五日ほどが経過した。
タケノスケは、あれ以来一度も訪ねてこない。
あれほど熱心に続けていた読み書きの練習も当然、中断したままになっている。
ここしばらく毎日のように訪ねてきていただけに、突然来なくなると、もともとそう広くもないはずなのに、なぜだか家の中ががらんとしているように感じられる。
…それだけ、彼の存在はミコにとって“当たり前”のものになっていた、ということなんだろう。
それでも、いつ訪ねてきてもいいように夕食は三人分用意しているんだけれども。
三つ目の茶碗は、今日も使われることはなかった。
[兄ちゃん、怒ってるのかな。だから来ないのかな。]
洗わずに済んだ茶わんを洗いかごの中に戻しながら、ミコはそっと嘆息した。
あんなあんなあんな、あんなとこを見られて心中穏やかでいられる女の子が、はたしているだろうか?
けど、でも。
もし。もしも、本当に、兄ちゃんは「見ていない」のであれば。
[うー……。]
ひとつだけはっきりしていることがあるとすれば。
[これっきり、ケンカ別れってのは、嫌だな…。]
町にいた時だって、友達とケンカしたことは何度かあった。
その原因は、そのときはものすごく大事に思えたのに、実はそんなに大したことじゃなかったと後から思い直したことも一度や二度じゃない。
次の日学校で顔を合わせるのが気まずくて、でもぎくしゃくした変な感じがいつまでも続くのはもっと嫌で。
自分から謝ったり、相手が折れてきたり、時には友達に仲介してもらったりして、仲直りというものもいくつも経験してきた。
けど、それも相手と会う機会があるというのが大前提で。
こうして何日経っても会うことすらできないのでは、仲直りのしようもない。
[うん、今回は特別に許してあげよう。そうしよう。]
あれだけはっきりと問い返されたのだから、本当に見ていないのかもしれない。
なら、仲直りしてあげてもいい、と思う。
「ミコ、明日は町に出るんだから、早く寝なさい。」
手を止めてぼうっと窓の外を見つめていた娘の背に、セイイチロウが声をかけてきた。
その手には書類を入れるための皮製の四角いかばんがある。
「うん……。
パパのほうはどうなの? 研究所に送る報告書できたの?」
「いや、あともう少し。
僕は仕上げてから寝るから、先に寝ていなさい。」
「はぁい。……あのさ。」
いすから立ち書斎に引き上げようとしていた父親を、今度はミコが呼び止める。
かばんを下げたまま、セイイチロウは肩越しに振り返った。
ここ数日昼間だけでなく夜間も書き物をしていたらしく、目元にはうっすらと疲れの色が浮かんでいる。
「なんだい?」
「帰ってきたらさ……その、兄ちゃんに会いに行っても…いいかな。」
「それは……構わないが。」
自身もタケノスケのことは気になっていただけに、セイイチロウはあっさりとうなずいた。
「会いに行くって……ミコ、タケ君がどこに居るのか知ってるのかい?」
問いに、ミコはゆるゆると首を振った。
知っていれば、もっと早く会いに行っている。
何しろこの森は人の足にはあまりに広大すぎて。
加えておそらくタケノスケにとっては庭のように、すみからすみまで知りつくしている場所であろうことは間違いないだろうし。
いうなれば“地の利”とでもいうようなものは完全にあちら側にある。
[そういえば、兄ちゃんのおうちがどこにあるのかも、まだ聞いてなかったな。]
この森に越してきて約五ヶ月が経つが、それでも自分たちはまだこの森のほんの一部分しか知らないのだ。
そんな気持ちが面に出ていたんだろう。セイイチロウはやれやれとでもいうように、ひとつ嘆息した。
「このところこもりきりだったからな。僕も行くよ。
まだ足を伸ばしていないところもたくさんあることだし。」
「ありがとう、パパ。」
うなずいて、セイイチロウは今度こそ扉の向こうへと消えていった。
ミコも残りの洗い物へと向き直る。
今度の買出しも、納豆は購入リストの連ねておけそうだ。
翌々日の夕刻のこと。
二人が買出しから戻ってみると。
「あれ?」
屋内に踏み込んで、ミコは軽い違和感を覚えた。
一見何とも無いようだが……。
そこかしこに物を動かした形跡がある、ような気がする。
[まさか、ドロボウ!?]
たちまちにして心中に黒い雲が湧き上がる。
鼓動が急に早くなった。
おそるおそる、室内に足を踏み入れる。
主人の微妙な表情の変化を察したのか、ミコの後ろでタローが三度ほえた。
相変わらず尻尾は楽しそうにゆれているけれど。
「パパ。」
表に向かって父親を呼んでみる。
しかしモモコを洗いに連れて行ってしまったのか、返事はない。
二日留守にするわけだから一緒に町へ連れて行くので、チャップのケージはまだ荷馬車にのせたままだ。
薄暗い屋内はしんと静まり返り、生き物の気配は感じられない。
それでも念には念を入れて、ミコは扉の近くに打ち付けた釘に引っ掛けてあったほうきを手に取った。
何も無いよりはずっと心強い。
一歩、二歩、足を進める。
まずは戸棚に近寄り懐中電灯を手に取って、居間を照らしてみた。
……際立った異常は見当たらない。
もともと物の少ない家なので、散らかしようが無いともいうんだろうが……。
加えていうなら金目のものだって無い。
大自然の中では金銭も貴金属も意味を持たないから、余計な荷物にしかなりえないのだから。
一とおり照らした後、今度は自分の部屋のほうへと足を向ける。
そおっと扉を開け、すき間から中をのぞき。
やっぱりおかしなところは無い。
出しっぱなしにしてあった本も、板の間の片すみにたたんで寄せてあった布団も、ちゃんと昨日と同じ場所にあった。
きびすを返し、今度は父親の書斎へと向かってみる。
荒らされる可能性があるとしたら、この部屋だろう。
自分にとっては意味のわからないものでも、見る人によっては金銀よりもずっとずっと価値あるものがこの部屋にはごろごろしているのだ、ということくらいはミコも知っている。
しかし、こちらも人の気配は無かった。
そもそもセイイチロウの蔵書に加えて、森のあちこちから採取してきたサンプル植物が、一部を除いていまだ未整理の状態で無造作に置きっぱなしになっているのだ。
……もともと混沌としている部屋なので、荒らされているのかどうかは部屋の主でないとわからない……。
しかし、不審な人物も生き物もひそんでいる様子はないと知り、ミコはようやく胸をなでおろしてほうきを手放した。
マッチでランプに火を入れる。
居間にオレンジ色のやさしい明かりが広がった。
しかし。
武装(?)はといたものの、ミコの違和感はいまだに晴れない。
……なんなんだろう?
改めて室内を見渡して違和感の正体を探り。
やっと気付いた。
出かける前。全てきちんと入れておいたはずの、いすの一脚が。
わずかに引いてある。
以前の住人が残していったものではなく、今年に入って誰かが手作りした、比較的新しい一脚が。
あのいすは、三脚あるうちでも玄関扉から最も遠い位置になる。
もし訪れたのが部外者であるなら、最も手前にあるセイイチロウのいすを使うはずだ。
そこまで考えて、ミコは暖炉の右手にある飾り棚に目を移した。
わざわざあそこの席を使うのなら、食事以外にそこでする用事といえば……。
近寄ってみると、思ったとおり、写真たての右側にしまってあった筆記具類もまた、自分がかたづけたときとは置き方が異なっていた。
使って、戻したのだ。
それを確認するとミコは、もうじっとしてなどいられなかった。
きびすを返し、一目散にロバ小屋へと向かう。
その後ろをやっぱりタローが元気よくついてきた。
「パパ、パパ!」
「何だ、向こうに忘れ物でもしてきたのかい?」
しぼった古タオルでモモコを拭いてやっていたセイイチロウが怪訝(けげん)な顔をして手を止めた。
夏場なので日没までにはまだしばらくあるが、それでも日差しは確実に夕刻のものになりつつある。
切り開いたとはいえ森の中の小さな広場に過ぎないこの家の周囲は、生存競争激しい森の植物たちの進出をいやおうなく受けていた。
少し前まではタケノスケがこまめに除草してくれていたけれど、最近はすっかり伸び放題だ。
……明日あたりはいよいよ自分てやらねばならないだろう。
繁茂する雑草の間をぬって、ミコがロバ小屋まで走ってくる。
「ちがう。あのね。兄ちゃんが、」
「タケ君? タケ君が来ているのかい?」
息を切らしながら、ミコは首を振った。
「ううん、今はいないけど。
でも、昨日来てたみたいなの。それでね、」
娘の説明を聞き、セイイチロウはモモコの世話もそこそこに、家に飛び込んだ。
荷馬車には買い出してきた物資が、ついでにチャップのケージものったままだが、後回しである。
残照の中、セイイチロウは娘が示した飾り棚へとまっすぐ向かった。
「ね?」
このところ自分の仕事にかかりきりで、家の中のことなどほとんど放置していたセイイチロウだったが。
ミコの言うとおり、確かに筆記具類はいつもと違う置かれ方をしていた。
――書き取り帳の上に、スケッチブックが乗っていたのだ。
それはつまり…。
手にとって、スケッチブックを開いてみる。
「……ほぉ……こりゃ……。」
表紙をめくって、セイイチロウは思わず感嘆の声をもらしていた。
というのも。
「すごい……。」
横からのぞきこんだミコも、目を丸くしている。
二人の目の前には、黒い鉛筆だけで描かれた、一輪の花の絵があった。
それは、教科書にのっていた有名な画家の絵のような立体感とか陰影などは全然無い、のっぺりとした感じのものであったのだが。
よく見ると、いやよく見なくても、細部までていねいに描き込まれていて。
それはまるで押し花がそのまま白黒の絵になったかのような、写実的な作風であった。
花びらの裏側のガクだけでなく、葉脈の様子まできちんと書き込まれている。
作者の力量が相当なものであることは、芸術に縁の無い二人にも、十分に察することができた。
「これ、兄ちゃんが描いた……んだよ……ね?」
「少なくとも、僕たちではないからな。
そういうことになる。」
答えはしたが。
しかしセイイチロウの関心は、娘のそれとは若干異なるところにあった。
スケッチブックを持つ手がかすかに震えている。
「それにしても……色がついていないから、確証は無いが……これは……、」
つばを飲み込んだ音が、やけに大きく耳に届いた。
「これは……スザク草じゃないか!」