結局その日は家には戻らず、二人は野宿をすることになった。
野宿は初めてではない。
今までにも何度か経験しており、そのいずれもが遠方への調査行でのものだった。
もともとその覚悟の上だったので、大自然下で夜を過ごすのに必要なものは持ってきている。
細心の注意を払って火をおこすと、二人は炎をはさんで向かい合った。
火にかけた飯ごうの中で、ふつふつと米が煮えている。
森の中は薄暗くなって久しいが、日没までにはまだ四半時あるように思われた。
立秋も過ぎたが、それでもまだ昼の時間のほうが長い。
泊りがけの野歩きには、いつもセイイチロウひとりではなかった。
夜間にミコをひとりにするのはまだ心配だったし、……この森を熟知した同行者もいた。
火をおこす段になると嫌がって逃げてしまうので、野天でゆっくり話をしたことはほとんど無かったが。
紅い鳥はいつも黙って二人についてくるだけだったけれど、言葉は無くてもただ一緒に居るだけで、それはとても充実した時間だった。
……一緒に居るのが、ごく当たり前のことだと、思ってしまえるほどに。
飯ごうのとなりで汁物を作るなべの中身をゆっくりかき回しながら、ミコは何となしに頭上を見上げた。
昼間はまだまだ強い木もれ日に照らし出されて、葉の一枚一枚まで見分けがつくほど見通しがよかったのに。
こずえの向こうの空はまだ薄明るいのに、枝葉の下はこんなに暗い。
焚き火の光が届いている範囲より外は、目をこらさないと落ちている小枝の一本も見分けがつかなさそうで。
[兄ちゃん、そろそろおうちに帰るころかな。]
日が暮れれば、翼は無くなる。
火を使えなくなった身で、生身の人間が森の中で夜を明かすのはなかなかに厳しいものなんだ、といつかタケノスケも言っていた。
日が暮れてしまう前に安全な隠れ場所に引っ込んでしまうという生活を、あの人はもう何十年も続けてきたのだ。
今、ミコの目の前では炎が赤々と燃えている。
夏場で気温は高いのに、炎のそばに居るのはそんなに嫌ではない。
ミコにとってはごく当たり前……というより炊事係でもあるしごくごく日常的なことなので、改めて考えたことなんか無かったけれど……。
ゆらゆらと踊る、オレンジ色でいて、そのくせ実体の無い“それ”をみつめて、ミコは黙々と手を動かし続けていた。
夜が明けると、朝食もそこそこに二人はまた歩き出した。
緑の天井があるため、森の中では気温の変化がゆるやかだ。
それでも日が昇ってしばらくは、ひんやりとした空気がほほにふれる。
セミの音はあいかわらず絶えないが、それでもやはり盛夏に比べれば少し減ったような気もする。
そういえば、屋根の下で眠っているときは気づかなかったけど、昨夜はセミの音もほとんど聞こえなかった。
代わりにコオロギの音が耳についていたのを思い出した。
原生林ということは人の手が全く入っていないということで、人の手が入っていないということは、そもそも道など無いということでもある。
だから、進めば進むほど障害物は多くなる。
ミコが足をすべらせて転びかけたところを、とっさにセイイチロウが腕をつかんで引き止めた。
「少し休むかい?」
父の問いに、しかしミコは首を振った。
「まだ大丈夫。」
ズボンについた土を払い、荷物を背負いなおす。
重いものはセイイチロウが受け持ってくれているものの、ミコの背負い袋の中にも野宿の道具がいっぱい入っているから、結構な重さがあった。
しかし心配する父親に構うことなく、ミコはまた歩き出した。
古い森には、それに見合うだけの古い樹も少なくない。その広大な面積に見合うかのように、思っていたよりもひんぱんに出くわす一帯もある。
もちろん若い木も多いのだけれど、威厳というか存在感といったようなものは、それらが十本束になってかかって(?)も到底かなわない。
なかには大人三人が手をつないでも届きそうにないほどの幹周りのものもあったりで、そこまでくると天上から差し込む木もれ日の具合ともあいまって、むしろ神々しさすら感じさせる。
その木もれ日にすがるように、大木の合間合間には潅木(かんぼく)などがひっそりと、ただしそれなりに生き生きと緑をしげらせていたりする。
ときおり遠くに近くに鳥たちのさえずりが届く以外は、大地を踏みしめる自分たちの足音とかばんに下がっているクマよけの鈴の音くらいしか、聞こえるものは無いけれど。
植物たち――この場合は”森”といっていいのか――が呼吸する音まで聞こえてきそうで。
うっすらと浮かんできた額の汗をぬぐい、ミコは今日も頭上をあおぐ。
兄ちゃんはいつも、直接地面の上に降り立つことはあまりなかった。
尾羽が汚れるのが嫌だから、と言っていた。
だから、うつむいてばかりいちゃ駄目だ。
もしあの紅い鳥が近くにいたとしても、それはきっと自分の目線よりもずっと高いところのはずだから。
枝葉の向こうの空は、今日も青い。
泊りがけの調査行は今まで一泊ですませていたので、このあたりはミコだけでなく、セイイチロウにとっても始めて訪れる場所だ。
道に迷わないよう道中では、木々の枝に白い紙を結びつけながら進んでいく。
と同時に、セイイチロウの足取りも、昨日以上に止まりがちになってきた。
植物学者は娘と違って、足元のほうが重要なのだ。
そしてそのつど、ミコも足を止めざるをえない。
下手に歩き回って父親とはぐれてしまうおそれがある。春の二の舞はさすがにもうごめんだった。
[……でも。
そしたらまた兄ちゃんが助けに来てくれるかもしれない……。]
ふと変な誘惑にかられて、あわてて首を振り邪念を飛ばす。
セイイチロウがついにかばんから何かを取り出してしゃがみこんでしまったため、ミコはあきらめて地面のこぶになっている部分に腰を下ろした。
[本当に、どこに居るんだろう……。]
ほおづえをつき、無意識に嘆息する。
何しろ、相手は空を飛べるのだ。
自分たちが地面の上でうろうろしている間に、この森から出られないという制約を含めても、翼を広げれば短時間でどこへでも行けてしまう。
……そんなつもりはなかったのに、気がついたらひざをかかえて顔をうずめていた。
もう何日会ってないんだろうなぁと思ったら、なんだか今まで以上に心が重くなってきた。
天気が良いのが、むしろ無性に腹立たしく思えるくらい。
正体不明のため息をひとつつくと、ミコは立ち上がった。
誰かが昼食の用意をしてやらないと、あの父親は平気で一食抜きかねないのだ。
そんな具合で結局その日は、セイイチロウの足が止まってしまったということもあり、それほど歩き回ることはできなかった。
今度は巻尺を取り出し、たて方向にいくつも樹皮が割れている木の幹周りを計測している。
名前は何だったかちょっと忘れてしまったが、確かどんぐりが生る木だと教えてもらったような気がする。
これもなかなか立派な木だ。
ミコの身長を二倍しても、まだ一番下の枝まで届きそうにない。
「パパ。この木って樹齢何年くらいなの?」
「そうだなぁ……。」
計測値を手帳に書き付けると、セイイチロウは数歩後ろに下がり、改めて木の幹を見やった。
「田んぼの真ん中にぽつんと立っているのとはわけが違うからねぇ。
……五十年、ということはないだろう。
百年前後ってところかな。」
とはいえ相手は人間よりもずっと長生きするものだから、誤差は十年前後はあるんだろうけど。
「百年……ということは、兄ちゃんよりも長生きってことになるのかな。」
「かもしれないな。
木ってやつは我々動物とは違って、生きている限り大きくなり続けるものだからね。」
父親の視線を追うように、ミコもまたこずえへと視線を向ける。
枝葉の向こうの空は、わずかに赤みが差し始めていた。
[じゃあ、兄ちゃんが初めてこの森へ来た日のことも、この木は知っているのかな……。]
「ところで、ミコ。」
話しかけられ、ミコは父親へと視線を戻した。
「……これからもう一泊、野宿をすることになるわけだが。
……明日はもう、帰るよ。」
「うん……。」
視線をそらし、ミコはうなずいた。こぶしが固くにぎられる。
食料は三日分しか持ってこなかった。
二人で運べる荷物の量にはやはり限界がある。
それに、残してきた動物たちのことも気がかりだ。
チャップは家の中にいるからまだいいとしても。
モモコとタローは屋外である。
本当はタローも同行させたかったのだが、クマやヤマイヌがうろついている(という話だ)森のなかに、モモコ一頭だけにしておくのはさすがにはばかられた。
二匹とも、ミコにとってはやはり大切な家族である。
それに、モモコは父娘にとって唯一の交通手段である。もしものことがあったら大変困るのだ。
紅い鳥にばかりかまけていて三匹をないがしろにすることも、やはりできなかったし、許されることではない。
後ろ髪は引かれるが、帰らないわけには、いかなかった。
未練がましいと思いながらも、それでももう一度確かめたくて、ミコは再び緑の天井の向こう側を見やった、そのとき。
つい、と何かが空を横切った。
それは、これだけ離れていても、そしてわずか一瞬見えただけだったけれども、とてもはっきりとミコの目に映った。
青とオレンジの中間色へと移ろいつつある背景の中にあってもなお、鮮やかな紅。
後方にゆらゆらとたなびいていた、尾羽。
「見つけた……!」
短く叫ぶと、ミコは駆け出していた。
今度こそ、見失ってはならない。