使う人もいるらしいけどね。
おれが習ったのはこのやり方だから。」
かけ終わるとタケノスケは、今度は別のわら縄を手に取り、縄の間をたがいちがいにくぐらせはじめた。
それを何度もくり返し、まるで布でも織るかのように密に詰めていく。
「???」
タケノスケの足元で何かが出来上がっていくさまを、ミコは自分の手を止めて乗り出すようにみつめていた。
最初のうちこそ遠い記憶を掘り起こしながらもたついていた指先も、もう迷うことなく流れるように動いている。
あの口ぶりだと、兄ちゃんは目をつぶっていてもできるくらい、この作業になれているらしい。
しかしそれを差し置いても、あのごつごつとした手があんなにしなやかに動くさまは少しばかり不思議で、あらためて手先の器用な人なんだなぁとミコは思った。
「ねぇ、なに作ってるの?」
「何って……。」
「ほう、わら草履(ぞうり)じゃないか。なつかしいな。」
不意に背後から声がふってきた。
ミコが振り返ると、先ほどまで食卓で書き物をしていたセイイチロウが立っていて、いつの間にか同じようにタケノスケの手元をのぞきこんでいた。
「なつかしい……今は使わないんですか?」
少し手を止めてタケノスケが面を上げた。
昨日の今日なので少しばかり表情がかたくなったが、本人もそのことは自覚しているらしく、あわてて表情をほぐそうとする。
しかし悲しいかな、長年そんな機微(きび)とは無縁の生活を送ってきたツケなのだろうか、どうにもぎこちないものになってしまう。
しかしセイイチロウのほうもそのあたりは心得ているので、気づかないフリをしてタケノスケの手元に向けた視線をあえてはずさなかった。
「うーん、使っている人も多分全くいないってわけじゃないんだろうけど……圧倒的に少なくなったのは確かだね。
履(は)き物屋へ行けば草履や下駄(げた)を扱っているけれど。
それでもわらで作った草履は、ほとんどと言っていいくらい見ないなぁ。
僕もミコも、靴(くつ)しか持っていない。」
「そうですか……。」
言われてみれば確かに、二人が草履をはいているところを見たことがない。
足首から先、あるいはふくらはぎから下をすっぽり包み込むような、革や布で作ったはき物をはいていた。
草履や下駄しか知らないタケノスケは、それはこの森の中を歩くためにわざわざあつらえたもので、二人が特別なんだろうとばかり思っていた。
ふと手元に目をやる。
はく人がいなくなった草履を、作る技術は、もう森の外では不要のものになってしまったんだろうか……。
しかし。
「えー、わたし欲しい。」
気を取り直して相変わらず縄をなおうと四苦八苦していたミコが、また手を止めてそんなことを言った。
「だって、兄ちゃんは自分であんだわら草履をはいていたんでしょ?」
「うん……ここへ来るとちゅうで失くしたから、ここではずっとはだしだったけどね。」
この森には、稲わらも、それの代わりになりそうな植物もない。
何より、鳥の姿で生活するのであれば、草履など決して必要なものではなかった。
食べ終わった納豆の包みわらを、ミコがたきつけとしてかまどへ放り込もうとしているのを目撃しなかったら、わらの使い道や草履のことなど思い出しもしなかっただろう。
「ならわたし、はいてみたいよ。兄ちゃんの作った草履。」
逆にミコにとって、わら草履はとても珍しい品だった。
小さいころ子供用の着物を着せてもらったときに、かわいらしい草履をはかせてもらったことはぼんやりと覚えているけれど、わらで作った草履はまださわったこともない。
わら草履って聞いたことはあるけれど、あれを素足にはいたらどんな感触がするんだろう。
ざらざらしているんだろうか、歩きやすいんだろうか、兄ちゃんが自分で使っていたくらいだから、きっとはき心地はいいんだろう。
そう考えたらわくわくしてきた。
作り方を教えてもらって自分でこしらえるのが一番かもしれないが、それよりも兄ちゃんが作ってくれた草履をはいてみたい。
「ね?」
「ああ……。」
返事をしたものの、すでにタケノスケは編むことに夢中になっているようだった。
まるでむさぼるかのように、彼の注意は完全にわらのかたまりに向けられている。
その表情は真剣で、だが喜びのようなものにじんでいるのが、ミコにもわかる。
「…………。」
だから、聞きたいこととか他にもあったけれど、なんだか声をかけるのが悪いような気がして、ミコは口を閉ざした。
けれど字の練習のときとは違い、不思議と不快だとは感じなかった。
その横顔があまりに生き生きしていたから、なんだろうか。
ジャマしちゃいけない、と純粋に思ったのである。
だから、だまって兄ちゃんの作業の様子をじっとみつめていることにした。
その間にも、タケノスケの作業はどんどん進んでいく。
たぐりよせた遠い遠い昔の記憶が、作業の手順が、まるで泉のように次から次へとわきあがってくる。
[そう、こうして、こうして、次はこうやって……。]
それが、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
イメージのほうがどんどん先に進んでいくので、手を動かす速度が逆におそく感じられ、まだるっこしさを覚えるほどだ。
やがて。
「これでよし。」
鼻緒(はなお)をとめ、飛び出した部分をセイイチロウから借りた剪定(せんてい)用のはさみで切り落とすと、タケノスケはようやく手を止めた。
長円形の平たいものがひとつ、ミコの前に差し出される。
少年の面には、おだやかな満足感が浮かんでいた。
「うわぁすごい! わたし本物初めて見たよ。」
「久しぶりなんで、ずいぶんいびつになっちまった。
とても売り物にはならないな。」
「そんなことないよ、上手だと思うよ!」
早速手にとってみる。
稲わらだけで作られたそれは、軽くて、でも意外なほどがっちりとした手触りだった。
網目が密な証であろう。
「……ちょっと小さくない?」
行儀(ぎょうぎ)悪くひざを立てると、ミコは自分の足のうらにできたての草履をあてがってみた。
試してみるまでもなく、明らかにサイズが合わない。
彼女はまだ十二歳の少女だが、それでも足のうらの四分の三ほどしか草履はかくしてくれなかった。
「仕方ないだろう、わらがなくなっちゃったんだから。」
タケノスケが言うとおり、稲わらは全て縄に編まれ、その縄も先ほど切り落とした残り――彼の手のひらいっぱい程度の長さしか残っていなかった。
「なんだぁ。でもどっちにしても片方だけじゃはけないか。」
「またわらがたまったら、もう片方もこしらえてやるから。」
そう言ってタケノスケは笑った。
「うん。あ、でもそうすると、あとどれくらい納豆を食べなきゃいけないんだろう……?」
「おれは毎日でもいいよ?」
「ムチャ言わないでよー。」
「わらなら、燃料屋へ行けば手に入るけど?」
食卓に戻って二人の様子を眺めていたセイイチロウがそう提案したが、しかしタケノスケが口を開くより先に、ミコが強く首を横に振っていた。
「燃料屋さんで買うんだったら、ものすごい量になるんじゃないの?」
「一俵単位だろうね。」
「どうやって持って帰ってくるのよう。それだけで荷車がいっぱいになっちゃうじゃない。」
「あぁ、そうか。」
もう、とミコは嘆息した。
パパは学者なんて偉そうな肩書きをもっていたりするけど、ときどき変に抜けている。
そういえば、町の友達も似たようなこと言っていなかったっけか。
ということは、男の人は多少の差こそあれそんなところがあるんだろうか。
そう考えながら、何気なくタケノスケのほうに目をやると。
少年はそんな二人のやり取りをきょとんとながめていた。
……それが単純に“燃料屋”というものも、ましてやわらなんてものをわざわざお金を出して買うということさえも、彼の常識から遠くかけ離れたものだったがゆえの反応だということにミコが気づいたのは、もう何年もあとのことである。
「それに、片方が納豆のわらでできているんだから、もう片方も同じもので作らないと! ダメだよ。」
それじゃなんだかありがたみがない。
というのが主な主張らしい。
セイイチロウはまだ何か言いたそうだったが、娘の剣幕に逆らってまで勧める気は無かったらしく、代わりにタケノスケのほうにちらりと目をやってから、だまって湯飲みに残っていたお茶を飲みほした。
「ねぇ兄ちゃん、これ、……もらってもいい?」
「ん? 最初からそのつもりだったから、いいよ。」
ミコが歓声を上げたのはいうまでもない。
その様子を、タケノスケはひざのわらくずを払い落としながらほほえましくながめていた。
家の外では、風と雨の音がますます強くなってきている。
風にあおられて、屋根や壁のもろい部分がきしんで静かなうめきを上げている。
ほの暗いランプの明かりの中、しかしそれでも人々は小さな団らんの中に、つかの間の平和をささやかに満喫するのだった。
夜はまだこれからだ。