「…スザクソウっていうのはね、絶滅が危惧(きぐ)されている……昔はどこにでも当たり前にあったはずなのに、今はほんのわずかしかなく、地上からいつ消えてもおかしくないような、そんな状況に追い込まれた花なんだ。」
少年から視線をはずし、文机のスケッチブックに移す。
その横顔にあったのは、先ほどまでのむき出しの探究心ではなく、いつものおっとりした表情だった。
「この家には以前、猟師が住んでいたことは、君も知っているね?
その人たちは今人里に降りて暮らしているんだけれども……この森でそのスザクソウを見た、という証言をしてくれたんだ。」
スザクソウの自生分布域は年々減少しており、植物学や自然を研究するものたちの間では、人が積極的に保護に乗り出すべきだという意見が出始めていた。
だが悲しいかな、それはあくまで一部の知識人・研究者の間での危機感であり、一般の人々にはなかなか認識してもらえない。
そしてスザクソウが自生できる環境を、開発という名で無意識に破壊を続けているのが、現状だった。
そもそもスザクソウが絶滅の危機にひんしている、ということを知る人自体が少ないのである。
そんなおり、スザクソウが多く自生する森がある、という話がセイイチロウの勤める研究室にまいこんできた。
そこは人の手がほとんど入らず太古の姿を今にとどめる、人里遠くはなれた森林なのだが、聞くところによるとその森林もまた開発計画が持ち上がっているのだという。
スザクソウだけではない、やはり今やほとんど姿を消してしまった貴重な原生林もまた、守らなければならない。
猟師の証言によると、この森のスザクソウは大群落を形成しているという。
ならばその希少(きしょう)性も含めて政府に訴えれば、この森林ごと絶滅危惧種を保護してもらえるのではないか。
そのためにはまず、スザクソウの自生の事実を、そして群落の存在を、確認・実証しなければならない。
たしかな証拠をそろえなければ、保護はかなわない。
こうして、セイイチロウは(連れて行けと駄々(だだ)をこねる娘をともなって)この森にやってきたのであった。
「僕はね、この森が好きだ。
……ここへ来る前から森全体を保護するべきだと考えていたけれど。
ここへ来て、実際に歩き回って、その思いはいっそう強くなった。」
タケノスケが描いた花の絵をみつめながら、セイイチロウはとつとつと言葉を重ねていく。
ランプの明かりは、静かに二人の男の顔を映し出していた。
「そうなると、やはりスザクソウの有無は大きな意味をおびてくる。
スザクソウの、絶滅危惧種の野生群落が確認できれば、それだけで偉いさんたちを動かす口実にできるんだ。」
そして、できるだけ早く見つけたいんだ、ともセイイチロウは付け加えた。
森林を開発しようという計画は、こうして話している間にもおそらく着実に進んでおり、そして……もしこの森が傷つき失われてしまうようなことにでもなれば、一度失われたものを取り返すには、それこそ人の営み程度ではおそらくあがなえないだろう。
「……情けない話だと思うよ。
権力にすがらないと、一本の木も、一輪の花さえ守ることができないほど、人々の視野が狭くなってしまったなんて。
でも……誰かが声を上げなければ、座(ざ)して滅びを待つだけになってしまう。
それは何としても避(さ)けなければ。
だから、スザクソウの群落がある場所を知っているのなら、ぜひ教えてほしいんだ。
……それがこの森を守ることになるのだと、僕は信じている。」
「おれは……、」
それまで身構えたままセイイチロウの言葉にじっと耳を傾けていたタケノスケが、ようやく口を開いた。
元の位置に座りなおしたが、今度はわずかに視線を伏せたまま、セイイチロウを正視していない。
彼にしては珍しいことで、それはつまりそのまま彼の心情を表しているともいえた。
「……森の外のことは、わかりません。
ゼツメツとかキグとかいうのがどんなことなのかも。
……おれが郷にいたころとは、世の中のものの考え方がどんなふうに変わってしまったのか、とかも。」
ひざの上のこぶしが一度、二度、強くにぎられる。
「でも、あなたたちと出会って、ここに出入りするようになって。
いっしょに森を歩いて。
まだ半年もたってないけど、あなたがかけねなしでこの森を好いてくれているんだということは、わかりました。」
どこかのすき間から迷い込んだのか、部屋の片すみから一匹のコオロギの鳴き声が聞こえてくる。
「だから、あなたが言っていることは、おそらく……本当のことなんでしょう。
おれの知らないところで、誰かがこの森に災いをもちこもうとしているらしいってことも。」
タケノスケの声は、先ほどの様子とは打って変わって落ち着いたものになっていた。
ゆっくりと、よく考えながら話しているのがわかる。
板ばりの床に視線を落としたままになっている少年を、セイイチロウはまっすぐ見すえたまま、うながすでなく静かに耳をかたむけている。
「あなたには本当にお世話になっているし、……ちゃんと一人前に人間としてあつかってもらえることを、とてもありがたいと思っています。
おんがえしを、力になれるんだったらできることはしたいって思ってます。
だけど……。」
そこで一度大きく息をつくと、タケノスケはゆるゆると頭を振った。
そこに浮かんでいるのは、苦渋の色。
相変わらずうつむいたままだが、その眼には別のものが映っているようだった。
「……ごめんなさい、おれには答えられない。
……答えたいのに、答えられない。
答えてはいけないことだから……理由はわからないのに。」
ぎり、と歯がきしむ音がわずかに聞こえた。
うっすらと浮かんでいるのはくやし涙か。
その様子を、セイイチロウは黙って見ていたが。
やがて軽く息を吐き出すと、小さくほほえんでみせた。
それは、先ほど話を切り出したときに見せたものとは違う、いつもと同じおだやかなものだった。
「それは……おそらく、幻紅鳥がこの森の守護鳥だから、なんだろうね。
……そう返ってくるだろうってことは、うすうす感じていたんだ。」
はじかれたようにタケノスケが面を上げた。
怒り、恐怖、疑念(ぎねん)、警戒(けいかい)といったものはなりをひそめ、代わりに驚愕(きょうがく)の色が強く出ている。
目を見開き、やっとセイイチロウの顔を正視した。
「シュゴ……?」
「今の君の言い分を聞いて、そうじゃないかと思ったんだ。
だって……君は自分のことは棚上げして、まずこの森に災(わざわ)いがおよぶことを恐れていた。
……僕の話がこの森に害になるようなことだったら、僕をなぐってでもここから出て行くつもりだったんじゃないのかい?
……いや、君にそのつもりが無くても、“幻紅鳥”がそうさせたんじゃないかな?」
「あ……。」
明らかに動揺の色を浮かべて、タケノスケは自分の右の手のひらを見た。
うっすらと汗の浮かんだ手を、軽く握って、ゆっくり開く。
「そう……かも、しれない……。どうして…………。」
手のひらだけではない、背中がうっすらと汗ばんでいるのに気づき、タケノスケは自分が思っていた以上に興奮(こうふん)していたことに気づいた。
冷静になってみれば、セイイチロウの話の内容は、それほどさわぎたてるようなものでないようにも思う。
「君と話していると、時々黙り込んでしまうことがあるだろう?
あれはどういうことなのかとずっと考えていたんだが。
どうやらそれも、これと同じ理由かもしれないね。
傷つくだろうから言わないでいようと思っていたんだが……君の感性には“幻紅鳥に”引っ張られているとしか思えない部分が、多々見受けられるように思う。
……君が子供のころ過ごした郷での環境を差し引いてもだ。」
「………………。」
それはつまり……自分でそれと気づかないうちに、心が人間でなくなっていっている、ということなんだろうか……。
「例えば、それまでどうということなかったのに突然火が怖くなったのも、“引っ張られている”ことのひとつなんだろうね。
自覚が無いだけで、他にもあるかもしれない。
……まぁそれはともかく。」
よいしょ、とつぶやいてセイイチロウは立ち上がった。
「この森を守る幻紅鳥がだめだと言っているのなら、それに逆らってまでスザクソウのことは聞き出せないな。
……おたがい、それがわかっただけでも収穫だよ。
困らせて悪かったね。」
軽くタケノスケの肩にふれると、セイイチロウはそのまま居間へ続く扉に向かった。
屋外にある風呂へ入りに行くのだという。
「どうやら明日は天気が悪くなりそうだ。
露天風呂といえば聞こえはいいが、天気に左右されるのが難だな。」
「まって、まってください。」
半分ほど扉を開いた手を止めて、セイイチロウが肩ごしに振り返る。
行灯(あんどん)ごしのランプの光の中、タケノスケは相変わらず正座したまま、体をこちらに向けていた。
「絶対だめ……ってことはないんです。
……うん、知られちゃいけない……わけじゃない。
ただ……おれからは何も言えない、それだけなんです。」
「……?」
ぐしゃぐしゃとタケノスケは頭を乱暴にかいた。
「ああ……なんて言えばいいばいいんだろう。
とにかく、秘密とか、そういうことじゃないから。」
もともとボキャブラリーの多くないタケノスケである。
おそらく彼(の中の幻紅鳥)には、最初から明確な答えがあるのだろう。
ただ、それを上手く定義し、他者に伝えるだけの技量が未熟なだけなのだ。
セイイチロウも学生時代、思うように論文が書けなくてさんざん原稿用紙を無駄にした記憶がある。
おそらくそれに近いいら立ちを覚えているのだろうと思われた。
「うん、言いたいことはわかったから。」
「……ごめんなさい、すこし時間をください。
もし本当にこれが“引っぱられている”ってことなら、このもやもやしたのがどういうことなのか、どうしたらあなたの力になれるのか、ちょっと考えてみます……。」
がっくりとうなだれる少年には、セイイチロウの目にもわかるほど疲労感がにじみ出ていた。
[何しろ曽祖父さんの代の人だからなぁ。
この森に来たときからずっと“引っ張られ続けている”のだとしたら……。]
“幻紅鳥の価値観”は、その間にじわじわとタケノスケの奥深くまで侵食していっているのではないか。
そんな考えがちらりと頭のすみをよぎる。
だが、こればかりはセイイチロウにもどうにもできない。
首をもたげた不安をおくびにも出さずわざわざ戻ってくると、セイイチロウはタケノスケの肩に軽く触れた。
「ここで暮らしていくのに支障がないのなら、まぁ、そう深刻になることもないだろう。
スザクソウにしたって、そもそも僕は自力で探し出すつもりで来たんだから。
……さぁ、もう遅いから今日は休もう。
あっちの部屋でへそを曲げているミコのご機嫌も取っておかないとな。」
「はい。」
うなずいたものの、ぼんやりとした行灯の光に映える少年の面から、くもりが晴れることはなかったのである。