いつの間にかうとうとしていた、らしい。
窓ガラスに小枝がぶつかった音で、タケノスケは目を覚ました。
風はなおもいきおいを増し、ガラスの向こう側はいよいよ暗く重く、夕暮れ間近なのかはたまた夜明け前か……といった風情である。
もっとも、まだ日中であることは、おのれの姿を見れば疑いないのだが。
夢を見た、ような気がする。
一面黄金色の景色が、ぼんやりと記憶の片隅に残っている。
あれはなんだったかな。とてもよく知っているもののようだったけど。
よく知っているけど……もうずいぶん長いこと見ていない景色。
なぜならとても見晴らしがよかったから。
森の上ならともかく、地面に降り立ってはあんな遠くまで見通せない。
遠くに山並、手前に土手。
黄金色の景色は、風が吹くたびに色彩がうねりとなって、まるで生きているかのように濃淡をめまぐるしく、けれど美しく波打たせて。
日の光。高く高く澄んだ空。
目をこらすと、小金の海の向こうに小さく、社(やしろ)が見える。その周りには竿が立てるための杭が、行儀よく並んでいる。
[ああ、稲刈りの季節なんだ。]
秋の収穫が終われば、人々はその年の実りに感謝し、また来年の収穫を神に祈る。
田んぼにはまだ稲が風に揺れているから、あの杭にのぼりが立つ秋の祭りは、まだ少し先の話だ。
稲穂はどれも重たげに頭をたれ、今すぐにでも刈り取りを始めても大丈夫そうで。
稲刈りとなると、農民にとっては一大イベントだ。
一年の苦労がむくわれる、喜びのときでもある。
朝から一家総出、いや近所の者の手も借りて、すっかり重くなった稲を、一株一株ていねいに刈り取っていく。
右手に鎌、左手に稲わら。
頭には日よけの手ぬぐい。
両親が亡くなってからは一人前の戦力として奮闘しているけれど、でもいまだにショウタロウ兄さんほど上手く稲わらで束ねることはできなくて、来年こそはもっと上手くなってやる、と毎年のように思ったものだ……。
[……どうして今頃、こんな夢を見たんだろう……。]
紅い羽毛の中にくちばしを沈めるほど丸くなりながら、タケノスケはぼんやりとそんなことを考えた。
もうずいぶん長いこと――それこそ十年二十年という単位で――故郷の夢など見なかったというのに。
[……忘れたわけじゃ、なかったけど………それとも、忘れようとしていたのかな。]
「兄ちゃん、あぶないからそこももう閉めるよ?」
不意に背後から声がした。
振り返るより先に、少女の手が伸びてくる。
立ち上がって場所をゆずってやると、ミコはガラス窓をわずかに開けて手だけ出し、よろい戸を下ろした。
うすずみのような屋外の光までもが遮断(しゃだん)され、室内のランプの光がこうこうと目に映るようになった。
[……人間の暮らしをさせてもらえるようになったから、昔の暮らしを思い出したのかな……。]
米を食べさせてもらえるから米のことを思い出した、というのであればずいぶん現金な話だが。
食卓の上にはケージが出してあり、リスのチャップが食事の真っ最中であった。
ヒマワリの種の皮が無造作に飛び散っている。
『……何見てやがる。』
視線に気づいて、不良(?)リスがにらみ返してきた。
『よく食うなぁ。』
『へっ、てめぇに言われたかねぇぜ。』
お前には一粒もやらない、とでもいうようにヒマワリの種をありったけほお袋に詰め込むと、チャップはさっさと背を向けてしまった。
しかし、ヒマワリの種というものを知ったのはミコたちに出会ってからだから、タケノスケのほうは別に欲しいとも思わない。
取り合わずその場にすわりなおした。
もう外は見えないから窓ぎわにいたところで見える景色は屋内だけなのだが……そういえばセイイチロウは戻ってきたんだろうか?
調理場ではミコがろうそくの光の中、夕飯のしたくを始めていた。
料理のことはよくわからないけれど、今日はあまり手の込んだものを作るつもりはないんだな、というのは素人目にもなんとなくわかった。
町へ買出しに出る前はたいていいつもこんな感じで、ようは食材のストックがとぼしくなっているのだ。
[そうか、近いうちにまた町へ出るんだな。]
予定はまだ聞いていないけれど、確かにそろそろ時期である。
父娘は一度町へ出ると、帰りはいつも翌日以降になる。
もともと人里遠くはなれた森の中の一軒家だ、留守の間も簡単な戸じまりていどで、それも野生動物に家の中を荒らされないよう最低限のものでしかない。
「出かけている間は留守番のつもりで、自由に使ってくれていいよ」とセイイチロウにも言われているのだが、タケノスケはその言葉にそったことは、実はまだ一度もなかった。
理由は……いろいろあるような、無いような……といったところだが、強いて言うのなら“居心地が悪い”からだろうか。
もちろん、ミコたちがいる普段は、とても居心地が良い家である。
最近では三日と訪ねない日はないくらいだ。
だが、父娘が出かけてしまうと。
この家の印象はがらりと変わってしまう。
少なくともタケノスケにはそう感じられる。
ここが元猟師小屋で、狩られた鳥獣のにおいが人の鼻にはわからないほどわずかに、しかし深く染み付いているから、というのももちろんあるのだろうけれど。
それ以上に、“人の気配の無い人家”というものが、タケノスケにはどうにもたえがたい何かを感じずにはいられないのである。
……同じ“一人”なら、森の中で過ごしたほうがずっと気楽だからなんだ、と気づいたのはほんの数日前のこと。
森の中での思い出は、初めてここへ着たあの日からずっとずっと“一人”のものでしかなかった。
だから“一人”は日常。
だけど、この家は。
初めて来たとき(気を失っていたところを運び込まれたんだから、“来た”とは言わないのかもしれないが)から、ミコとセイイチロウの存在が当たり前としてそこにあった。
ミコとセイイチロウが居てはじめて、ここは“家”なのである。
だから父娘が不在の間は、自然と足が遠のいていた。
多分今回もそうなるだろうし、そのつもりだった。
……湖のそばにあるあの集落跡地では、こんな感情を抱いたことはなかったのに。
[……あれ? そういえば……。]
首を持ち上げると、タケノスケはセイイチロウの書斎のほうに目を向けた。
いや、正確にはその向こう……北の方角に。
すっかり忘れていたけれど……そろそろなんじゃないか?
春はすっぽかしてしまったから、さすがに……。
「うん? どうかしたのかい?」
と、それまで食卓で本を広げていたセイイチロウが、その様子に気づき声をかけてきた。
書斎の窓も板でふさいでしまったため、日暮れ前から真っ暗で、読書どころか物にぶつからずに歩くことすら困難な状態である。
ランプの油を節約するために、こうしてひとつの部屋に全員が集まっているのであった。
しかし、一度仕事モードに入ると寝食を忘れて没頭するセイイチロウが、タケノスケのわずかな動きに読書を中断したということは、やはり集中できていないのであろう。
鳥らしからぬ“首を横に振る”というゼスチュアで答えると、タケノスケは無意識に彼から視線をそらしていた。
……どうにも昨夜の一件以来、セイイチロウに対して、妙なわだかまりのようなものができてしまっている。
そんなつもりは無いし、あちらもいつもととどこも変わらないというのに。
それでも。
スザクソウのことを尋ね迫ってきたあのときの、セイイチロウの目が、タケノスケの脳裏にくっきりと焼きついていた。
あんなセイイチロウを見たのは初めてだった。
もっとおおらかで、およそがめつさというものとは縁遠い性質の人だと思っていた。
少なくとも今まではそうだったし、きっと彼の本質はそれで間違いないんだろうとも思う。
けれど、あのとき、ほんのわずかだが、あの眼差しの中にあった、“ぎらついた”と例えられそうなほど強い探究心、それがタケノスケ――というより“幻紅鳥”をひるませた。
[……正真正銘、良い人だってことは、わかってるのに。
何をこだわっているんだろう、おれは。
おれだって……もしかしたら、あんな目を誰かに向けていたことが無かったかって、言い切れないじゃないか。]
そんなことを考えながら、再びずぶずぶと首をたたんでいく。
ダメだ、天気が悪いと気まで必要以上に滅入ってくる……。
そんなタケノスケの様子に、セイイチロウは少しばかりいぶかしさを覚えたようだったが、特に何も言わず再び手元に視線を戻した。
屋外ではますます雨風が強くなり、暴風雨と呼んでさしつかえないほどにまでなっていることを、壁やとびらやすき間風が教えてくれている。
そんななか、室内にはミコが包丁をいそがしく動かす音だけがしばらく響いていたのだが。
再び、タケノスケが首を上げた。
きょろきょろと周囲を見渡し、立ち上がると大急ぎで小タンスの上から飛び降りる。
床板に鳥のつめと尾羽がぶつかって、かわいた音をたてた。
そして、そのままうろうろと居間の中を歩き始める。
妙に落ち着きが無くすこしばかりあわてている様子はさながら……。
「ひゃう!」
とつぜんミコが悲鳴を上げた。
どうやら紅色の尾羽が彼女のかかとをかすめていったらしい。
「……どうしたの兄ちゃん?」
そわそわと室内を歩き回る大型の鳥に、包丁片手に首をかしげるミコ。
しかしタケノスケのほうはそれに構おうともせず、なおも室内をうろうろしている。
……というより、出口を探しているようにも見えるが……?
「外に出たいの?
でもひどい雨だから出ちゃ駄目だよ。」
声をかけてみるが、相手にされないどころか、かなり切羽詰っている感がその背中からにじみ出ている。
ちょっと心配になり近づいてみると……どういうわけかタケノスケは回れ右をしてあわてて逃げ出した。
「???」
ついていくと、逃げる。
「ミコ、危ないから包丁持ってうろつくんじゃない。」
「だってー、兄ちゃんが。」
「? タケ君がどうかしたのかい?」
とセイイチロウが尋ねたところに、紅い鳥が食卓の下に飛び込んできた。
それをのぞき込もうとしたところに。
閃光。
と同時に、がつん、というにぶい音と衝撃が、食卓を襲った。
一拍置いて、「いてぇ……」というつぶやき声。
さいわい直視せずにすんだが、それでも父娘が視力を取り戻すまでには少しばかり時間がかかった。
その間に、もそもそと食卓の下から誰かが這い出してくる。
後ろ頭を片手で押さえたままのタケノスケの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
……こちらはこちらで、目の前に星が飛んだらしい。
「あー……それで隠れるところを探してたんだ。」
一足早く視力が回復したミコが、しかしそれでも目をしぱしぱさせながら少年のほうを見た。
至近距離で包丁を向けられたタケノスケがぎょっとして一歩後ずさる。
後ずさったところにいすがあって、今度はひじをぶつける羽目になった。
「何だ、それならそうと言ってくれれば……って、無理か。」
「すみません、おれもうっかり忘れてました……。」
いつもならぎりぎりまで表で過ごし、屋外で日没をむかえる。
家の外になら、身を隠せる――二人から閃光をさえぎるものがいくらでもあるからだ。
今日は朝からずっと屋内に居たうえに、一日中考え事をしていたから、すっかり失念していた。
……失念するほどこの家になじんでいる、ということでもあるんだろうが。
とはいえ、こんな失態は迷惑をかけるだけなので、二度と繰り返さないようにしないといけないな、とタケノスケはおのれをいましめた。
「いやいや。
こんな天気の日は昼と夜の境があやふやだからね。
かえって助かるよ。」
「あはは、そうかも。」
「……おれは寺の鐘ですか……。」
言ってから、タケノスケは郷にあった小さな寺のことをふと思い出した。
周辺に寺はそこ一箇所しかなく、近在の集落に住む者たちはみなその寺の檀家だった。
日暮れの鐘を聞きながら、弟と二人で家路についたことも珍しくなかったっけ……。
「さて。日が暮れたって判ったし、さっさとご飯作っちゃうね。」
包丁を握ったままだということをようやく思い出し、ミコがぺろっと舌を出した。
そして何事も無かったかのように炊事場へと戻る。
その後姿に目をやりながら、人と鳥の姿を行き来する自分に全く動じなくなった二人に、タケノスケは改めて感謝の念を強くいだいたのだった。