間が悪い、というのはこういうこともいうんだろうか。
その日の晩、夕食をとるタケノスケとミコの間には、なんだかいつも以上に妙な空気がただよっていた。
いつもあれだけ飛び交う会話が全く無ければ、いくら頭の中が中間報告のことでいっぱいのセイイチロウでも、さすがにおかしいなと気づいたらしい。
明らかに怒っているのは、ミコだ。
それはここしばらくずっとのことなので、いまさらなのだが。
タケノスケのほうも、不機嫌さを隠そうともしない仏頂面で、黙々とはしをすすめている。
二人の席は隣り合っているから、向かいに腰掛けているセイイチロウは嫌でも両者の顔をながめながらの食事になるわけで。
「……どうしたんだ、二人と」
「なんでもない!」
父親のセリフが終わるのも待たずに、先にぴしゃりと言い放ったのはミコだ。
室内の空気が軽くぴりりと震えて、驚いたチャップがケージの中を二往復した。
「……なんでもないなら、そんな顔してご飯を食べる」
「なんでもないったら!」
……取り付くしまも無い。
娘の態度にいささか気分を害しながら、セイイチロウは今度は少年のほうに視線を向けた。
「なにかあったのかい?」
「おれのほうが教えてもらいたいくらいで。」
梅干をつまみながらタケノスケが答える。そして、その味に顔をすぼめた。
「どうして、昼間上を通りがかっただけで文句を言われなきゃならないのか、さっぱりわからない。」
「どうして? どうしてって、そんなこと言うの!?」
眉間に峡谷を刻みつつ、ミコはようやっとタケノスケに向き直った。
利き手に握られたままのはしが凶器然として見えるのは気のせいだろうか?
「信じられないっ!」
「だから! いったい何が気にくわないのさ!?
おれが何をしたっていうんだ!?」
「だって……!」
そこでどういうわけかミコは言葉に詰まった。
怒りのためかあるいは他に何か理由があるのか、興奮してますます紅潮する。
「み…………、」
「み?」
「……見たんでしょ。」
ぎろり、という眼差しとともに向けられた言葉は、ずいぶんとありふれた言葉だった。
そして、それに対するタケノスケの反応もまた。
「なにを?」
しごくありふれたものだった。
間髪入れず怪訝(けげん)な表情のまま問い返したということは、セイイチロウの目にも彼に心当たりがなさそうだということは容易に察しがついたのだが。
ミコにとっては、どうやらそれすらも気にくわなかったらしく。
タケノスケをみつめたまま、しばらく無言でわなわなと肩をふるわせたのち。
「……ばかあぁぁっ!!!」
叫ぶと、食卓に食器を叩きつけるように置き、そのまま先日と同じように自室に飛び込んでしまった。
居間に、奇妙な沈黙が舞い降りる。
釈然(しゃくぜん)としない表情を浮かべたまま、男二人はたがいに顔を見合わせた。
次いで、セイイチロウの目が物問いたげなものに変わる。
娘を持つ父親としては、「見た」という単語はちょっとばかり聞き捨てならない。
いくら信用しているとはいえ、相手が男性となればなおさら。
「あの子が、何の根拠も無しにあそこまで怒るとは、思えないんだが。」
「本当に、心当たりなんて、いわれても。」
セイイチロウにまで不審の目を向けられて、タケノスケは手にした茶碗の中へと視線を落とした。
昔弟と並んで食べた飯の中に、米つぶが入っていることはまれだった。
茶わんの中に残るつぶはどれもまぶしいほど白いけれど、あのころは特別な日にしか食べられなかったごちそうなのに、このところあまりおいしくないと感じるのは、なぜなんだろう。
「……昼すぎにとおりかかったとき、水場にミコがいるのが見えて。
近よったらいきなりさけんだから、びっくりしてかけつけると、こんどはもっと大きいひめいを上げられて。
それどころか、たわしまでなげられて。」
昼間の驚きと理不尽(?)な仕打ちを思い出したのだろう、タケノスケの眉間に小さなみぞが浮かんだ。
「そりゃ、だれだって人に知られたくないこととかはあるんだろうけど……。
何をしていたのかは知らないけど、でもあそこまではらを立てるくらい”見られたらこまること”だったなら、さいしょからしなきゃいいのに。」
「見られて、困ること。」
言われて、今度はセイイチロウが眉根を寄せた。
ミコは素直な子だ。
親や、もはや家族同然のタケノスケに対して、隠し事をするような娘ではない。
少なくともセイイチロウはそう信じている。
なら、どちらかが大きなかん違いをしているのではないか。
タケノスケもうそを言っているようには見えないし、セイイチロウにはそう推測(すいそく)するしかない。
何より書きかけの中間報告のことが気になって、二人のもめ事に関わるどころか、こうして食事をとる時間さえ惜しいというのが本音だった。
だから。
「ともかく、明日ミコに話をきいてみよう。
なに、一晩たてば頭も冷えるさ。」
普段から感情表現の豊かな娘である。
おそらく今は気が立って感情が先走っているだけだろうから、「見た」「見ない」の論争の的は、実は存外些細(ささい)なことなのかもしれない。
そう言ってセイイチロウはタケノスケをなだめたのだが。
少年は先ほどと同じ、茶わんに視線を落としたまま、手を止めていた。
いや、視線は茶わんの中に向けられているけれど、なにやら考え込んでいる風情である。
先ほどまで憤慨(ふんがい)していた面(おもて)には、わずかに憂(うれ)いの色が加わっていた。
「……タケ君?」
が、声をかけるとすぐに我に返った。
思い出したように忙しくはしを動かす。
茶わんの中身を空にし、湯呑みに入った麦茶を飲み干すと、タケノスケはいつものように手を合わせて「ごちそうさまでした」とつぶやいた。
いつもなら、食器を炊事場に戻したあと例の筆記具を取り出して読み書きの練習を始めるのだが。
浮かない表情のまま、タケノスケはなぜか食卓にではなく、玄関扉のほうへと向かった。
「きょうは、外でねます。」
「え?」
一瞬彼の言う意味がわからず、セイイチロウは言葉を詰まらせた。
“人間”にとって、夜間の森がいかに危険な場所なのか。
それは自分よりもミコよりも、タケノスケ自身のほうが身に染みてわかっているはずである。
いくらこの森の中を熟知しているとはいえ、夜行性の動物たちによる危険もさることながら、屋外ではカやヤスデなどの虫にも刺され放題だ。
人家という安全な場所をわざわざ出て夜を過ごそうという彼の意図を、文明世界で生まれ育ったセイイチロウには理解しかねた。
しかしタケノスケのほうは男が困惑する理由を察したらしく、ほんの少しだけ……ただし安心させるために無理やり口の端を上げたんだということがあっさり判るような、ほのかな笑みを浮かべてみせた。
「日がくれるまでにねぐらに帰れなかったときのために、あちこちにかくればしょを用意してあるんです。
そこに行きます。」
それがこの近くにもあるのだという。
春先にケガの治療のために通っていたときも、そこに身をひそめて昼夜を過ごしていたのだと、少年は言った。
ではおやすみなさい、と告げると、タケノスケは静かに夜の帳(とばり)の中へと姿を消した。
その後姿は、どことなく寂しげで。
静かに閉じられた玄関扉をみつめたまま、一人居間に取り残されたセイイチロウはタケノスケを止めそこなったことに軽い後悔を覚えていた。
窓越しに聞こえてくるコオロギの音が、やけに耳についた。
家の裏手では、スイカがいまだ小川の流れにその身を沈めたままになっている。