見えたのは本当に一瞬だけだったし、薄暗くなりつつある緑の屋根の下からでは去り行く姿を目で追うのはとても困難だ。
けれどミコは、それが飛び去った方向を覚えていた。
後方でセイイチロウが自分の名を呼んでいるのが聞こえたような気がしたが、振り返る気は無かった。
振り返ったら方向を見失ってしまうような気がしたから。
歩くのでさえなかなか容易にいかない天然自然の地形の中を、可能な限り全力で駆ける。
普段から父親の野歩きに同行し、町の学校に通っていた時分も体を動かすのは得意だったミコだが、昨日からの疲れがたまっていることもあり、まもなく肩が上下し始めた。
背中のかばんの中身がずれて、右に左に重心が移る。
物同士がぶつかって、ざっかざっかと嫌な音を立てている。
それがまた少女の体力をむだに削っていく。
けれど、足をゆるめようという気にはならなかった。
[もしかしたら、これが最後のチャンスになってしまうかもしれない。]
そんな気がしてならないのだ。
そうであって欲しくないと願うのに、不安と期待とが同じ勢いでふくらんでいく。
走って、走って、走って。
急速に明るさを失いつつある景色の中に、ミコは今までとは違うものが前方に現れたことに気づいた。
[壁……?]
斜面、のようである。
日の光がさえぎられているのでよくわからないが、表面を見る限り、どうやら土と岩とが混在しているようだった。
ただ、角度がかなり急だった。
ほとんど垂直といってもいい。
断崖、という言葉が一番ぴったりくるかもしれない。
その“天然の壁”が、ミコの行く手をさえぎっていた。
右を見、左を見る。
しかし彼女の願いをあざ笑うかのように、崖は左右両方向にも延々と続いていた。
つまりは、行き止まり。
「そんな……。」
それでは……と首を上に向ける。
どこでもいい、どこかに登っていけそうなところはないか!?
しかしそれも拒絶された。
なぜなら崖は、周囲の木々を軽く越える高さがあったのだから。
ついでに、登頂を許してくれそうな坂も見当たらなかった。
そんな……と思った瞬間、へたへたとひざが崩れる。
逆らえず、ミコはその場にすとんと座り込んでしまった。
あの紅い鳥は、確かにこっちの方角に飛んでいった。
ということは、きっと兄ちゃんはこの崖の向こう側にいるはずだ。
今日ほどミコは、自分に翼が無いのをくやしいと思ったことはない。
翼があれば、こんな崖などひとっ飛びだっていうのに!!
悔しくて悔しくて、悲しくて。
ミコのほほを何かが一筋、伝っていった。
「何で……っ!」
こぶしで地面に八つ当たりしてみる。
もちろん叩きつけた手のほうが痛いだけだった。
そこに、ようやくセイイチロウが追いついてきた。
娘より野歩きに慣れているとはいえ、やはり彼の背にもまた娘以上に荷が積んである。
ましてや娘が駆け出した瞬間、セイイチロウは足元に置いていた計測具を拾おうとしていた。
だから、追いかけるのがわずかに遅れた。
見失わずに追いつけたのは、僥倖(ぎょうこう)といっていいだろう。
「ミコ。」
しかし父親の気配を感じても、ミコは面を上げる気にならなかった。
……止まらなくなった涙を見られるのが、嫌だったから。
「どうした、どこか怪我したのか?」
へたり込んで泣き出した娘に、父親があわてて駆け寄る。
急いでミコは首を横に振り、崖の上を指差してみせた。
「兄ちゃんが、向こうに飛んでいったの……。」
えっ、とつぶやき、セイイチロウも示されたほうに目を向ける。
崖の表面は平らでもまっすぐでもなく、でこぼこしている上に断面もゆるやかに蛇行している。
草が生えているどころか、潅木(かんぼく)が根を張っているところもぽつぽつと見受けられた。
そしてここから見る限り、崖の上にも森の続きが広がっているようだった。
「こりゃ、どうも大昔の地震の跡みたいだな。
専門家じゃないから詳しいことはわからないけれど……。」
表面が風化し、植物が茂っているところを見ると、この断層ができたのは最近ではない。
草木に隠れてしまって、地層のしま模様も素人では判別がつかなくなっている。
植物の成長具合から見ても、百年単位の時間をいくつも越えてきているようだった。
「このあたりにこんなものがあるとは、聞いていなかったな。」
表面に近寄ると、セイイチロウはそうつぶやいて、左手で表面に触れながら断層にそって歩き始めた。
これだけ高低差があると、まず普通の動物では直接の往来は難しい。
それができるのはやはり鳥や昆虫といったものたちくらいだろう。
物理的に分断されている崖の上と下とでは、それによって植生にも何かしら変化が出るのだろうか。
そんなことを考えながら、歩を進めていくと。
「うん?」
ふと、視界の端に何かが映り、セイイチロウは反射的に首を上げた。
「ミコ!」
口調にするどさが加わっている。
呼ばれて娘は父親のうしろ姿へと目を向けた。
「今、あそこ、あの岩かげが光った。」
セイイチロウが示したのは、崖の表面、下から三分の二ほどの高さのところにある出っ張りだった。
夕刻の残照の中、奥の断面に差していた長い影が消えつつあることからも、あの岩の向こう側が大きくくぼんでいることが想像できる。
あの向こうはどうなっているんだろう。
「あの光は……もしかしたら。」
セイイチロウが皆まで言うより先に、ミコは腰を上げていた。
ぐい、と手の甲で涙をぬぐい、示された岩の向こう側が見えるところ目指して小走りに進む。
途中、木の根に足を取られてよろめいたが、足元を確かめつつ進むなんていうもどかしいことは、もう頭になかった。
ようやく回り込んでみたが。
しかし期待とはうらはらに、これといったものは見当たらない、ように思われた。
日が沈んでしまった上に影になっているので、よく見えないのだ。
当然、紅いものなんてかけらも見当たらない。
「パパ……。」
「おかしいな、ここまで完全な自然の中で、あれだけ強い光を発するものなんか、他に考えられないんだけど。」
腑(ふ)に落ちない、といった具合で、セイイチロウもミコのとなりで“壁”を見上げる。
しかしどれだけ目をこらしても、探し人の姿は見つけられず。
大きく大きくふくらんでいた心の風船が、急速にしぼんでいくのを、ミコは感じた。
パパはつまらないウソなんかついたりしない。
信じているし、誠実な人だってこともよく知っているんだけれど。
……やっぱり、見間違いだった、ということなんだろうか。
やりきれない。
「兄ちゃあぁぁん!」
無駄だと思いつつ、叫ばずにはいられなかった。
「どこに居るのよおおぉぉ!
返事くらいしなさいよおおぉぉぉっ!!」
心の鬱屈(うっくつ)を全て吐(は)き出してしまうかのように、腹の底からしぼり出すように叫んだ声は、断崖にぶつかって、木々にこだまして、辺りにひびいた。
寝入りばなに大音声を浴びせられておどろいた鳥たちが、ぎゃあぎゃあと悲鳴を上げて飛び立つ気配が背後でわき立つ。
そんな娘をなだめようと、セイイチロウが肩に触れようとしたときだった。
「ミコ!?」
とつぜん、二人の頭上から第三者の声が降ってきた。
人間の声が。