ミコとセイイチロウは、同時に顔を上げた。
その声に、とても聞き覚えがあったからだ。
今の今まで、二人が必死に目をこらしていた岩の陰。
そこに何か丸いものが現れている。
残照さえ届かないくぼみの奥にあるものを見届けるには今しばらく目が慣れるのを待たねばならなかったが。
「なんでこんなところに?」
口が動くのが見え、ようやく目鼻立ちが判別できるようになってきた。
崖(がけ)の途中から乗り出すようにして現れているのは、肩から上。
目も口もまん丸にして、人がこちらを見下ろしている。
タケノスケだった。
あれほど捜し求めていた人が、今、ひょっこりと目の前に現れたのだ。
その唐突さに、ミコもまた、とっさに言葉が出てこなかった。
同じようにぽかんと口を開けて、奇妙きわまりないところに居るタケノスケを見上げている。
なぜ、崖の途中からにょっきり生えたような姿勢でいるのだろう???
その疑問を解決してくれたのは、セイイチロウだった。
「なるほど、あんなところに横穴があったのか。」
言われてみれば確かに、窓から身を乗り出しているようにも見えなくない。
「タケ君、こんなところに居たのか。」
「え? ええ……。」
少しばかり言葉をにごしつつも、タケノスケはうなずいた。
「……そこが君の巣なのかい?」
「ええと……巣……じゃなくてねぐ……。」
「兄ちゃん!」
言葉をさえぎるようにほえたのはミコである。
先ほどまでとはうって変わり、きっ、と少年をにらみ上げている。
「何でっ、何で居なくなっちゃうの。
黙って居なくなっちゃうのっ。」
「何で……って。」
しかしミコのほうは、タケノスケの返答なんか期待していなかった。
背負っていた荷物をその場に放り出し、崖に取り付いたのである。
「理由聞くまで、帰らないからねっ!!」
なんと、登る気のようである。
さすがにこれには男二人が色をなした。
「ミコ!」
「わぁっ! だめっ、あぶないからだめだって!」
あわてて飛び出そうとして身を乗り出し、しかし落ちそうになってタケノスケはあわてて岩壁にしがみついた。
どうやら翼が無いことを失念していたらしい。
「日がくれたら、おれでもここから出られなくなるんだから。
あぶないからのぼってきちゃ、だめだ!」
タケノスケにいさめられ、父親に壁から引きはがされて、ようやくミコは抵抗をやめた。
「兄ちゃん、何でそんなところにいるのよぅ。」
「それはこっちのせりふだ。何でこんなところに……。」
「兄ちゃんを探しに来たのに、決まってるじゃないのっ!」
ぴしゃり、と言い放つミコ。
その剣幕に、全く事態が飲み込めていないタケノスケは二度ほどまばたきをした。
「どうして?」
「どうしてって……!」
ミコの中にふつふつと怒りがわいてきた。
ここ数日、あんなに心配して心配して心配して、いたというのに。
このすっとぼけた反応は、何だ!?
「何でっ、何でそんなこと言うのっ! ばかぁ!」
話が全くかみ合わない。
そしてそんなやり取りをしている間にも、周囲はずんずん暗くなっていく。
これからは、野生動物たちの時間だ。
「ミコ、ともかくタケ君は見つかったんだから。
今夜はここで寝ることにしよう。」
父親になだめられ、ミコはようやくこぶしを下ろした。
セイイチロウの言うとおり、夕飯のしたくをしながらでも問い詰めることはできる。
……降りてこられないのなら、においだけが兄ちゃんのところに届くことになるんだろうけど。
それくらいの“ささやかな仕返し”くらいはむしろ正当なんじゃないか、と頭の片隅で思った。
日が沈むと昼間の暑さがうそのように涼しくなるのは、やはり秋が近いということなんだろう。
崖を背にしてたき火にあたると、いつもよりあたたかく感じる。
飯ごうで飯を炊き、ジャガイモとみそだけのシンプルなみそ汁を作り、かんづめを二つほど開ける。
野宿をするときはたいていこれが夕食の定番だった。
飯の炊ける甘い香りが、湯気となって崖の表面を上っていく。
それにつられるように、タケノスケは例の横穴から顔をのぞかせたまま、ひもじそうな表情を浮かべて父娘の様子をうかがっていた。
さすがにこれだけ離れていれば、炎もまだがまんできるらしい。
「心配しなくても、火の始末はきちんとするから。」
ずーっとこっちを向いているのはそのためだと、セイイチロウは思ったようだ。
何しろ目の前には可燃物が、無制限と例えてもさしつかえないほど、たくさんたくさんたくさんあるのだから。
もちろんセイイチロウ個人も、森林火災の恐ろしさはよく心得ている。
植物学者という立場からも、それは絶対に防がねばならないと肝にめいじていた。
「ええ、それは、わかってます。」
タケノスケも苦笑して答える。
「で、さっきの話の続きなんだけど。
そこが君の巣なのかい?」
「巣……じゃなくて、ねぐら、です。」
苦笑したまま、タケノスケは言葉をさがしている。
セイイチロウやミコには“巣”も“ねぐら”も大して違わないように思うのだが、どうやらタケノスケにとってはそうではないらしい。
「巣っていうのは……ええと、つまり、かんたんに言うと、子どもを育てるところ、のことだから。
寝起きするところだから、ねぐら、なんです。」
なるほど、それは知らなかった。
訂正したくもなるわけである。
「しかしよく見つけたね、そんなところに横穴があるなんて。」
「おれじゃないですよ。
……おれが来る前から、幻紅鳥はここにすんでいたみたいで。
……だからそのまま、おれもここを使ってるんです。」
崖の上からも下からも、この場所へたどり着くのは難しい。
ヤマイヌやクマでは到底たどり着けくことはできない。クマタカは樹上に、フクロウは木のウロに巣をつくる。
エサになるネズミやカエルなどがいない場所なので、ヘビもほとんど通らない。
加えて入り口が岩陰になっている上に、入ってすぐの部分がわずかに蛇行しているので、奥まで雨が吹き込まない構造になっているのだという。
崖に巣を作る習性があるハヤブサなどに乗っ取られるのさえ警戒していれば、なるほどこれ以上タケノスケが夜間安心して熟睡できる安全な場所は他に無いように思われた。
「むき出しのところで寝ると体がいたくなるんで、昼間のうちに草をあつめてきてふとんがわりにしてますけどね。
……ふとんみたいに干すことができないんで、虫がわくからまめに取りかえてやらないといけないけど。」
それを聞いて、ミコは無意識に自分の二の腕をかいていた。
ああ、聞いただけで体のあちこちがなんでもないのにむずむずしてきた……。
「でも、よくここがわかりましたね。」
空中のこんな場所に横穴があるなど、知っている者でなければ気づきもしないだろう。
タケノスケがたずねると、今度はセイイチロウがにやっと笑ってみせた。
「そりゃあ、あれだけ派手に光るのは、君くらいしかいないからね。」
「ああ……。」
すっかり日が暮れてしまったから残照もそろそろ終わりとあって、たき火の明かりが届く分しか見えないが。
それでもタケノスケが目を泳がせたような仕草をしたのはミコにも見えた。
「でも、ここまでたどり着けたのはミコのおかげだよ。
飛んでいった君のあとを追いかけたのは、この子だ。」
そんなことを話している間に、飯が炊けた。
飯ごうを逆さにし、底を叩いてから起こしてふたを取る。
ふっくらと炊き上がった飯つぶは、火を映してきらきらと輝いていた。
「悪いね、タケ君。」
「……おれはもうすませましたから。」
こたえはしたが、内容ほどには声に張りが感じられなかった。
そりゃ人間の舌なら、バッタや木の実よりも白米のほうが恋しいに決まっている。
「そういえば、そろそろ実りの季節に入るな。
ここに来る途中でも、青い実をつけた木をいくつも見かけたよ。」
「もう少し……月がもう一めぐりするころには、いろんな実が食べられるようになってるはずです。
今年はヤマブドウの当たり年みたいだから、楽しみだな。」
「そういえば、ここまでヤマブドウは見かけなかったな。
あれは木にオス・メスがあるから。
どこかにまとまって生えているところでもあるのかい?」
本当にセイイチロウは何気なく尋ねたのだが。
どういうわけか、それまで普通に受け答えしていたのに、タケノスケは急に口を閉ざしてしまった。
同時に、表情も硬くなっている。
どうかしたのか、とセイイチロウが尋ねようとしたとき。
「はい。」
とつぜん、目の前にアルミの皿が差し出された。
炊きたての白米がよそわれている。
その向こうには、面白くなさそうに口をへの字に曲げたミコの顔があった。
あれからミコは、タケノスケと口を利いていない。
彼と話していたのは、ずっとセイイチロウだけだった。
「ミコ、タケ君と話したいことがあったんじゃないのかい?」
アルミ皿と箸を受け取りながらセイイチロウが問う。
「探しに行きたいって言ったのは、お前だろう。」
しかしミコはそれには答えず、それどころかぷいっと横を向いてしまった。
その様子を見ていたタケノスケもまた、表情をくもらせる。
重苦しい空気が、三人を包んだ。
「一体どうしたっていうんだ、二人とも。」
父親に問われても、ミコは口をつぐんだままである。
だがその表情はタケノスケのそれとは違い、明らかにいらだっているのが見て取れた。
「ケンカの続きをするために、わざわざここまで来たわけじゃ、ないだろう。」
「だって、」
自分の器に飯をよそう手を止めて、ミコはようやく面を上げた。