翌日。
ミコとセイイチロウは早速身支度を整えて野歩きに出発した。
セイイチロウの背負いかばんの中には、あのスケッチブックが二冊収められている。
一冊は自分のもの、もう一冊は……。
その分かさが増えてしまったが、植物学者はいっこうに気にしていなかった。
どうしても、確かめたいことがある。
それに少し遅れて、ミコとタローが続く。
タローはいつもと同じように高揚する気分を抑えられないのか、主人に先行したり、あるいは道中にあるものに気をとられて後からあわてて追いかけてきたり……といったことをくり返しているのだが。
ミコのほうは、家を出てから一言も口を利いていなかった。
普段なら、目的が目的だけに、父娘の間では頻繁に言葉が飛び交っているのだが。
無言のまま進む二人の足取りは、いつもより速い。
このあたりはまだ、平素から頻繁に訪れている域である。
おそらくこの近辺に紅い鳥はいないだろう。
ここまで来ているのであれば、父娘の家まで足を伸ばさない理由など無いのだから。
だから、きっと、もっと、ずっと奥。
深い森の木々の間にひびくセミの声は、盛夏のころとは種類が変わっていた。
晩夏を示す、物悲しいひびきのものに。
いやセミ自身にとっては、物悲しいなどという自覚は無いのだろう。
それはあくまで聞き手……人間が勝手に寄せる思い入れなのだから。
夏が、終わろうとしている。
面を上げて頭上を振り仰ぎ、ミコは改めてそのことを実感した。
いつもの年なら、今頃夏休みの宿題も大詰めに入ってくるころである。
絵日記にてこずった年もあったっけ。
そう、お母さんが体調を崩した年だ。
結局そのまま、復調することは無かったけれど……。
それまで当たり前のように居た人が、居ることが当たり前だと思っていた人が、ある日をさかいに突然居なくなってしまう。
そんな経験をミコはしてきている。
だから後から後悔しないように、自分と関わる人と過ごす時間は精一杯大切にしたいと、思っている。
それなのに。
[このまま会えなくなっちゃうなんて、嫌だよ。]
……こんなことなら、あんなつっけんどんな態度なんか取るんじゃなかった。
兄ちゃんの言い分を、ちゃんと聞けばよかった。
だから、ミコは必死に足を動かす。
パパはどういうつもりか知らないけれど、少なくとも彼女は、紅い鳥を見つけるまでは家に帰らないつもりだった。
だって、絶対おかしい。
タケノスケが数日訪ねてこなかったことは、今までにも何度かあった。
以前は食後の談笑を楽しむのが主目的だったはずだから、兄ちゃん自身はきっとそれでもよかったんだろう。
でも、ここしばらく兄ちゃんは読み書きに熱中していた。
それこそ、今までとは比べものにならないくらいの夜更かしを毎日続けたり、……ミコのことをさっぱり構ってくれなくなったりするほどに。
それを、突然止めてしまったりするものなんだろうか。
飽きたのかもしれない、という可能性も、そりゃ全く無いわけじゃないんだろうけど……。
でも長年“人間らしさ”に飢えていたタケノスケが、些細な理由で人間だけが扱える“文字”への執着を手放してしまうとは、ミコにも思えなかったのだ。
そんな今までとは違う、正体不明のざわめきが心の奥底に湧きかけていたときに。
あの絵を見つけてしまった。
読み書き以上に、タケノスケが欲していた、絵を描くという行為。
スケッチブックと色えんぴつを贈られ、あんなに強い拒絶を示していたというのに。
あれ以来、むしろ避けるように決してさわらなかったというのに。
どうして、今ごろ。
それも、まるで自分たちの留守を狙ったかのようなタイミングで。
ざわめきは暗雲となり、こうして歩いている今も、どんどんミコの胸中に広がっていく。
見つけなければ。
兄ちゃんを見つけなければ。
でないと、取り返しがつかないことになりそうな気がしてならない。
……いざ見つけたとしても、何て言えばいいのかよくわからないけれど……。
とつぜん、左手奥でけたたましい鳥の鳴き声が上がった。
セイイチロウとミコが同時に面を上げる。
鳴き声はそれほど遠くではなかった。
そして考えるより先に、ミコは走り出していた。
脳裏をかすめたのは、春先の出来事。
大きな倒木の向こう側に、ぐったりと横たわっていた紅いかたまり。
「ミコ、待ちなさい。ひとりで行っちゃ……!」
後方からセイイチロウの声が飛んできた。
小さな坂を駆け上ろうとして、足でも取られたのだろうか。
しかしミコは振り返りはしなかった。
何かを見失うまいとするように、前だけを向いている。
「ミコ!」
こぶを乗り越え、地表に盛り上がっていた大木の根を飛び越え、土だか落ち葉だか区別がつかなくなっているものの下に隠れていた大きな石に足を取られて転びそうになり、とつぜん現れた下り坂にバランスを崩しかけ。
ミコは駆けた。
駆けて駆けて、息が上がって走れなくなり、ようやく足を止める。
ぜぇぜぇと肩で呼吸し、手近な木に背を預ける。
そのままずるずると地面に腰を下ろした。
…………さっきの鳥の鳴き声、こんなに遠かったっけ?
そう気づき、今度は全身から力が抜けていくのを感じた。
当然あの鳥の声はもうどこにも無く。
代わりに晩夏を告げるセミの声だけが、四方八方から聞こえてくるのみで。
なんだか泣きたい気分になってきたところに、今度は遠く父親の声が聞こえてきた。