火の始末はきちんとした。
食器はそのあたりの草で大まかに汚れをふき取り、汚れた葉は火にくべた。
手近のやぶを適当に刈ってきて敷き、上に毛布を広げると、敷き布団の代わりになる。
もちろん寝心地は格段に劣るが、それでも地面に直接横になるよりははるかにマシだ。
夜明けが冷え込むのは季節を問わず同じで、日中はまだまだ暑いとはいえ、それも峠を越えた時期とあっては、布団をきちんとかぶっていないと自分のくしゃみで目を覚ますことになりかねない。
簡易の寝台で眠りについているのは、セイイチロウだった。
彼が背負ってきた寝袋の中にはミコが納まっている。
袋状になっているから、こちらのほうが虫の進入をより気にせずにすむのだ。
しかし、父親よりも快適な環境で横になっているというのに、昨日も一昨日も歩き詰めで十分に疲れているというのに、ミコのまぶたはなかなか重くなってくれなかった。
おおいかぶさるように広がっているのは、木々の枝葉。
緑の天井も日が暮れた今とあっては黒々としか見えず、すがすがしさどころか重苦しさを与えてくるばかりだ。
けれどそれも昨夜までとは異なり恐ろしいとまでは感じないのは、やはりすぐ近くにタケノスケと父の二人がいてくれるという安心感があるからなんだろうか。
あるいは、またたく星の光を幾重にも重なり合う葉のすきまから見つけることができるからか。
新月でも満月でもない夜は、目をこらしさえすればぼんやりと物のりんかくくらいは判別がついた。
除虫菊を原料とした市販の忌避(きひ)剤が枕元に置いてあるので、耳元をかすめる蚊の羽音を気にせずにすむのは幸いか。
代わりに忌避剤独特の香りとたき火の残り香が鼻をつくのは、まぁいたしかたあるまい。
……こうして大地に近いところに耳を寄せると、普段は聞こえないものまで聞こえてくる。
秋の虫の音はますます盛んで、室内にいればそんなに気にならないものでさえ、今日はなんだか耳につく。
それどころか、厚く敷き積もった腐葉土や草の間を通り抜けていく虫たちの足音まで、うっかりすると聞こえてきそうだ。
[野宿は初めてじゃないのに。]
確かに、初めて屋外で寝ることになった日も、こんなふうに寝付けなかった思い出がある。
見るもの聞くもの肌に触れるもの、一つ一つが発見の連続で、寝るだなんてそんなもったいないことできやしなかった。
けれど、回数を重ねるうちに、そんなこともなくなっていった。
珍しくてたまらなかったことも、“いつものこと”になればさほど気にならなくなる。
現に昨日だって、やることをすませたらさっさと横になって、(いろいろと思うことはあったけれど)次の日に備えて眠りについたのだ。
それが今日に限って、どうして睡魔はこんなにも遠慮しているのだろう。
そんな必要ちっとも無いのに。
さっきから何度も何度も寝返りをしているのに、寝袋の中身に体温から移った不快な熱がこもるばかりで、ミコはとうとう半身を起こした。
体中がべたついて、まるでうすい膜(まく)でも張っているような気がするのも、眠れない理由のひとつだろう。
それもそのはずで、家を出て以来風呂に入っていないからだ。
当たり前といえば当たり前だが。
代わりに、たまたま見つけた岩清水のわき出しているところで、固くしぼったタオルで体をふいたのだが、それも昨日の昼過ぎの話である。
……家に帰ったら、何はさておきまず真っ先に風呂をわかそう、そうしよう。
遠くで鳴いているのは、フクロウかミミズクか。
動物好きではあるが、鳴き声を聞き分けられるほどにまではくわしくない。
兄ちゃんは、この森にはクマタカのつがいが複数すんでいると言っていた。
なら、フクロウの家族もあちこちにいたっておかしくない。
枝葉のすきまから、小さな光の点がいくつものぞいている。
意に反して冴(さ)え冴えとした頭をもてあましながら、ミコはぼんやりと星々を見上げていた。
生き物の、気配がした。
身じろぎする息づかいは、ミコよりもずっと上のほうから伝わってくる。
そこにはあの、高くそびえる(がけ)崖があるはずである。
「……兄ちゃん、起きてるの?」
返事を期待してのものではなかったので、つぶやくような音量でしかなかったが。
「……なんか、ねつかれなくて。」
応じる声は、ごく当たり前のように返ってきた。
こちらも、すぐ目の前にいるかのような、つぶやきに近いものだった。
「へぇ、夜ふかしの苦手な兄ちゃんでも、そんなことあるんだ。」
「時々あるよ。そうだな、何年かに一回くらいは。」
声のするあたりに目を向けるが、もともと人目につきにくい場所な上に光源が月と星だけとあって、相手の姿は全く見えない。
だが声の調子や夜の空気ごしに伝わってくる気配から、夕飯のときと同じように横穴から顔だけをのぞかせているらしい、ということは想像がついた。
……いつぞや道に迷ったとき、タケノスケは真っ暗な森の中をミコの手を引いて家まで連れ帰ってくれたから、夜目は利くのだろうが。
ミコが声のほうに顔を向けても、これといった気配の変化は伝わってこない。
もしかしたら少年もまた、星空を見上げているのだろうか。
……話したいことは、山ほどあった、はずだ。
悔しかったこともそうだし、腹が立ったこともそうだし、それと同じくらい悲しかったこともまた、タケノスケを見つけたら全部叩きつけてやろうと思っていた。
けれど、いざ話ができる段になってみると……ミコは、ぶつける“言葉”そのものは、実はそれほど多くないことに気づいた。
結局、さっきの一言に全て集約されていた、らしい。
だから……改めて対話できるようになると、とたんにどうしていいのかわからなくなった。
いまさら何を言ったところで全部後付けだし、何よりなんだか“言い訳”っぽくて、嫌だったのだ。
……何か言わなくちゃ、とは思うんだけれど……。
そんなミコの右往左往する心の動きを察しているのかいないのか――いや察せるのであれば、そもそもここまでこじれることは無かったはずだから、どうせ気づいちゃいないんだろう――、タケノスケもまた、無言のままである。
再び沈黙がミコを包み込む。
虫の音は相変わらずやかましいほどだが、この重苦しい空気の中では、騒音にすらならない。
タケノスケの気配を強く意識しながら、ミコは何か適当な言葉はないかと、必死に頭を働かせた。
なにか、何か、気のきいた言葉……。
「ごめんね。」
無意識にこぼれ落ちた言葉は、ミコが用意しようと思っていたどんな種類のものとも、異なっていた。
自分でも驚いたが、でも出てきてしまった言葉が実は今の気持ちに一番しっくりくるものだと気づき、納得する。
タケノスケからの反応は、無い。
「その……怒鳴ったりして。」
もぞもぞと寝袋の中で身をよじる。
袋の合わせ目からあらわになった素肌に触れた夜気は、思ったよりひんやりしてて、心地良かった。
「あのね、わたしね……当たり前だと思っていたの。」
あれ、わたし何を言っているんだろう。
頭のすみでそう思う。
けれど、あふれ出した言葉は、もう止まらなかった。
「……兄ちゃんがいるのが、当たり前だと思ってたの。
いなくなっちゃうなんて、考えたこともなかったの……。
ずっとずっと、一緒に暮らせるんだって、家族になったんだって、思っていたから……。」
相変わらず、タケノスケの顔は見えるわけなどなく。
彼がどんな表情で聞いてくれているのか、いやそもそも聞いてなどいないのかもしれないけれど……それでも、夜の向こう側にいるはずの彼に向かって、そして自分自身に向かって、ミコは一生懸命語りかけ続けた。
「だからね、……兄ちゃんに読み書き教えたの、ちょっと後悔したんだと思う。
本当は、そんなこと思っちゃいけないのに。」
あんなに何かに打ち込んでいるタケノスケの姿を見たのは初めてで。
その横顔に見とれたのはたぶん事実なんだけど。
でもそれ以上に。
「……勉強に兄ちゃんを取られちゃったような気がして、それで……悔しかったんだって。
やっと……わかったの。」
森の中の一軒家。
住まうのは父と娘と、居候(いそうろう)。
セイイチロウは仕事に追われ、タケノスケは連日むさぼるように文字と向かい合い。
ミコひとりだけが、なんだか取り残されてしまったような気がして。
いつものように、ただ笑って、話をしていたかった、だけなのに。
ほんの少しでもいいから、こっちを向いてほしかった、だけなのに。
「わたしが、わがままだった、だけなの……。
だから……。」
帰ってきて。
とまでは、さすがに気恥ずかしくて口にできなかったけれど。
「ずっと……。」
ぽつり、と言葉がもれたのは、頭上でのこと。
今まで以上に耳をすまして、ミコは息をひそめた。
「ずっと変わらないものなんて、あるのかな……。」
それは、ミコに対して発せられたものというよりは、独白に近いような印象だった。
それでもいい、一語も逃すまいと、意識を集中する。
「……おれも郷(さと)にいたころは、そのくらしが当たり前なんだと思ってた。
とにかく昔から、郷のくらしなんてものはずっと同じことのくり返しで。
おれも親やじいちゃんばあちゃんとかと同じように、死ぬまで土いじりして、ふつうに郷にほねをうめるもんだと信じていたし、……それ以外の明日なんて、考えたこともなかった。
でも…。」
あの日をさかいに、彼の人生は大きく変わった。
そして何十年もの時を越えて、今こうして、玄孫(やしゃご)の代の者と言葉を交わしている。
それは、タケノスケがそのまま郷にとどまっていたならば、到底ありえなかったことだ。
「ねぇ、ミコ。
たぶんこの世には“ずっと”とか“絶対”とかいうものは、ないんだよ。
……この森の中でさえ、そんなものはないんだから。」
圧倒的な権勢を誇り、向かうところ敵無しと思われたヤマイヌの頭も。
何度も大怪我を負いながらも生き延びて、殺しても死なないんじゃないかとさえ思われた大クマも。
おそろしく賢くてかつてないほど群れを栄えさせ、タケノスケ自身もひそかに一目置いていた雄ジカさえも。
“ずっと”も“絶対”も無かった。
「だから……おれたちにも“ずっと”や“絶対”はないんだと思う。
……それが、おれのみちのためなのか、それともミコのつごうになるのかは、わからないけれど……。」
ずきん、とミコの胸の奥が激しくうずいた。
……無意識に考えまいとしていたことを、ここまでストレートにぶつけられるとは思っていなかったし、ぶつけてほしくもなかった。
わかっていたことだ。
ミコがこの森に来たのは、父親の仕事にくっついてきたからだ。
だから、父の仕事が終わったり、誰かと交代することになったら、ミコもここにとどまることはできない。
いつかは、去らねばならない日が来る。
その日が一日でも遠くなることを、祈るしかない。
目元がじんわりとしてきたミコの耳に、少年の声が穏やかに続く。
「……“さよなら”ってやつは、いつもとつぜんやってくるんだ。
それも、思いもよらないところから。
……いつかは来るものなんだって、わかっていたはずなのに。」
それは、実際に経験してきた者の言葉だからこそ持つ、重み。
「……この森に来てから、いやこの森に来たときから、もうなんどもなんども、そんなことをくりかえしてきたけど、……今でも慣れないってのが本音だな。」
責めるでなく諭(さと)すでなく、ましてや語り聞かせるでもなく。
タケノスケの声音はあくまで淡々としている。
姿が見えないこともあって、彼の言葉は実際に生きてきた時間相応の世代――どころか、皮肉にも仙人然として、ミコの耳に届いた。
つまるところ、老人のそれだ。
そしてそれは、ミコがタケノスケを“少し遠いもの”として感じるときのものでもある。
そう、いうなれば人生の大先輩としての。
「でもさ。」
それまで誰にともなくつぶやいていた(ように聞こえた)タケノスケの声が、不意に、明らかに自分に向けられたものへと変わった。
いつもと同じ、外見に相応しい、少年の声音だった。
「今日ミコに言われて、……さすがにちょっと考えた。
いくら“さよなら”がいきなりやってくるんだとしても、それでも……何も言わないで別れるのは、……だれだって悔いがのこるものなんだって。
だから……。」
そこで一度言葉が途切れ、再び沈黙の時間が訪れた。
コオロギの歌も、鈴虫の音色も、ミコの耳には届かない。
まるでここだけ時間が止まってしまったかのように。
まるでここだけ“永遠”が本当になったんじゃないかって、錯覚(さっかく)できそうなほどに。
「もう、だまっていなくなったりしないから。」
それはあまりに自然で、あまりに気負いがなくて。
まるで呼吸の延長のような宣言だったけれど。
でも確かに、ミコの耳にはっきり届いていた。
「いつか、いつか……それがずっと先のことなのか、それともすぐ近くにあるのかまでは、わからないけど。
でも……本当にミコたちと会えなくなる日が来たなら、ちゃんと“さよなら”って言ってから、いなくなるから。
だから、それまでは、いなくならないって、やくそくするから。」
多分それが、幻紅鳥との契約を履行(りこう)中である今の彼にできる、精一杯の“約束”なのだろう。
少なくとも、いくつもの約束を同時にかかえていられるほど器用な人ではないように思う。
明るさからも距離からも角度からも、こちらの顔は見えないはずだとわかっているのに、ミコはタケノスケに背を向けた。
多分今、自分は人には到底見せられない顔をしている。
……鼻をすすった音は聞こえてしまったかもしれないが……。
「だから……。」
「うん、わかった。」
その先の言葉をなぜか聞きたくなくて、ミコはあわててさえぎった。
「わかったから、まだ“さよなら”のことは言わないで。
まだ考えたくないもん。
忘れていたいもん。
だって、本当にそのときがくるまでは……家族なんだから。」
「うん……。」
さわさわと、頭上で大木の枝葉が静かに揺れている。
風が出てきたのだろうか。
タケノスケに背を向けたまま、ミコはそっとそでで涙をぬぐったのだった。
夏が終わる。