話があるから書斎に来てくれないか、とセイイチロウに言われたのは、夕食も終わりかけたころのことだった。
そのころはまだ嵐もさわりでしかなく、せいぜい「風が強いなぁ」といった程度であった。
「はい。」
実はタケノスケ、セイイチロウの書斎には片手で数える程度しか入ったことがない。
そこは居住空間ではなく、あくまでセイイチロウの仕事場だから、というのが最大の理由であったが。
それを除いたとしても、あの部屋にはなんとなく彼の侵入を拒むような“何か”があるような気がして、なんとなく足が遠のいていたのである。
「ここじゃだめなの?」
軽くまゆを寄せてミコが問う。
わざわざ書斎に呼ぶということは、自分だけのけ者にされたようなものだ。
しかしセイイチロウはそれには取り合わず。
「たまには男同士で話をさせてくれよ。」
改めて拒否されて、少女はしぶしぶうなずいた。
十二歳にもなって聞き分けのない娘と思われたくなかったらしい。
夕食がすみ、先に書斎に入ってランプに火を入れると、セイイチロウは白い紙を張ったおおいをかぶせた。
小型の行灯(あんどん)だ。
これはタケノスケがこの家に出入りするようになって一月ほどたったころ、父娘が町で見つけてきたものである。
同じではないが似たような形のものが居間にも置いてある。
紙ごしなら直接炎は見えないのでこれなら大丈夫だろう……と持ち込んだのだが、それでもタケノスケがなれるまでにはそれからさらに一月ほどかかった。
いや、正確には“慣れた”というよりも“まだ我慢できる”といったところか。
その証拠に、続いて板の間に上がってきたタケノスケが座ったのはセイイチロウがついた文机(ふづくえ)の二歩手前、光が届くぎりぎりの位置だった。
イグサを編んだ夏ざぶとんに、いつものように背すじをのばして正座する。
軽くこぶしを作ってひざにそえているその姿は、かといって緊張している様子は見みうけられず、黙っていれば良家の子息と言っても通用しそうだ。
「なんですか、あらたまって。」
いぶかしく思ったのはタケノスケも同じだったらしい。わざわざミコのいないところへ連れ出されたのは、今日が初めてだった。
微笑になりきれていない微笑を浮かべると、セイイチロウは口を開く前に、文机の上に乗せてあったものをタケノスケに差し出した。
「使ってくれたんだね。」
スケッチブックである。
いつぞやミコが色えんぴつといっしょに買ってきてくれたものだ。
しかし色えんぴつのほうはこの場に見当たらない。
「あ……ええ……。
ここにおいといてもいいって……いうことだったんで……。」
まさか怒られるのだろうか、と構えつつタケノスケが答えると、セイイチロウは何か一人で納得したのか、二度ほどうなずいた。
「最初はえんぴつの使い方すら知らなかったものなぁ。
まさか一枚目でこんなすばらしいものが出てくるとは、正直驚いたよ。」
言いつつ、スケッチブックをめくる。
現れたのは、あの花の絵だった。
「これ……色がついていないから確証が無いんだけど……花や葉の形からスザクソウじゃないかと思うんだが。」
「さぁ……おれ、草や木の名前は、そんなにくわしくないんで…。
自分でかってに呼び名つけたりしてるけど、本当の名前とかはよくわかりません。」
自分の描いた絵を見せられて、タケノスケはめんくらっている。
セイイチロウが言わんとしていることが、わからない。
「いやいや、よく描けていると思うよ。
実物を見ずに……記憶だけでここまで描き込めるってことは、日常的に見ているってことだよね。」
「ええ……まぁ……。」
「この花の色は、何色?」
「ええと、赤い花です。」
答えながら、タケノスケはなんだか落ち着かないものを覚え始めていた。
そもそもこの部屋自体、そう居心地のいいところではない。
それはセイイチロウが町から持ち込んだり森から採取してきたさまざまなもののためではなく、それ以前……先の住人である猟師夫妻によるものが大きい。
そのころこの部屋はものおきとして使われていたらしく、猟でしとめてきた鳥獣の肉や毛皮などの一時保管がされていたようだ。
ミコからもそんな話はちらと聞いていたし、何より……この部屋にはセイイチロウとは縁の無いはずの、鳥獣の古い血の匂いがわずかだが残っていて、それがタケノスケ……というより幻紅鳥の感覚をささやかに逆なでしてくれるのだ。
彼がこの部屋に普段から近寄らなかった、もうひとつの理由である。
だが……今覚えている不快感は、どうやらそれだけでは説明がつかない。
正面に同じように座っているセイイチロウの、メガネの奥の目にいつもと違う輝きが灯っているように見えるのは、気のせいだろうか?
「なるほど。じゃあスザクソウはやっぱりこの森にあるんだね。
それも、君が普段から日常的に見かけるほど当たり前に、存在する。」
胸の奥がざわりと騒ぐ。
セイイチロウが心なしか興奮しているように見えるのがまた、不安をかき立てる。
スケッチブックをたたんで文机に戻すと、植物学者はずいと身を乗り出してきた。
「ああ、やっぱりこの森にあったんだ! 間違いない!
タケ君、どこだ?
スザクソウは、いったいどこに咲いているんだ、教えてくれ!!」
反射的に、タケノスケは後ずさっていた。
セイイチロウらしからぬ様子に、今までばく然としていた不安と不快感が、急速に形を成していく。
それは受け入れられないものだ、と頭の奥のほうで何かがはげしく警鐘を鳴らしている。
「タケ君! 頼む! いったいどこに……。」
セイイチロウを見据えたまま、タケノスケは無言のまま首を横にふった。
今はあの、行灯の内側で揺れているものよりも、セイイチロウの眼差しのほうがはるかに恐ろしいと感じる。
正体不明の源からわき上がる強い不信感と、今まで築いてきた彼への信頼とが、激しくぶつかって、ゆれて、この部屋から飛び出したくなる衝動(しょうどう)に突き動かされる。
けれどそれが何故なのかは、タケノスケ自身もわからないまま。
ランプの明かりに映し出されるほの暗い室内、タケノスケの目にともっている強い警戒の色が、人間のそれでなく野生動物の――春、彼が初めて父娘の前に現れたときのそれと同じだと気づき、植物学者はようやく我に返った。
タケノスケは相変わらず無言のままセイイチロウをみつめて……、いやにらんでいるといっていい。
まるで何かに取り憑かれているかのような強い拒絶と対抗の輝きに、セイイチロウはタケノスケ以外の意志のようなものを感じた。
それは、例えるのならば、まるで……。
「ああ、いや……。ごめん。
君を困らせるつもりは無かったんだ。」
深呼吸をすると、セイイチロウは自分のざぶとんに座りなおした。
はやる気持ちを落ち着かせ、改めてタケノスケに向き直る。
しかしタケノスケは相変わらず身構えたまま、目に強く不信の色を浮かべている。
もう一歩踏み出せば、敵意といってもいい眼差しだった。
「……そういえば、話してなかったね。
僕がこの森に来た、そもそもの理由を。」
「……その、スザクソウとかいうものを、さがすためですか。」
「うん、まぁそのとおりなんだが。」
ぼりぼりと頭をかくと、セイイチロウは正座を崩し、あぐらをかいた。